8

 志摩に背中を押されるようにして前方のドアからバスに乗り込むとバス特有のオイルの匂いの混じった臭気が鼻腔に入り込んだ。

 運転席には顔色が悪く頬の痩せこけた男が座っていた。

 彼はシワの目立つオフホワイトのワイシャツを身につけ、白髪まじりの頭に紺色の制帽を載せていた。そしてなにより左肩に滑らかな黒光りの羽を持つカラスを止まらせていて、その異様な姿に僕は思わず息を呑み、足を止める。

 すると立ち尽くす僕に男はおもむろに一瞥をくれ、ざらついた声を出した。


「あんた、切符は」

「……切符?」


 たじろぐとあろうことかカラスがその太い嘴でカツカツと音を鳴らし、次いで甲高い声でせせら笑った。


「ふふん、ホテルのリムジンじゃねえんだ。ただ乗りは御法度だぜ」


 カラスが喋った。

 呆気に取られ、息を継ぐことさえ忘れた僕の背後から不意に細い腕が突き出される。


「ねえ、あんたたちさあ、毎回おんなじことして飽きないの」


 その指先には白く大きな羽がヒラヒラと揺れていた。

 男はそれを見遣り、シミの浮き出た頬をわずかに歪める。

 そしてカラスは志摩の呆れ声に面目ないとでも答えるように脚先を何度か啄み、それから嘴で引ったくるようにその白い羽を受け取った。


「そういうなよ、下級リーパー。こりゃ挨拶がわりみてえなもんだからよ」

「別にいいけど、下級は余計よ」


 小気味よく響いた彼女の舌打ちにカラスは再びせせら笑い、それから白い羽を大事そうに翼の裏側に仕舞う。すると途端、カラスの黒羽に作りたてのシャボン玉のような滲んだ虹色が走り、瞬く間にその全身が黄金色に変わった。


「出すぜ。席に着きな」


 運転手の掠れたその声色には愛想の欠片も感じられないのに、それはなぜか嬉々と跳ねるような口調に聞こえた。

 そして志摩に袖口を引かれて中程の席に座らされた僕は、やがて滑らかに動き始めた車窓から外を眺めて刹那、再び息を詰める。


 それは異様な光景だった。

 街がバスを避けている。

 進行方向に立ち塞がる建物や雑踏が次々とガラス細工のようにぐにゃりと傾ぎ、バスを避けて過ぎ去っていくのだ。


「ね、だからこのバスじゃないとダメなの。納得した?」


 志摩の楽しげな問いに肯くこともできず、僕はただ茫然と通り過ぎていく街や人並みの変形を見詰めることしかできない。


 

 バスはそのようにして街中をさしたる時間も掛けずにすり抜け、やがて急峻な山道に差し掛かった。

 街灯も何もない真っ暗な坂道。

 木立の隙間に街の灯りをちらつかせる葛折つづらおり。

 貧弱なヘッドライトが照らし出す道先は曲がりくねり、バスは僕たちをおおいに揺さぶりながらエンジンの息を荒げて登坂していく。


「これはね、ゲームの初回限定特典みたいなものよ」


 通路を隔てた席に着いていた志摩が不意にそう切り出した。

 目線を遣り肯くと彼女もひとつ大きく肯き返す。


「死神になる際、その研修として恨む相手をひとりだけ殺せるというわけ」


 僕はもう一度肯き、けれど少し考えて微かに首を傾けた。


「でも、そういうことならこの世界はあっという間に死神で溢れかえってしまいそうだけれど」


 志摩がバッグからタバコの箱を取り出した。

 そして上蓋を開き、その一本を丁寧に途中まで引き出す。

 細く長いタバコ。

 彼女は通路越しにそれを僕に差し向けた。

 首を揺すって断ると肩をすくめて引き戻し、それを唇に咥える。

 鈍く光る薄桃色の唇が怪しく蠢く。


「だから素質だっていったはずよ」

「……」


 志摩が小ぶりなライターでタバコの先に火を着けた。


「おい、バスってのはたいてい禁煙だぜ。ガキの頃、習わなかったのか」


 運転席から僕たちに横目を向けた金色カラスが甲高い声で叫んだ。


「うるさいわね。あいにくガキの頃は吸ってなかったのよ」


 ひとつ紫煙を噴き上げた彼女がいかにも煩わしいといった口調を投げ返すとカラスはひとしきりヒヒヒと嗤い、再び目線を前に向ける。

 車内の臭いを掻き消すようにメンソールが辺りに漂った。

 そして彼女は気を取り直すようにもう一度煙を吐く。


「何事にも素質って大事じゃない。持って生まれた才能というか、体質みたいなものも含めて」


 志摩はやおら脚を組み上げ、話を続ける。


「死神にもそれが必要なの。そしてほとんどの人間はそんなものは欠片も持っていない。要するに選ばれた者たちってわけ、私も、あなたも」


「選ばれた……。誰に」


「さあね、それは私もよく知らないわ。だけど死神にも序列があってね。その最高位は堕天使ルキフェルらしいからそのあたりの存在なんじゃない、たぶん」


 あまりにも非現実的で不確かなその説明に僕はおもわず眉を寄せた。

 けれどそれをいうなら現在のこの状況自体が全くのお伽噺じゃないか。

 僕は混乱を振り払うように顎を二、三度揺らしてみる。


「まあ、理解できなくて当然よ。私もそうだったわ」


 そう言って何度目かの煙を吐いた志摩はそれからふふんと軽く笑い、そのまま黙り込んでしまった。


 僕は自分の姿が映り込む車窓を見詰めて、少しだけ素質について考えてみる。

 けれど死神という概念さえあやふやな自分にそんなものが分かるはずもなく、僕はその無稽な考察を早々に諦めてただ車窓の向こうにある深い闇に視点を固定させた。


 バスは相変わらず曲がりくねった山道を唸りを上げながら登っていく。

 目線を持ち上げると緑色の月光を背景に樹々の枝葉が黒々とした影絵を描いていた。

 僕は時折現れる街の灯と不思議な色合いをした夜空を見比べながら、もう一度自分の半生と死神資質との接点を探す。


 子供の頃から勉強もスポーツもそこそこできた。

 両親には愛情を注がれ、二つ年上の兄とはよく喧嘩もしたけれど互いに嫌い合うほどでもなかった。

 大学は一流と呼ばれる私立大学に通わせてもらい、卒業後は国家公務員試験に合格し警視庁警察官として採用されて働き始めた。

 そして学生時代から付き合っていた女性と結婚し、それから……。


 妻のやわらかな微笑みが網膜に甦った。


 そして次の瞬間、あの日のことが怒涛のようにフラッシュバックを繰り返す。


 あのとき僕がもっと急いで山を登っていれば。

 多少の無理をして彼女に追いついていれば。

 いや、そもそも小旅行などに連れ出さなければ。


 いくつもの後悔が激しく打ち鳴らす鼓動を持て余した僕はその心臓を握り潰すべく胸に爪を立てた。


 素質?

 そんなものがいったい僕のどこに?

 妻を守れなかった僕にいったいどんな才能が。

 もしあるとすればこの凄まじい後悔と奴らをぶっ殺してやりたいという呪いのような衝動だけのような気がする。


 しきりに込み上げてくる吐き気に僕は口もとを押さえ、そして横目に窓を見遣った。するとそのガラスには瞳に異様な燦きを携えた貧相な男の顔が薄っぺらに映っていた。

 

 彼女が二本目のタバコを吸い終えた頃、急な勾配に差し掛かったバスが断末魔のようなエンジン音を響かせ、それからしばらくして不意に止まった。


「行くわよ」


 先に席を立った志摩に背後から追いたてられるように足を進めると、真っ黒な濡れ羽に戻ったカラスが運賃箱の上でひとつ大きく羽ばたいた。

 

「なあ、あんた。引き返すなら今のうちだぜ」


 僕は足を止め、それからカラスに向かって首を横に振って見せる。

 すると背中に手が当てがわれ、タラップに向けてゆっくりと押し出された。

 

「上出来と言いたいところだけど、残念ながらこのバスに乗った時点でもう引き返すことなんてできないのよ。というか、いつまでも戯れてんじゃないわよ、このくそガラス」


「んだと、下級リーパー。そういう口の利き方はなんぼか昇進してからにしやがれ」


 彼女がさらに強く僕の背中を押す。

 ツンのめるようにタラップを駆け降り、振り返ると志摩がカラスに向けて中指を立てていた。

 そして志摩が地面に降り立つと同時にバスはそのまま走り出すこともなく闇に溶けて消えてしまった。

 

 呆然としながら辺りを見渡してみるとそこは背の高い木立に囲まれた広い草むらのような場所だった。

 顔を上向かせると天空にはやはり緑色の満月が輝き、その月光を受けて視界の全てが仄かにグリーンがかって見えた。

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