第363話 勇者出立の儀(1)

「――イナリさん、具合はいかがですか?」


「……ううん……?」


 イナリはエリスの声で目が覚めた。ゆっくりと身を起こそうと試みるも、重力が普段の倍になったかと錯覚するほどに体が重い。エリスに手を貸してもらうことで、何とか起きることができた。


 しかし、依然としてかつて経験したことがない頭痛や気怠さを感じる。普段なら清々しく感じられる柔らかな朝日が、今は鬱陶しいとすら思える。


 エリスは、顔を顰めながらぼうっとしているイナリを優しく撫でると、近くに置いてあった杯を手に取って差し出してきた。


「まだ本調子ではないみたいですね。こちら、水をどうぞ」


「感謝するのじゃ」


 イナリは杯を受け取ると、ちびちびと水に口をつけた。乾いていた喉が潤い、幾らか気分もよくなる。


 そうして冷静になると、今度は頭の中が疑問で埋め尽くされる。


「我は、どうなってしまったのじゃ?こんなことは初めてで……わからないのじゃ。だって先日まで、我はアース達と――」


「二日酔いですね」


「ふつかよい」


 ふるふると震えていたイナリは、エリスの言葉を反芻した。


「簡単に言えば飲みすぎです。イナリさん、普通のお酒では酔わないと言ってましたし、酔う感覚に慣れてないせいで止め時が分からなかったのかもしれませんね」


「なるほど、納得じゃ。我としたことが、アース達にはみっともないところを見せてしまったようじゃのう……」


「何なら、私達もこれでもかというほど見せつけられています。それはもう、凄まじいくらいに」


「んな」


 愕然とするイナリをよそに、エリスはイナリの醜態を一つ一つ挙げ始めた。


 曰く、アースの頭に巻き付いていたとか、リズが寝ているベッドを雪と勘違いして飛び込み、そこで眠っていたリズの腹に突っ込んだとか、廊下で寝始めるとか……少なくとも、パーティの面々全員に一度は迷惑をかけたらしい。


「――それにイナリさん、私に言い寄ってきたんですよ?ふふ、あんなに情熱的なイナリさん、中々見られませんからびっくりしちゃいました。……その後吐きそうと言われて、それどころじゃなくなりましたが」


「のわああ……!」


 身に覚えのない数々の醜態に、イナリは変な声を上げながら毛布を被り、体の怠さを忘れて悶絶した。




 ひとしきり暴れ終えたイナリは、エリスの手を借りながら庭へと移動した。雨上がりのせいか、地面がぬかるんでいる。


 危うく転びそうになりつつ、雨の水滴が残っているブラストブルーベリーを摘み取り、頬張った。


 弾ける食感と酸味が体全体を刺激する感覚を一通り堪能したところで、イナリは軽くその場で跳ねたり、腕を回して、自身の体の気怠さがかなり低減されたことを確認した。ブラストブルーベリーは二日酔いにも効くらしい。


 しかし流石神の酒というべきか、まだ若干の気怠さは残っている。ここは一つ、耐性をつけるために甘んじておくことにしよう。


「ひとまず、動けるくらいにはなったのじゃ」


「それはよかったです。イナリさんの看病も悪くありませんが、やはり元気なお姿が一番ですね」


 エリスはイナリの頭を撫でると、イナリの両肩に手を乗せながらしゃがみ込み、視線を合わせてくる。


「では、早速で申し訳ないのですが、急いでお出かけの準備をしますよ」


「む?」


「もうすぐ勇者出立の儀が始まります。他の皆さんはもうあちらに居ますので、私達も急いで合流しましょう」


「……ああそうか、我が寝ている間に一日経ってしまったのじゃな!?」


「厳密には寝ていませんでしたけどね」


 ぼそりと呟くエリスの言葉は一旦聞かなかったことにするとして、イナリは己の愚行に再び愕然とした。一歩間違えれば、貴重な友人の一人であるイオリとの約束を反故にしていたかもしれない。


 イナリは慌てて寝室に戻り、手早く身支度を整え始めた。




 かくして、イナリはエリスと共に「勇者出立の儀」なるものが実施されるという、魔法学校へと赴いた。


「人が多いのう」


 魔法学校の敷地内は、どこを見ても人だらけだ。しかし敷地は広いので、イナリがもみくちゃにされたりすることは無い。


 やはり、勇者を一目見たいという者は多いのだろうか。明らかに学生ではない者もそこら中を歩いているし、そういった層を狙って屋台を出している者も居る。


「……いや、こやつら、祭りかなにかと勘違いしておらぬか?」


「あながち間違いではありませんね。勇者が魔王討伐に向かうというのは、大事な行事の一つです。勇者の方の無事を祈るとともに、帰ってきたいと思えるように全力で送り出す……世界各地で行われてきた、重要な場です」


 エリスは手を胸の前で握り、如何にも敬虔な神官のような所作をしながら答えた。


「ふうむ、そんなものか?適当に理由をつけてはしゃいでいるようにしか見えぬがの」


「イナリさん、随分ひねくれた見方をしますね」


「我は祭られる側じゃからの、そら視点も異なるじゃろうて」


 苦笑するエリスに対し、イナリは胸を張って返した。自身が神である事を少しでも示せる機会があれば絶対に逃さないのがイナリである。


「とは言ってみたものの、あっさり送り出されるより良いのは確かじゃな。……それはそうと、後で屋台を見に行かぬか?」


「ふふ、わかりました。でも、食べすぎには気をつけましょうね」


「うむ」


 イナリは尻尾を振って後で向かうべき屋台を遠目に吟味しながら、魔法学校の中を進んでいく。


「それにしても……勇者出立の儀じゃったか?魔法学校で実施するのじゃな。我はてっきり、いつもお主が働いている教会辺りでやるものと思っておったのじゃ。……あいや、転移魔法を使うのならば当然か」


「そうですね。ですが、それ以外にも理由があります」


「ふむ?」


 イナリが首を傾げると、エリスは声を潜め、イナリだけに聞こえるように囁く。


「カイトさんは教会から酷い仕打ちを受けていたわけじゃないですか。漸くそこから解放されたというのに、また魔王討伐をお願いするというのは、あまりにも道理がなっていないと思いませんか?」


「あー……確かに、どの面下げてという感じではあるよの」


 実際はカイトが自ら望んで魔王を討伐しに行っているのだが、世の中全ての人間がそのように事実を把握するとは限らない。


 後ろめたいことをしていた教会の事だから、もしかしたら今も、勇者を何らかの形で……などと邪推する者は当然いるだろう。そうでなくとも、教会がしゃしゃり出て来て快く思う者は少数派だろう。


「そういうわけで、カイトさんの事は応援しているけれども、それはそれとして教会はちょっと、という方は少なくありません。その辺のバランスも考慮した結果の采配なのでしょうね。ちなみに教会に対する信用の話で言えば、私達回復術師の治療を拒む方すらいます」


「それは凄まじいのう」


 教会が信用できないところまではわかるが、それで時に命が係わる治療すら拒否するとは、どういった心理なのだろう?やはり、人間というものはわからないものである。


 そんな会話をしながら、イナリ達は魔法学校の校舎へと足を踏み入れた。


「これ、どこに向かっておるのじゃ?」


「待合室ですね。私達は招待枠の関係者として、一般に公開されない儀式にも同席できるはずです」


「ほう。何をするのじゃ?」


「本来なら神器の授与式や教皇からのお言葉等があるのですが……今回の場合は、略式になりそうな気もします。どうなるでしょうね……」


「その辺も楽しみにしておくのじゃ。ちなみに、美味な食事は出てくるのかや?」


「いえ、出てこないと思います」


「…………そうか」


「そんなに露骨にがっかりしないでください」


 エリスは、肩を落とすイナリの頬をぷにりとつまんだ。

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