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 大型連休が終わり、抱えていた案件にひと区切りが付いたタイミングで妻を小旅行に誘った。

 温泉街にある民宿。

 一泊二日、ちょっとした山登りも楽しめると伝えると学生時代はワンダーフォーゲル部に在籍していた彼女は目を輝かせた。


「ごめんね。勝手に買っちゃった」


 行きの電車内。

 そう云いつつも悪びれもせず新品のトレッキングシューズを見せびらかす妻に僕は頬を緩める。


「いいさ。それに謝るのはこっちの方だよ。このところ一緒に居られる時間がほとんどなくてさ」


 彼女は即座に首を振った。


「そんなの刑事を旦那にすると決めた時から覚悟の上。それより例の件、大丈夫なの」


 不意に表情を曇らせた妻に僕はわざとらしく肩をすくめて見せた。


「大丈夫かどうかはこれからの捜査次第かな。組織の全貌を暴くにはまだまだ時間が掛かるから」


 彼女の眉間にくっきりとした皺が寄せられる。


 組織。

 それは近年この国の裏社会を牛耳り、麻薬や違法ドラッグの密売、強盗、殺人などあらゆる悪事に絡んでいるとされる犯罪シンジケートのことだ。

 警視庁内の秘匿名コードネームはラミア。

 子供を喰らう中世の化け物の名前だ。

 どうやら海外マフィアのいくつかが手を組み基盤を成しているとされ、かねてより警察は躍起になって潜入捜査などを進めていたがその全貌は杳としてつかめていなかった。

 けれど数ヶ月前、僕は手懐けているタレコミ屋からある情報を得た。

 それはコカインの取引日時と場所に関するもので暗号めいたラテン語で記されていた。なんとか解読した僕は上司に報告を上げ、後日その取引現場を押さえることに成功した。

 結果、それが組織の薬物密売ルートの解明に繋がり、同時にこれまでの捜査と照らし合わせて、全容とまではいかないまでもある程度はその骨組みのようなものが見えてきたのだ。

 それにより僕は功績賞を拝受することになり、周囲からも一目置かれるようになった。


 また別の収穫もあった。

 それはラミアの最重要幹部に関するものであり、はっきりとした素性は未だ不明ではあるものの、どうやら海外マフィアとの連携を進め、国内の暴力団を取りまとめる役割まで果たしているという。

 その名は新月ノワルーナ

 それが個人の別称であるのか、あるいはユニット名であるのかは定かではないが、とにかくノワルーナを特定することが組織解明の大きな楔になることは違いなく、僕が所属する警視庁組織犯罪対策班は総力を上げてその調査をしている。


 僕は膝上に組まれた妻の手にそっと自分の右手を重ねた。


「心配ない。奴らも警察には手出ししないよ」

「だといいけど」


 僕は彼女が向けてきた不安げなまなざしに何度も肯いてみせた。


 民宿は程よく萎びていて、案内された部屋の窓からは太平洋の大海原が望めた。

 日暮れ近くに到着した僕たちは荷物を下ろすと、とりあえず近くの温泉に足を向けた。そして軟らかな泉質の湯にゆっくりと浸かったあと、帰り道に海岸沿いから沈みゆく夕陽を眺め、それから宿に戻るとすでに夕膳が用意されていた。

 近場の海で揚がった新鮮な魚介に山菜の天ぷらや佃煮、害獣駆除目的で捕獲するのだろう、鹿肉のトマトソース煮込みなども添えられていて、その卓に狭しと並べられた数々の料理に僕たちはいちいち小さな歓声を上げながら舌鼓を打った。


 早めに床に着いた僕たちは何時いつとも知らず抱き合ったまま眠った。

 そのときはそれが僕たちに与えられた最後の幸せなひとときであることなどもちろん知る由もなかった。


 翌朝、朝食を終えた僕たちは宿の人たちに礼を告げて、予定していた登山に向かった。

 山の標高は数百メートル足らず。

 麓から見上げると山頂に建てられた展望台がはっきりと見て取れた。

 また登山道もしっかり整備されており、そのハイキングに毛が生えた程度の登山に妻はやや物足りないといった様子でそそくさと登っていく。

 一方、登山経験など皆無の僕は時折スニーカーの靴底を斜面で滑らせ四苦八苦しながら妻を追うように足を進めた。

 大型連休を終えたばかりの平日だからだろう。

 人気はなく、山全体がまるで貸切のような状態だった。


「なあ、ちょっと休まないか」


 額に滲む汗を拭きながら遥か上方を行く妻に泣き言を叫ぶ。

 そして息を切らせながらしばらく登ると待っていた彼女がニヤニヤと笑った。


「もう、刑事は脚が自慢なんじゃないの。現場百遍とか言って」

「いつの時代の話だよ。こんなにしんどいのは警察学校以来さ」


 彼女はクスクスと笑い、また先に立って登り始めた。


「とりあえずがんばって。もう少し登れば休憩できる山小屋があるから」

「いや、一緒に行こうよ」

「先に着いてお茶の準備しとくよ。じゃあねぇ」

「……おーい」


 苦笑いで見送った妻の姿が山中に消え、そしてそれが僕たちの永遠の別れになった。


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