第38話
私は生家に戻ってきた。
今の私には妖のところに居た記憶は全くない。
あの妖の戯言だろう。
だけど、今では確かな違和感を憶えていた。
──なんだろう、とても冷たい。
まだ寒い季節ではないというのに、とても冷たく感じた。
いつも自分は暖かい場所に居た気がする。
何故自分の家でそんな感覚になるのか、分からない。
ふいに悪寒を感じた。
振り返ればなぜか笑みを浮かべている父親がいた。
「お前は馬鹿だな」
『いきなりどうしたの、お父さん』
「…いや、何も。疲れただろう。休みなさい」
いつものお手伝いさんが着物や髪を解いてくれる。
だが、そこにも違和感をおぼえていた。
私は、こんな扱いを受けたことがあったっけ?
記憶にあるのは平凡な生活を送りつつ、陰陽師として生きている自分。
それが正しいはずだ。
ではこの胸騒ぎはなんだろうか。
自問自答するが、答えが出ない。
「雫」
姉の舞に彼女は呼ばれる。
どこか冷たさを秘めた声のように聞こえる。
どうしてそんな風に呼ばれなくてはならないのか、分からなかった。
「来週、お見合い相手とお会いすることが決まったわ。心構えしておきなさい」
『はい。姉さん』
「……」
『姉さん?』
「なんでもないわ」
屋敷中が冷たく感じた。
それはお見合いの日まで変わることはなかった。
お見合い当日。
私はその日まで特に何も起こることなく、学校にも通って暮らしていた。
ただ、親友の志穂が妙なことを言っていた。
烏丸の屋敷に居ないのか、婚約者じゃないのか、と何処か焦ったようにそう言っていたのだ。
まるでそんな事の記憶がない私は首を横に振るしかない。
でも親友があんな嘘を付くとは思えない。
志穂は一般人だ。
何かしら理由があってそう言っているはず。
自分がおかしいのだろうか。
密かに自分に疑問を抱きながら生家で生活を続けていた。
「粗相のないようにな、雫よ」
『はい、お父さん』
「……。さぁ、お待たせしているぞ。行くぞ」
何故か父だけではなく、姉や弟の累まで私を囲うかのようにとある料亭の廊下を歩いた。
何かがおかしい。
妖のところに居た記憶がなくともそう私は思い始めていた。
お父さん。姉さん。
そう呼んでも必ず一息置いてから何かしら発言をしてくるのだ。
まるで何かがおかしいように。
それは私自身も感じていた。
自分は家族のことをなんて呼んでいたのだっけ──?
「いやいや、お待たせして申し訳ない」
「構いませんよ、寮長殿。そちらが…」
「はい、娘の雫と申します。ほら、ご挨拶なさい」
私は言われて一歩踏み出す。
その時である。
妖の中でも独特の気配を持った1人の男が縁側に現れたのは。
「挨拶なんてさせないよ?だって僕の婚約者だもん」
懐かしい、ずっと聞きたかったような声がした。
宣言通りあの妖が私のことを迎えに来たのである。
「鬼天狗殿。困りますなぁ、勝手なことをされては」
「勝手なことをしたのは貴殿らが先だろう。俺の花嫁は返してもらう」
私は舞と累によって視界を塞がれていた。
何故ここまで鬼天狗が自分に固執しているのか分からない。
そもそも、婚約者?
声は出ないけれど平凡な自分が?あり得ない。
あんな美しい妖の花嫁になるだなんて、あり得ることではない。
舞も累も何も私に言わない。
ひたすらに私を鬼天狗の視界に入らないように必死だ。
その必死さも妙に感じたが、相手があの鬼天狗だから恐れているのだろう。
そう思うことにした。…何かが違うと思いながら。
「な、なんだお前は!」
「鬼天狗。俺のこと知らないなんて本当に陰陽師か?」
お見合い相手が騒ぎ立てた。
その姿を見てこの人が未来の夫になるのだと思うと、少し情けないと私は感じた。
政略結婚になることは分かっている。相手も由緒正しき陰陽師の家系だ。
だが、この小物感に溢れたセリフは何だろうか。
人の印象は3秒で決まるという話だが、本当のようだ。
私はお見合い相手は政略結婚だとしても情けない相手だと印象を持った。
「寮長殿!本当に婚約者なのですか!?」
「……そう慌てないでください。何かの勘違いです」
「勘違いであそこまでの会合をしたりはしない。貴殿も知っていよう」
陰陽師と妖の主が両者、睨み合っているのが会話から分かった。
その様子を私は眺めることが出来ない。
姉と弟が視界を邪魔をしているからだ。
だが私は、家族の思惑とは裏腹にどんどん記憶の欠片を取り戻しつつあった。
人は声から記憶を失っていくのだという。
逆に死に際には、声が1番最後まで聞こえているそうだ。
決して死に際ではない。
しかし、記憶を無理やり消された状態である私が1番先に思い出す材料としては、声だけでも充分事足りていた。
それだけ、あの鬼天狗の優しい声に救われていたのだ。
(私は、何かを忘れている?何を忘れている?)
何か、とても大切な。
決して忘れてはならないようなことを。
自分は忘れているのではないだろうか。
自問自答を続けてきた答えが、出かかろうとしていた。
「何も考えなくて良いのよ。何も考えちゃダメ」
「そうですよ姉さん。何も考えてはいけません」
思考を邪魔してくる自分の姉と弟。
何故自分の事なのに考えてはならないのか。
言っている意味が分からない。
そう、意味が分からなかった。
ずっと自分に優しくしてくれている意味が。
普通を演じている意味が、分からなかった。
ずっとずっと、私を傷つけてきたくせに──!!
長い長い夢から覚めた気分だった。
私は2人を睨みつける。
『よくも私の記憶を奪ったな。気持ち悪い演技もしやがって』
完全に記憶を取り戻して私はそう言った。
座らされていた私は無理やり立ち上がり、本来の婚約者の顔を視界に収めた。
記憶が余す事なくきちんと戻っていることを確かめたかったのだ。
漆黒の髪に黒く大きな翼が背中から生えていた。
美しい顔も記憶と変わっていない。
ただ、少しばかり疲れがあるように見えた。
私が記憶を失ってからどうやら一悶着あったらしい。
何もまだ言葉を交わしていないが、それだけは私には分かった。
お見合い相手と父親と睨み合っている兄ちゃん。
まだ、私が術が解けたことに気がついていない。集中しているのだろう。
そんな中、私が思うのは自分は兄ちゃんの元へ戻る資格があるかということだった。
今回の術は式神から送り込まれた特別な術式だった。
滅多なことがない限り、記憶が戻ることはない。
私が記憶を取り戻すことが出来たのは、過去の百済の私への態度が一重に原因だった。
違和感があればそれについて人は考える。答えを出そうとする。
そこがその術式の最大の弱点とも言えた。
(私は、兄ちゃんに酷いことを言った。謝っても許されることじゃない)
あんなに記憶のない自分に優しく接してくれたというのに、酷い言葉を吐いた。
兄ちゃんがどこまで傷ついたなんて想像することは出来ないが不愉快には思ったに違いない。それだけは想像することができた。
私は、花嫁に相応しくない。
もっと良い人がいるはずだ。
そう勝手に決めたこんでいた。
ふと、私は既視感のある温かさに包み込まれた。
いつの間にか、2人から距離を取られて外で抱き抱えられていた。
「その顔は思い出してくれたんだね?ありがとう」
ずっと包まれていたいと思う温かさだった。
ずっと聞きたいと思う優しい声だった。
でもそのことを悟らせてはいけない。
だってそんな資格、自分には──
唇を、塞がれていた。
兄ちゃんは離してなど、くれなかった。
まるで皆に見せつけるかのように。
どうしてという言葉が私の中で反芻される。
姉の悲鳴が聞こえてくる。
お見合い相手の怒号が聞こえてくる。
父親の怒鳴り声が聞こえてくる。
「うるさいな。君たちは婚約者にキスしている所を見るのが趣味なの?2人きりにさせてよ」
まるでお姫様を攫うかのようにそのまま、私を抱き抱えたまま空へと逃亡した。
いきなりのことで私は兄ちゃんにしがみつく。
そのことがたまらなく嬉しいようで、兄ちゃんは私の額にキスをした。
でもそのことに私はいつものように怒らない。いいや、正しくは怒れなかった。
「家に着いたら話がある」
兄ちゃんは愛しい者を見る目で私を見ながらそう言った。
話ってなんだろう。
兄ちゃんとの婚約解消だろうか。
内容を想像することが出来なかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます