電話ボックス

スマホの電源をつけて初めて、夜の七時を過ぎていたことに気がついた。


暗闇で視界が悪い墓地から、なんとかお寺の門の前まで戻ってくる。

早く帰宅しよう、とスマホの地図アプリを開いた瞬間。


プツッ。

いきなり画面が真っ暗になった。


バッテリー切れ…。

地図がわからないと家に帰れない。

この辺りは全く知らない地域で、お寺まで来るのもスマホに頼りっぱなしだったのに。


途方に暮れたまま周りを見回すと、少し先に、ぼんやりと光っている箱のようなものを見つけた。


あれって、もしかして。

駆け足で近づいていく。


──やっぱり。

それは、電話ボックスだった。

小さい頃によく中に入って、「ここ、私のお部屋!」とはしゃいでいた記憶が蘇る。


私はゆっくりと扉を開けた。

ボックス内には緑色の電話が置かれていて、外と比べるとほのかに暖かい。


…さて、どうしようか。

家族に電話で事情を話して迎えに来てもらおうと思っていたが、あいにく今は無一文だ。

ダメ元で、コートのポケットに手を突っ込む。


…あっ!

私は思わず叫び出しそうになった。 

──何か、硬い感触がする。

ポケットから手を引き抜き、拳を開く。

百円玉だった。こんなところに入ってるなんて、奇跡だ。

本当は十円でよかったけれど、お金を惜しんでいる暇はない。


私は受話器を取って硬貨を入れ、慎重に家の電話番号を押した。


トゥルルル…、トゥルルル…、トゥルルル…。


ガチャッ。


「もしもし、お母さん?」


──でも、私の電話に出たのは。


「お電話ありがとうございます。こちらはタイムスリップサービスセンターです」


男か女かもわからない、機械的な声だった。


「…え?タイムスリップサービスセンター?」


何を言っているのか分からず、私はオウム返しする。


電話番号を押し間違えた記憶はない。

この電話が壊れていて、変なところにつながってしまったのか。それとも…。


声の主は、こちらに構わずに淡々と言葉を続けた。


「この電話を続ける場合は、1のボタンを押してください」


「あの、ちょっと待ってくださ…」


「終了する場合は、このまま電話を切ってください」


どうやら、これは録音か何かの音声らしい。会話はできないようだ。


受話器の奥からは、それっきり何も聞こえてこなかった。


私は、混乱した頭を必死に働かせる。

1のボタンを押すか、電話を切るか。

でも、電話を切ると家に連絡できなくなってしまう。お金はもう持っていない。


──それなら、続けるしか選択肢は残っていないはずだ。

サービスセンターの人が電話に出て、なんらかの方法で家に連絡してくれるかもしれないし…という淡い期待もあった。


1のボタンを押す。


「…ありがとうございます。まず、確認事項です。お客様は、初めてのご利用でしょうか?初めてという方は2のボタンを押してください」


言われた通り、2を押す。


「了解致しました。それでは、タイムスリップサービスセンターについて簡単にご説明させていただきます」


手短に頼むよ。心の中で願う。

サービスセンターを利用するわけでもないのに、2のボタンを押すんじゃなかった。説明を聞く間にも、時間は刻々と過ぎていく。


「タイムスリップサービスセンターでは、名前の通り、時をさかのぼって死者と電話をつなぐことができます。ただし、話すことのできる相手は、今日で一周忌を迎える方のみです」


どくん。

心臓が、大きく脈打つ。

雨で冷えていた全身を、一気に血が駆け巡っていくようだ。


──時をさかのぼって、話したい人と電話をつなげることができる。


…嘘だ。嘘に決まっている。

そんなことは分かっているつもりだった。


でも、その嘘に縋りたくなるくらいに自分の心が壊れかけていることも、私は知っている。


ゆっくりとまぶたをおろすと、浮かんでくるのは一人の顔だけだった。


──池山君。

私は、死ぬ前のあなたと話すことができるの?


「続いて注意事項です。注意点は二つあります。一つ目です。通話時間は最大十分間となっております。超過すると自動で電話が切れますのでご注意下さい。二つ目です。この電話で、電話相手の過去を変えることはできません。つまり、相手の運命を大きく左右するような発言はできないということです」 


「え…」


つまり。

彼の命を救うことは、できないのだろうか。


「この説明で、ご理解いただけたでしょうか?まだよく分からないという方は、3のボタンを押してください」


押す。


「かしこまりました。それでは、詳しい例をお伝えします。例えば、橋から落ちて亡くなってしまったAさんに電話するとします。橋から落ちる前日のAさんと話すとき、『明日橋には近づくな』とは言えません。もしその言葉が原因でAさんが亡くならなかったら、過去を変えることになるからです。──お分かりいただけましたか?分からない場合は、もう一度3のボタンを押してください」


押さずにしばらく待っていると、声の主は言った。


「もしもそのような発言をされますと、お客様は過去改竄という重大な罪を犯したことになります。そしてその場合、お客様には明日、罪の償いのため、こちらが決定した方法で死んでいただきます。また、電話をした事実は電話相手の記憶から消え、全て無かったことになります」


──死ぬ。

身体に戦慄が走る。

うっかり口を滑らせたら、明日、私の人生は終わるのだ。

ものすごく怖かった。一瞬だけ、電話を切ろうかとも思った。


でも。


「こちらからの説明は以上です。…では、今までのことを踏まえて、お聞きします。こちらのサービスを利用しますか?利用する場合は、4のボタンを押してください。利用しない場合は、このまま電話を切ってください」


今日池山君のお墓の前に立って、やっと気がついた。

私はあれから一年経った今でも、彼に恋をしていた。


でも、会うことも話すこともできなくなった今、想いを伝える手段はどこにも残っていない。


だから、どうすればいいのか分からないでいた。モヤモヤとした気持ちを抱え込んで、この一年間、光のない世界を彷徨い続けていた。


──もしも、池山君と話せるなら。


私は彼に告白したい。


フラれていいんだ。池山君が告白を断ってくれさえすれば、きっと私は前を向けるから。頑張れると思うから。


──私は、「好きです」の一言が言えない自分自身のことが、嫌いだった。


もう後悔はしたくない。


4のボタンを押した。


「最後に、相手の方に会う年と日にちを決めてください。なお、時刻は指定できません。ピーという音が流れてきたら、年、日にち、会いたい方のフルネームの順で、受話器に向かって答えてください」


池山君が死ぬ前日。

二千二十年、二月十四日。

私が告白できなかった日。手作りのチョコレートにそっと手を触れた日。


あの日も、彼はいつも通り笑っていた。


「…それでは、時空を超えた電話をどうぞお楽しみください」


受話器の奥の声が途切れる。

それから、ピーという甲高い音が聞こえてきた。


私は小さく息を吸い込む。


「二千二十年、二月十四日の池山一樹くんへ」


最後の言葉を言い終えた瞬間、耳に飛び込んできたのは。


──生きていないはずの、彼の声だった。


「…もしもし?」

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