12

 砂時計に絡みついた装飾はよく見ると二匹の蛇を模したものだった。

 両端でトグロを巻いたそれはそれぞれ中央のくびれ部分へと首を伸ばし、先端で鎌首をもたげて互いに咬みつこうとしている。

 素材は銀だろうか。

 全体的に黒く煤けた色をしているが所々に金属の鈍い艶が垣間見える。そしてガラスには細かなきずが無数に走り、砂には固まった球があって軽く振ってみてもそれが解けることはなかった。

 たとえばそれは露店に並んでいてもおそらくは誰の目にも留まらないような見窄らしいただの骨董品に思える。

 

 次に僕は規定条項に挟まれていた薄っぺらな教書を見遣る。

 そしてひとつ小ぶりな深呼吸をした後、砂時計を目の高さに翳して教書通りに唱えた。


「ルキフェルの名において命ずる。出でよ、サーバント」


 すると耳元で無数の羽虫が飛び交うような音が唸り、次いで窓際に黒灰色の人影がぼんやりと浮き上がる。


 やはり、でかい。


 画像で見たあの女もかなりの身長だったが、自分が出した死神はそれよりもさらに大きいかもしれない。肩幅は朝日の差し込むガラスサッシ片側一枚よりもやや狭く、頭頂は二メートル四十五センチの天井に擦らんばかりにそびえていた。

 しかしその出立ちは志摩の従者と変わらない。

 真っ黒で分厚い革製のロングコートで巨体のほとんどを覆い隠し、目深なフードに翳のような顔をうつむかせたその者は、薙刀の如き大きな鎌デスサイスを軽々と肩掛けにしている。

 そして襟首の下には太く浮き出た鎖骨と隆々とした胸筋のきざはしが覗いていた。


 どうやら男のようだ。


 普通ならその不穏な存在に恐怖心を抱いて然るべきところだが、僕は取り立ててなにも感じなかった。心は晴天の湖畔のようにいたって平静で、出来の良い彫像でも眺めるように少しばかり感心さえしている。

 どうやら月の儀式は人格や感情の多寡まで変えてしまうものなのかもしれなかった。


 僕は開いた教書にチラリと目を遣り、次の手順に従う。


「僕の名は村上佑。今日から君の雇い主となる者だ。これより臣従の儀礼を行う。まずはその場にひざまずいて」


 すると従者はダイニングテーブルを避けておもむろに片膝を床へ落とし、そして立てた方の膝へと上体を折り曲げた。

 

「じゃあ、顔を見せて」


 男の右腕がフードをつかみゆっくりとそれを持ち上げた。

 刹那、僕は露わになった彼の頭部におもわず目を瞠る。

 剃り上げられた頭皮全体に彫られた髑髏の刺青。

 額や頬に刻まれたいくつかの深い傷痕。

 微塵も生気を感じない青白い皮膚と頬肉の削げ落ちた輪郭。

 けれどその両の瞳にだけは怒りとも怖気ともつかない光を爛々と湛え、それがどこか値踏みをするように僕をじっとりと見据えている。

 僕はわずかに生じた動揺を大きく息を吸って押さえ込んだ。

 そして再び横目に教書を睨み、従者に指示を与える。


「では右手をこちらに」


 すると男はまるでゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく手を持ち上げ、上向けて差し出した。

 逆らう素振りはない。

 ためらう仕草もない。

 彼の中にはもはや感情の抑揚はおろか、言われたことを成す以外の思考能力さえ残っていないのかもしれない。

 一瞬、僕の心奥に不穏なさざなみが立った。


 彼はどうして従者に貶められてしまったのだろう。


 その理由わけを無償に訊ねたくなった。

 が、辛うじてその衝動をを喉の奥に押し戻した僕は代わりにひとつ小さな息を吐き出し、それから二歩ほど足を進めて彼の前に立つ。


 すると途端にキツい体臭が鼻腔に潜り込んだ。

 汗と血と垢が混ざった異臭。

 嗅いだ憶えがある。

 自我を完全に失い、廃人となった麻薬常習者のそれを同じだ。

 僕はわずかに眉をひそめ、けれどその嫌悪感を悟られないよう、ためらうことなく彼の拳の下に左手を添える。

 その皮膚はねっとりと脂染みていて、氷のように冷たかった。


 次いで僕は彼の手に砂時計を立てて置いた。

 そして倒れないように右手の指先でそれを押さえ、宣誓を呟く。


「我ら、対となりこれより冥界の下命によりて死の断罪を行うことを誓う」


 瞬間、耳障りな羽虫の音が膨らみ、同時に朝の明るみが一気に掻き消された。

  

「我らの命運はその全きを暗黒の王ルキフェルのよすがとする」 


 薄汚く濁った空気が揺蕩い、僕は息を詰まらせる。

 それはまるで汚泥に塗れた仄暗い水底。

 不意に従者と僕の手に挟まれた砂時計が着火したマグネシウムの如き場違いな輝きを放った。

 あまりの眩さに目を閉じた僕は、次いで手首の内側に蜂が刺したような鋭い痛みを覚えて頬を歪めた。そして反射的に引こうとした右手の指先は、けれど不可思議な力で押さえ込まれたように砂時計から離れない。

 眇めた目を向けると強い光円の中で何かが蠢いている。


 なんだろう。

 黒くて細い紐のような何か。


 やがて明順応を果たした視覚がその正体を捉え、僕は息を呑んだ。


 それは蠢く二匹の小さな蛇の姿だった。

 冷徹な瞳と全身に艶光る鱗。


 ただの銀装飾だったはずのそれらは僕たちの手首へと鎌首を伸ばし、それぞれに皮下に走行する静脈を目掛けてしっかりと咬みついている。

 そして黒く煤けていたその胴体は僕たちの血液を吸い上げて赤黒く変色し、まるで汚物をバキュームするホースのように怪しくのたうっていた。

 刹那、その手首から灼熱がほとばしり、全身を巡った。

 燃えるような痛みに僕は目蓋を硬く閉じ、奥歯を食いしばる。

 続けて従者が低く唸った。


 微かに目を開くと僕の視線はすぐに彼の表情に釘付けにされる。

 苦痛に呻き、小刻みに震える四角い顎。

 青白く無感情に固まった顔つき。

 けれどその口角は怪しく歪み、落ち窪んだ眼窩に設えた二つの瞳が爛々とした光を放っていた。

 瞬間、何事にも動じなくなったはずの僕の背筋を怖気が貫いた。

 彼が失った感情の残滓がその瞳の奥に紅く燃えているように感じた。

 おそらくそれは禁断の歓び。

 直感した、というより互いの血液を吸い上げる蛇を介してその思念が伝わってくる。


 オレを使役して全てを殺し、喰らい尽くせ。

 残虐な死をもてあそぶがいい。

 そしてこの骸をアンタの怒りで満たしてくれ。

 さすればオレは永遠の牢獄も厭わない。


 彼の心底に封じ込められた言葉が僕の脳内でこだまを繰り返した。

 幾度となく襲ってくるその疎ましい感情の波濤に抗いがたい苦悶を覚えた僕は苦し紛れに手元へと目線を落とす。


 すると目を向けた砂時計の内部はもはや隙間もないほどに赤黒い血液で満たされていて、注がれたばかりの炭酸水のようにガラスに沿って無数の気泡を立ち昇らせていた。

 また蛇たちはそれぞれの静脈から牙を浮かせ、満足げに二股の舌をチロチロと動かしている。


 儀式は終わったのだ。


 恐るおそる目線を戻すと、従者は顔を深くうつむかせて蛇が咬みついた跡に小さく浮いた丸い血液の玉を見ていた。

 その瞳はさっきまでの胡乱な光沢を失い、いくら耳を澄ましても彼の呼吸が静かに聞こえるばかりで感情の声は伝わってこない。


 僕はひとつ大きく息を吐いて平静を取り戻し、おもむろに終結の言葉を告げる。


「対を成した我らはこれよりルキフェルの名のもとに死の宣告者としての使命を果たさん。もし盟約に背かばその尽きせぬ命を冥界の王に捧ぐことを誓う」

 

 その瞬間、霧が晴れるように部屋が明るくなった。

 そして鳴り続けていた羽音が止み、唐突に静けさが立ち込める。

 すでに従者の姿は掻き消えている。

 テーブルには分厚い書類と薄っぺらい教書とコーヒーが底にうっすらと残るマグカップ。

 次いで僕は右手首を見た。

 けれどそこには蛇が咬みついた傷跡など一切なかった。

 右手に残った砂時計の二匹の蛇は黒く煤けた銀細工に姿を戻し、僕と従者の血で満たされていたはずの内部はやはりボソボソと固まった砂が目立っていた。


 ただの薄気味が悪い白昼夢だと思いたかったけれど、鼻腔に残る従者の不快な体臭がそれが幻影ではなかったことを証明していた。


 僕はいま一度眉をひそめ、彼が跪いていたフローリングに視線を落とす。


 サーバント。

 彼はなぜ従者になったのだろうか。


 その疑念が喉に引っ掛かった小骨のようにいつまでも燻り続けた。

 

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