第373話 一つずつ愛をこめて
魔の森の一角にて、イナリは鳥の鳴き声や草木がざわめく音に耳を傾けながら、短剣をスコップ代わりに土を掘っていた。
魔の森は、日中でも暗く、肌寒さを感じさせる場所だ。しかも先ほどまで雨が降っていた影響で、そこかしこに水たまりが見受けられる。
それに、木々についている水滴がしばしば降ってくることもある。当然、それがイナリの素肌に当たることもあるわけで――。
「――ひゃうっ!?」
「えっ?……イナリさん、今の声……」
「な、何じゃ!?別に何も驚いてなどいないが!?」
「そ、そうですか。何か、新しい扉を開くかと思いました……」
既に、大概新しい扉を開いているエリスに対し、普段中々上げたことがない声を漏らしたイナリは、顔を赤らめながらジトリとした目を向けた。
この世界の詳細な季節事情は知らないが、地球で言えば冬といって差し支えない気温だ。突然冷たい水に当たったら、あのような反応をするのも当然だろう。それに、手がかじかんで力が入りづらいことこの上ないし、勘弁してほしいところだ。
なお、元々力持ちでないイナリの力が弱くなったところで誤差でしかないというのは禁句だ。土を掘ることはできているのだから、誰にも文句を言う筋合いは無いのだ。
「――ふう、これくらいでよいかの」
十分な深さまで土を掘ったイナリは、懐からブラストブルーベリーを取り出し、地面に植える。
「エリスよ、周辺の様子はどうじゃ?」
「人も魔物も誰も居ませんね。私とイナリさんの二人きりです」
「そうか」
湿度を感じる声色で囁きながら近づいてくるエリスを、イナリは端的な返事で流した。先ほどの件といい、きっと雨のせいでおかしくなっているのだろう。
「では、我の聖魔法を使って、今植えた実を育てるのじゃ」
「……私はこれのために呼ばれたのですよね。わかっていますよ……」
肩を落とし、深いため息をこぼしたエリスは、地面に向けて手を向けて構え、詠唱のために息を吸う。
「――『我が主神たる豊穣の狐神よ、我が声に応え、その力を与えたまえ』」
「なんて?」
初めて聞いた詠唱に困惑するイナリをよそに、先ほど埋めたブラストブルーベリーが発芽し、間もなく幹へと成長する。
「お主、何じゃその詠唱は?」
「『生えろ』『朽ちろ』は少々無骨すぎると思いまして、取り急ぎ考えた詠唱句です。何かと神らしさにこだわるイナリさんなら気に入るかと思ったのですが……お気に召しませんでしたか?」
「いや、よいとは思うが……しれっと鞍替えしておらぬか」
日ごろから「我を崇めよ!」と口癖のように告げるイナリですら、しれっとイナリを主神と宣うアルト教の神官に困惑を隠せない。神官とは、そんなちょっと引っ越すくらいの感覚で主神を変えるものだっただろうか。
白い眼を向けるイナリを見て、エリスは慌てて弁明する。
「勿論、抵抗が無いわけではないですよ!でも、詠唱句で『私はアルト教神官ですけど、イナリさんの力も借りたくて』などと言っていたら、みっともないじゃないですか」
「それはそうじゃな」
「それと、誤解されそうですから念のため言っておきます。絶対に浮気はしません」
「何の話じゃ?」
エリスの思考を理解するにはまだ時間がかかりそうである。しかし、きっと大したことではないのは今でも理解できる。
「ところで、詠唱を変えたことで効果に違いはあったかの?我には魔法の感覚があまりわからんでの、お主の感想を聞きたいのじゃ」
「どうでしょうか。イナリさんと繋っている感は満点なのですが、効果は以前と変わらないように見えますね」
「ふむ、そうか」
「それで、この後はどうするのですか?着火するのですか?」
「んや、我は何もせぬよ。ただ、魔の森のあちこちにこれらを植え終わったところで、たまたま偶然、暴風が来て火事になってしまうだけじゃ」
「な、なるほど。完全犯罪ってやつですね……」
「はて、何を言っておるのやら。ただの奇跡的な偶然じゃぞ?」
慄くエリスの言葉に、イナリは白々しくすっとぼけた。
ちなみに、不可視術を発動している専らの理由はこれである。イナリ達が植えたと知られてしまっては責任を問われるが、自然に増殖した植物が何をしようが誰も責任を問うことはできないのだ。
「しかしそうか、詠唱は意味が無いのじゃな……」
イナリとしても、詠唱が聖魔法の効果に一切影響を及ぼさないというのは少し意外であった。
魔法は詠唱による影響を受けるというのはリズから幾度となく聞かされてきたので、聖魔法もまた然り、と予想していたが、イナリの力を引き出しているせいもあってか、少々勝手が異なるらしい。
以前「生えろ」「朽ちろ」という言葉で異なる効果を発揮したのだから、何かしらの違いはあってもいいものだが。悲しきかな、先ほどのエリスの言葉を聞いた限りでは、詠唱がイナリ好みの形に長くなっただけらしい。
となると、さしあたって一つ、懸念するべきことがある。
「エリスよ、この後、何度も同じことをする予定なのじゃ。絶対面倒じゃから、毎回それをするつもりなら考え直した方がよい。お主が詠唱を止めても、我は怒ったりせぬ」
「ふふ、お気持ちだけ受け取っておきます。イナリさんの力を使うのに、面倒なんて思うわけがないじゃないですよ。一つ一つ、愛をこめて発動させていただきますとも」
提案するイナリの言葉に、エリスは頭に手を置き、微笑んで返した。
そして、それから数時間が経った。
「――『生えろ』」
死んだ目をしたエリスの言葉に呼応して、地面から幹がにょきにょきと生える。
「……エリスよ、お主、先ほど何と言うたか。『一つ一つ、愛を籠めて』じゃったか?」
「言わないでください……」
によによしながら下から覗き込んで揶揄うイナリに、エリスは顔を覆いながら返した。
「忘れていたんです。持ってきた種を植え終えたら、それで終わりだと思ってたんです……確認しなかった私が悪かったのですが……」
イナリの懐に入っていた種子の量はたかが知れている。だが、埋めて生やした幹からまた種や苗を回収すれば、いくらでも増殖させることが可能である。
故に、イナリ達は一度も街に戻ることなく作業を進めていた。
少しずつ短剣を使って土を掘るのがうまくなっていく上に、疲れたらブラストブルーベリーですぐ回復できるイナリに対し、詠唱のせいで無駄に体力を使うエリスの身が疲弊していく一方であった。
「まあ、何じゃ。辺りも暗くなりつつあるし、お主が体調を崩してはいかんからの。今日はこの辺にしておくとするのじゃ」
「そうしましょう。あと、今度ハイドラさんに群青新薬を譲っていただけるか聞いてみるとして……次からはもう少し、お手柔らかにお願いします……」
エリスは倒れ込むようにイナリの尻尾にしがみつき、顔を埋めてもふもふと撫でまわし始めた。街中であれば変質者のそれだが、今日のエリスは頑張ってくれたし、人に見られるわけでもないので、労いも兼ねて受け入れることにした。
しかしこのまま森の中でべたべたしていては日が暮れてしまうので、二人は器用に密着したまま森の外を目指して歩くことになった。
「そういえば、全く魔物に遭わなかったのう。もしかしなくても、お主の姿を見て逃げているのではなかろうか」
「それは薄々感じていました。結界の端に魔物を検知したと思ったら、すぐに離れて行ってしまうんです」
「完全にそういうことじゃな。結局、人も居らんかったのであろ?」
「そうですね、誰にも見られていないと思います」
「ふむ。よきかな、よきかな……」
エリスに不可視術を発動させれば魔物除けも兼ねられると思っていたが、そちらも問題無いらしい。
初日から順調に計画が進んでいることに満足したイナリは、尻尾張り付き神官を引きずりながら森の中を歩いて行った。
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