7
「で、僕はどうすればいい」
バーカウンターに頬杖を着いたまま見遣ると、志摩伊月はその艶やかな桜色の唇を奇妙に歪めた。
今夜の彼女は黒のロングジレを羽織っていた。
インナーは滑らかなシルクの半袖に色褪せたブルージーンズ。
袖口には透き通るように白い皮膚に少し青みがかかった
彼女は腕組みを解き、宙空を見つめながら指をひとつ立てた。
「そうね、まずは儀式が必要よ。だから、あなたにはこれからバスに乗ってもらう」
「バス?」
「ええ、そのバスでしか行けないところ。そこで儀式を行うの」
店を出ると彼女は僕の前に立って歩き始めた。
九月、土曜の夜。
宵はまだ浅く、繁華街は雑踏に蒸せ返っていたが、志摩は乱雑な人波をスイスイといとも容易くすり抜けていく。
その見失ってしまいそうな華奢な体を追いかけ、やがてたどり着いたのは人通りの途絶えた路地裏の一角、薄ぼんやりとした白けた明かりを灯す電話ボックスの前だった。
こんなところにどうやってバスがやってくるというのか。
立ち止まった彼女の背中に怪訝な顔を向けていると彼女がふと振り返って口もとをほころばせる。
「ねえ、今夜の月光はなかなかに沁みると思わない」
そう言われて見上げると妙に緑がかった満月が雲間に見え隠れしていた。
沁みるかどうかは分からないけれど、ちょっと不思議な輝きを見せる月だとは感じた。そしてわずかに首を傾けつつ目線を戻すと志摩はいつのまにか電話ボックスの中に立ち、受話器を持ち上げていた。
彼女の唇が微かに動く。けれど声は聞こえない。
やがて彼女はそっと肯き、受話器を戻して電話ボックスから出てきた。
「誰に電話を?」
そう訊くと志摩は不思議そうな顔をしてちょっと肩をすくめた。
「決まってるじゃない。バスを呼んだのよ」
「バスを……?」
「ええ、言わなかった?バスに乗るって」
「いや、聞いたけどバスを電話で呼ぶなんて思わなかったから。それにこんな場所にどうやって」
「来たわよ」
背後を目顔を向けられ振り向くといつのまにか真後ろに赤いサイドラインが二本入った白いバスが停車していた。慄いて一歩後退りすると待ち構えていたように志摩が僕の肩をポンと叩く。
すると途端に唸るような重低音のエンジン音が鼓膜を震わせ始めた。
「ほらね」
おかしい。
寸前まで音も気配もなかった。
それにこの狭い路地にどうやってこんな大きな車体を。
志摩伊月。
当然ながらこの怪しげな女の言うことを鵜呑みにしたわけではなかった。
彼女は自分のことを死神と騙っているが、その実態は復讐の代行を餌にする詐欺組織の一員のようなものだろうと僕は推察していた。
事故死したロックバンドヴォーカルの映像を見せられたときは酔いも手伝って混乱したが、考えてみればあのような怪奇じみた動画など昨今の編集技術を使えば素人でも簡単に作り出せるはず。
ならば話は見えてくる。
要は金だろう。
僕に復讐を果たさせる代わりにと、法外な金額を要求するのが目的なのだ。
それにもしかすると、いや、おそらくは復讐を手伝うつもりなどこれっぽっちも持ち合わせてはいないに違いない。
体よく金を巻き上げ、後は綺麗さっぱり雲隠れ。
それを覚悟した上で、僕は志摩の話に乗った。
僕の心奥で未だ途絶えることなくマグマのように溢れ出す憤怒と悲嘆。
生温い法の裁きなどでそれを消し止めることなど到底できそうにない。
けれど、ならばいったいどうすれば良いというのか。
いくら考えてみてもその恨みを鉄槌に変える方法など思いつかなかった。
激情を法廷で垂れ流せば、妻の無惨な死に報いることができるというのか。
あるいは心に蓋をしたまま、奴らを指示したノワルーナという存在を追えば想いが昇華されていくのだろうか。
そう考えるたびに僕は激しく頭を振った。
違う、違う、違う……。
そうじゃない。
奴らとノワルーナに妻が受けたものと同じ、いや、それ以上の惨たらしい恐怖と痛みを与えなければ天上に召された妻に安らぎを取り戻してやれない。
そして僕は時間が憎い。
もしこのまま月日が過ぎて、この燃え立つような感情がやがて色褪せてしまったらと考えると凄まじく恐ろしい。
そうなれば僕はそのときこそ妻を見殺しにしたことになるのではないか。
絶対にそれだけは、それだけは避けなければ。
だから僕は志摩の話に乗った。
騙されても構わないと思った。
たとえその全てが
それが愚かな自己満足に過ぎないことは十分に承知していたけれど、それでも何もせずただ時間が過ぎ去っていくよりはずっといい。
そう思い至ったからこそ、僕は彼女に連れられるままにこの場所にやって来たのだった。
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