9
「こっちよ」
僕の肩を軽く叩いた彼女が先に立って歩き始めた。
月明かりに目を凝らすと草むらには誰かが踏み分けたような小径が伸びていて、志摩は無造作な足取りでその草の切れ目を踏んでいく。
彼女の背を追っていくとしばらくしてやがて草地が途切れ、唐突に幾本かの背の高い岩が屹立して円形に取り囲むエリアが現れた。
地面は平らかな石畳で、またそれぞれ隣り合った岩の上には横倒しになった棒状の岩が橋を架けるように渡されている。
どこか記憶にある風景。
そう感じて、首を傾げるとすぐに思い当たった。
ストーンヘンジ。
実際に訪れたことはないが、画像では何度も見たことがある。
その場所は有史以前からなんらかの祭祀に用いられていたとされるあのイギリス南部の不可思議な遺跡にそっくりな形態をしていた。
「ここは……」
こぼれ落ちた呟きは、けれど志摩の鼓膜までは届かなかったのかもしれない。
見ると彼女はバッグから取り出した蝋燭に火を点け、立ち上がる岩の隙間にそのひとつひとつを手慣れた仕草で置き連ねていた。それらは測ったように等間隔に並べられ、そしてみるみるうちにそこに小さな炎に囲まれた純円の石舞台のようなが出来上がっていく。
不思議なほどに風はなく、蝋燭の炎はそれぞれに小さくともまっすぐにその穂先を天に伸ばしていた。
緑色の月明かりとはかなげな炎の光との融合。
巨石が創り出す謎めいた影。
その幽玄めいた光景に言葉もなく、ただ志摩の行動を見守っていると、やがて全てを終えたらしい彼女が速やかに僕の前に立ち戻って言った。
「じゃあ、服を脱ぎなさい」
次いで志摩は逡巡の欠片もなく僕のサマージャケットを乱暴に剥ぎ取り、それを草むらへと放り投げた。
戸惑った僕は息を詰めて訊く。
「全部?」
「当たり前でしょう」
なにがどう当たり前なのかよく分からなかったけれど、儀式というからにはきっと拒めるものでもないのだろう。
僕はカジュアルシューズを脱ぎ、シャツのボタンを外し、次いでぎごちなくチノパンを下ろした。
それを見届けた彼女が僕の背後に回り込む。
片足立ちで靴下を脱ぎながら、僕はもう一度尋ねる。
「下着も全部?」
「当然よ。バカなの」
聞き捨てならないが、逆らいがたい威圧感に気圧されて僕はもう一方の靴下を脱いだ。
そしてふと後ろを見遣った僕はおもわず息を呑む。
そこにあったのは一糸も纏わない志摩の裸身だった。
その緑色の月光を受けた華奢で艶かしい曲線は、まるでいまにも羽ばたいてどこかへ飛んで行ってしまう妖精のように思えて僕は目が離せなくなった。
「なに?」
怪訝な目つきで睨まれ、僕はようやく視線を逸らす。
「いや、別に……」
「早く脱ぎなさいよ。もうあまり時間がないから」
時間?
見上げると月の位置は天空の頂点にある。
僕は慌ててボクサーパンツを脱ぎ捨てた。
「じゃあ始めるわよ」
その静かな声とともに志摩が背後から体を密着させてくる。
彼女の体温は氷のように冷ややかだった。
けれど背中に押しつけられた柔らかな胸の膨らみに僕は不覚にも在りし日の妻の感触を思い出してしまった。
結衣。
喉元まで込み上げたその名前を辛うじて呑み込んだ。
「力を抜きなさい。あの月を望みなさい。そして全てを無にしなさい。生まれたての赤ん坊のように」
僕は背中から直に響いてくる彼女の声の震えを感じながら緑色の月を見上げ、言われた通りに思考や邪念を追い出そうと自分自身に念じてみた。
けれどそれはとても難しく、不可能な作業のように思えた。
緑色の月の円に妻の微笑みが映し出された。
次いで再び凄まじい悔恨が胸を突き通す。
法廷で見た被告人の無表情な顔つき。
今にも溢れ出してしまいそうな怒りと殺意。
未だ正体のつかめないノワルーナの黒い影。
そして霊安室で再会した変わり果てた妻の姿。
様々な記憶や感情が一斉に押し寄せ、パニックが僕を襲う。
「無になんてなれない。だって僕は……」
志摩の腕が僕の身体を強く抱きしめる。
「大丈夫。力を抜くのよ。そうすれば月の光が自然とあなたの中に満ちてくるから」
僕はそれ以上なにも考えないように自分を戒めた。
彼女の冷たく柔らかな身体の感触だけを感じようとした。
降りてくる月の光が皮膚から血管へと沁み込んでいく想像に努めた。
するとやがて僕の中に存在するものたちが少しずつ体の外側に滲み出していくような感触が訪れた。そして彼女の言葉の通り、いつのまにか僕の内部に満ち満ちた月光の成分が自我を追い出していくように感じた。
つれて見つめる月の辺縁が次第に大きさを増していく。
僕は何者かに生まれ変わる。
何者かに。
悍ましく疎ましい何者かに……。
そしていつしか僕の中の全てが消え去った。
気がつくと僕は家のベッドで眠っていた。
そして僕の胸には裸身のままの志摩伊月が顔を埋めていた。
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