13

 「とっくに分かっていると思うけど、リーパーになればこんな風に人間としての気配がかなり希薄になってしまうものよ」


 昨晩、隣の席に腰を下ろした志摩伊月はバーテンダーが自分の存在に全く気付かないことを自虐の種にそう切り出した。


 僕はやや頬を緩めて肯く。

 たしかにその通りだった。

 庁内ではそれまで親しかった同僚や上司がすれ違っても目も合わせずに素通りしていく。

 コンビニではレジの前に立ち、声を掛けるまで店員に気付かれない。

 そしてこの行きつけになったバーでも今夜は志摩と同じ扱いを受けた。


 他人に自分の存在を認められにくくなる。

 ありていに云えば影が薄くなる。

 どうやら死神になるとそういう性質になるらしい。




 だから傍聴席のほぼ全員が僕の登場に注目していたにもかかわらず、その中で法廷の扉をくぐった僕に気がついた者はほんのわずかだった。

 僕が目の前をゆっくりと歩いてもまだ多くの傍聴人たちは右側の重厚な扉を注視して黙り込み、あるいは隣の席の者と囁き声で会話をしていた。

 けれどさすがに裁判官は僕の存在を認めていて、証言台に立つとすかさず人定質問を始めた。


「住所、氏名、職業、年齢は証人カードに記載したとおりですね」

「はい、間違いありません」


 僕の声が響くとそこでようやく法廷全体に微かなざわめきが立ち込めた。

 そして宣誓書を朗読し終え、椅子に座ると風が止まるようにそれが収束していく。

 静けさが戻る中、僕はゆっくりと被告人席を見遣る。

 

 背が高く、撫で肩で平凡な顔つきの男。

 名前は佐伯達哉。

 彼は僕に一瞥をくれようともせず、ただうつむいて自分の膝の辺りを見つめていた。まるでそこに今すぐここから立ち去る秘密の方法でも記されているみたいに。


 一抹の感慨も覚えなかった。

 今からこの男を地獄に送るのだと決意めいたものを胸に告げても、なんだかそれはテレビドラマのワンシーンのようにどこか他人事に思えた。

 燃え立つような怒りや復讐心はどこか別の場所にしまい込まれてしまったようだった。また微かに危惧していた罪悪感の訪れなど一切なかった。


 志摩の言葉が再び鼓膜に甦る。


「存在だけじゃない。感情だって希薄になるのよ」


 彼女は真っ赤なジャックローズをカクテルグラスに舐めたあと、フッと自嘲気味に笑った。


「昂ったり、落ち込んだり、そういうこともなくなる。何を見ても、何を聞いても『ああ、そうか』と思うだけ。人間の生き死になんてたいしたことじゃないと思えてくる」


 本当にそうだ。

 妻を殺した憎き仇を目前にしているというのに心は凪いだ内海のように極めて落ち着いている。ただ頭のどこかから発せられるひとつの示唆が僕にためらいなく行動を為すようにとうながしているだけだ。


 検察官がおもむろに立ち上がった。

 それから質問条項が記された紙面を片手に質問を始める。

 けれど、もはや僕の耳にその文言は届かない。


 僕は口を窄めてひとつ長い息を吹いた。

 そしてスラックスのポケットに左手を差し入れ、忍ばせていた砂時計をそっと握り締める。


「ルキフェルの名のもとに冥界のさざなみ、虚空を敷き詰めん」


 教書通りの詠唱を呟くとたちまち法廷内のあらゆる気配がフツと消えた。


 見渡すと全ての人間がその動きを止めていた。

 いや、動きばかりではなく呼吸さえしていない。

 裁判官はしかつめらしい顔つきで検察官を凝視したまま止まり、またその検察官はまるでどこか忘れられた銅像のようにその場に微動だにせず立ち尽くしていた。

 耳をそば立ててみても一切の音が聞こえない。

 やはり時間そのものが止まってしまったのだと実感する。


 舞台は出来上がった。


 やがて異変に気付いた被告人が席を立ち、不思議そうな顔で周囲を見回し始めた。

 

「え、いや、あのさ、なにしてんの」


 佐伯が隣に座っている刑務官の肩を叩く。

 けれど人形のようにその反応はなく、次いで彼は焦った様子で後ろの席の弁護士に視線を向けた。


「先生、これなに。どうなってんの」


 もちろん返事はない。

 弁護士は手元の書面に目を落としたまま微動だにしない。

 佐伯は何度も首を傾げ、再び法廷内を見渡した。

 そしてしばらくしてようやく見詰める僕の視線に気がついた彼はけれどその瞬間、気まずそうな様子ですぐにうつむく。

 

 僕は肩をすくめて静かに声をかける。


「遠慮せずにこっち向きなよ」


 僕の言葉に佐伯がぎごちなく顔を上げた。

 そしてもう一度あたりを見回してからオドオドとした目線を僕に向ける。


「あの、これはいったい、どういう……」


 僕は冷静に、そして真面目に答えてやる。


「この法廷内の時間を止めたのさ。僕たち以外のね」


「……はあ、ちょっと意味分かんないすけど」


 佐伯の口もとが嘲笑で歪んだが、僕はかまわず言葉を続けた。


「まあ、分からなくていいさ。それよりなにか僕に伝えたいことはないだろうか」


 彼は失笑する。


「別に」


 僕はもう一度訊く。


「なにかあるんじゃないかな。僕に、いや僕の妻に言わなければならないことが」


 あまり意味のない質問だったけれど、リーパーになる前の僕なら眉間に青筋を立てて尋ねたはずだ。佐伯は詰まらなさそうな顔をして首を振った。


「……別にありませんよ、別に」


「へえ、そうなんだ。素直になった方がいいと思うんだけど」


 僕は小さなため息を吐き、それから証言台から被告人席へと一歩だけ踏み出した。


「あのね、どうせ今からキミは死ぬんだ。それなら心残りなく懺悔してから逝った方がいい。これは僕からのささやかな手向けさ」


「……死ぬ?俺が?はあ、あんた頭おかしいんじゃないか。ここは刑務所じゃないし、そもそも俺は死刑になんてならない。日本の法律ではそうなってんだよ。ていうか、これなに。夢?ああ、やっぱこれ夢だな。けど、それにしてもあんた無茶苦茶だね」


 軽く憤りながらそしった彼をひとしきり冷ややかに見つめた僕は、ポケットの中で握っていた砂時計を取り出した。


「これがなんだか分かるかな」


 佐伯は目を眇め、それからフンと鼻で嗤う。


「知るかよ。そんな玩具おもちゃみたいなもんがなんだっていうんだ」


 その返答に僕は軽く肯いてやる。

 たしかにこの薄汚れた小物が悍ましい怪物を召喚する魔道具だとはとても思えないだろう。


「そうだよね。じゃあ、身をもって体験してもらおうか」


 僕はおもむろに砂時計を額の前にかざした。


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