第一章 創世記
第1話 スタートダッシュ
…「英雄」としての運命を背負ったその男は。
―――「あー、バイトめんどくさー」―――
…彼自身のアパートの一室で。
自分で選択したはずの職に不満を漏らしていた。
これは、そんな男の。
英雄と呼ばれるにいたる人生の記録である。
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相変わらず不満げに寝転がる彼の名は黒田 登。
大学二年生にして一人暮らしをしている、今はまだ普通の青年。
部屋はもともとあまり広くはないのに彼の私物が雑多に散乱しているせいで一層狭さが際立っている。
しかし当人は気にかける様子もなくかろうじて残ったスペースに大の字を描いている。
午後からの講義もなくバイトまでもそれなりに時間のある彼は。
有体に言えば。
暇であった。
そんな、緩い昼下がり。
何事もなく過ぎるはずだったその日常は。
突然、終わりを告げる。
『―――今から、あなたたちの世界に私の眷属を放ちます。
貴方方と同じ、私の大切な子供たちです。
仲良くしてくださいね?
とはいえ、貴方方の作り上げてきた“力”は私の眷属たちには通用しないでしょう。
そこで、あくまで対等に、同じ条件で暮らしてもらうために貴方方にも新しい“能力”を授けましょう。
貴方方が私の期待通りの子供たちならきっとこの世界を生き延びられるはずです。
では、お元気で。―――』
―――何を言っているんだ?こいつは?―――
登がまず考えたのは、そんなことだった。
―――いや、確かに意識に直接語り掛けてる感じで普通の声じゃなかったけれども。―――
実際登はよくわからないまま耳をふさいでみたりとある程度の検証はしていた。
この状況で何故そんな余裕があったのかはさておき、今一つ状況が呑み込めず、どちらかといえば
先ほどの声を疑っている登だったが、悩む時間はそう長くは与えられなかった。
低い地響きと小さな揺れを感じた後、その瞬間は訪れた。
「は?」
彼の足元の床が。
いきなり崩れ落ちた。
彼は大学生である。
当然、義務教育は受けている。
最近では教育指導要領に含まれているため、日本の武術、ジュウドーの経験もある。
従って投げたり絞めたりはともかく、受け身くらいは取れる。
しかし。
たとえ彼が世界一の柔道家だったとしても。
妙な声に体を起こし胡坐をかいている時に。
いきなり自室が崩れ落ちて、瓦礫の降る中、地面までの距離も確認できないままで。
受け身をとれるはずも無く。
「かはっ」
成すすべなく視界を暗転させた。
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「うぅ…」
瓦礫の中、激痛に苛まれて目を覚ます。
彼の一生分の運を使ったといわれても疑問を持たないような幸運で、登は生きていた。
しかしその有様はひどいもので、右腕などは肘が逆向きに曲がっている。
身じろぎ一つできないような激痛の中、
「え。」
咄嗟に痛みのひどい部分をさすろうとして、違和感に気づく。
見るだけで痛々しいその右腕が。
曲がったまま動いて傷をさすろうとしたのだ。
「う、うわあぁぁあぁあぁぁぁあ!」
動かしたことでさらにひどくなった痛みや明らかに異常な動きをする自分の腕、そして瓦礫に挟まった左足を見て。
彼は驚き、嫌悪感、絶望感、その他さまざまな感情の渦に囚われて。
叫んで。叫んで。叫んで……
―――さすがにそろそろ落ち着いては来た。―――
彼は、自分自身でそう思い込むことにした。
そうなるまでにかなりの時間を要した。
声は枯れ、喉から出血までしている。
肺のあたりに途方もない負荷をかけつつ何とかせき込んで血を吐き出したあたりでようやく落ち着いたのだ。
「冷静に状況を考えよう。まず叫び過ぎてちょっと酸素が薄い。
あと左足はちょっと引っ張ったくらいじゃ抜けないな。ついでに右手は肘が思うように曲がらん。」
割と絶望的である。
しかし、彼は先ほど叫び過ぎて…
まあ、言葉を選ばないなら“ハイ”になっている。
「とりあえず肘直すか!」
自分の上にある瓦礫に右手首をひっかけ、一思いに左手で押す。
「いっ…ぎいぃぃぃい!」
またしばらく左足が動かないままのたうち回ることにはなったが右腕は本来の機能を取り戻した。
「ふっざけんな!どうせ動くんなら痛みも何とかしろよ!…とか言ってても事態はよくならないしなー」
実際無理に腕を直したせいで痛みはだいぶ増している。
―――だけどまあ、動くものは動くんだから仕方ない。―――
無理やり痛みに目を瞑って見た目で軽そうな瓦礫を少しずつ動かしてみる。
―――そういえば、どのくらい眠っていたんだろう―――
意識が飛んだせいか、記憶が少し曖昧だった。
「よく思い出してみると視界が死んでからも意外と意識はあった気がするんだよな…」
咄嗟に頭を庇う程度の反射神経は持ち合わせていたが、背中を強かに打って呼吸が困難になった。
しかしそれでも意識はあり、降りしきる瓦礫の中打ち付けられたり更に瓦礫の山が崩れたりとそれなりに上の方に住んでいたのに随分下の方まで落ちたことは思い出せたが一体いつ意識が途切れたのかが思い出せない。
「しっかしこうなってくるといよいよあのテレパシー女の言ってたことに疑いの余地がなくなってきたな…」
―――ん?待てよ?―――
「じゃあこの崩落も奴の眷属とやらのせいだってのか?」
―――まだ断定するには早い―――
理性ではそんなはずはないと否定している。
いや、あるいはそうであってほしくないという願望だったのかもしれない。
「とにかく、今は左足を抜く方が先だ。」
だいぶ瓦礫はどかしてあり、残すは本当に左足だけという状態だった。
「いや~、このサイズはちょっときついんじゃないか?」
左足の上の瓦礫はそれなりに重そうだった。
「まあ、物は試しだ。やってみるか!」
彼は、少しでも力の入りやすい体勢をとろうと身をよじった。
そして、後悔した。
今までも十分に気づくチャンスはあった。
状況から見て可能性は十分にあった。
しかし、あまりに多くのことが起こり過ぎて麻痺していた嗅覚は、最悪のタイミングで現実を突きつけた。
「うっ、嗅ぎ慣れない匂いだが…何の匂いか想像ついちまう」
吐き気はしたが胃の中身はない。
「まあ、いわゆるSAN値は確実に減ったな…」
冗談を言っている場合ではないが、冗談でも言っていないとやっていられないのも事実。
その後何とか左足の瓦礫を転がしてどけた。
「ん~、何とか歩けるな。私物は…期待しない方がよさそうだ。こうなるとどうしていいか分からn
慌てて口をふさぎ、身をかがめる。
自分の膝くらいまであるような巨大蠍が近くをうろついていた。
―――いやいやいやいや!阿保か!なんだあいつ!―――
思い返すのもおぞましいような大きな鋏、そしてあの鋭い尾は毒など無くとも食らえば生きてはいられないだろう。
―――頼む、こっちに気づかないでくれ!あんな鋏二度と見たくない!―――
「そうそうこんな巨大な鋏…うわぁ!?」
普段であれば卒倒してもおかしくない状況である。目の前に件の蠍が現れたのだから。
しかし、すでにそれしきの出来事が霞むような体験ばかりしてきた日ならその限りではない。
その「英雄」は。
力強く立ち上がり。
蠍に背を向けて、全力で駆け出した。
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