第362話 びっくりするほどのおバカ ※別視点
<エリス視点>
私は、イナリさんが居ないベッドで一人寂しく夜を明かしました。しとしとと雨が降る音と、リズさんが寝返って毛布が擦れる音が部屋に響いています。
「……」
いつもの温もりを感じられないことに寂しさを感じつつ、ベッドを軽く整え、寝ぐせを直したら、リズさんを起こさないように部屋を後にします。
そして居間へ移動すると、ディルさんとエリックさんの姿がありました。
「おはようございます。イナリさんは帰ってきていますか?」
「いや、見てない。確かアースのところに行ったんだろ?まだ帰ってないのか」
「ご飯を食べるって話だったよね。アースさんのところに泊まってるのかな?」
「ああ確かに、そういうこともあり得ますね」
もしかしたら、私が寝ている間に神託で教えてくれていたのかもしれません。折角なので、こちらから折り返して――。
そう思った直後、居間の端の空間が歪んで黒い穴が出現し、そこから黒いドレスに身を包んだ少女が出てきます。
……何故か、顔面にイナリさんが巻きついた状態で。当然、この場に居た私たちは全員困惑です。
「ええと、アースさん……ですよね?」
「ほふほ。はっはとほほほははほほうにかひて」
推定アースさんは、巨大なマフラーのごとく器用に巻きついたイナリさんを指さし、何かを訴えています。イナリさんが綿のように軽いから成立している絵面とはいえ、あまりにもシュールです。
「もごもごしてて何言ってるのかわかんねえな」
「とりあえず、イナリちゃん絡みの事なのは間違いなさそうだけど」
私達が推定アースさんの前に歩み寄ると、アースさんは撒きついたイナリさんの腹部を持ち上げ、うんざりとした様子で口を開きます。
「このおバカをどうにかして頂戴」
「な、何があったんですか?」
肩で息をしながら声を上げるアースさんに、私は圧されつつ返しました。するとアースさんは、イナリさんをの腕を解いて強引に引きはがし、そっと床に転がします。
「お酒を飲んだの」
「……まさか、酔っ払ったのか?」
ディルさんの言葉にアースさんが頷きます。よく見ると、確かに床に転がされたイナリさんの顔が紅潮しているのが分かります。
すやすやと眠っている様子は微笑ましいですが、もしかしなくてもアースさんの頭に抱き着いたまま眠っていたのでしょうか。器用な事をしますね……。
そんな風に感心していると、エリックさんが口を開きます。
「あれ?確か、イナリちゃんってお酒を飲んでも酔わないって話じゃ?」
「神が飲むようなものだから、人間が飲むような物とは全く別次元の代物よ」
「なるほど」
確か、イナリさんは毒物などに尋常でない耐性があるだけで、それを上回る物は普通に有効だったと記憶しています。神が嗜むようなお酒を、私達が飲むようなそれと同列に考えるべきではないのでしょう。
そんな風に納得しているうちに、アースさんは話を進めます。
「それで、まあ。今のイナリは簡単に言うと、退行してるわ」
「イナリさんの幼児退行ですか……ふむ」
「ふむじゃないが。また碌でもない事考えてるだろ」
「本当、何でイナリが貴方に懐いてしまったのか不思議だわ」
まだ何も言っていないのに、ディルさんとアースさんから白い眼を向けられてしまいました。遺憾です。
一方のエリックさんは、先ほどに続いて冷静に疑問を口にします。
「神が退行するとどうなるんだろう。イナリちゃんぐらいの齢になると、大して変わらないんじゃ?」
「貴方がどういう意味合いで言っているのかはわからないけれど。簡単に言うと……私が恐れていたイナリに戻ったわ」
「アースさんが恐れる、ですか?」
「ええ」
アースさんの言葉に私達は息を飲みました。この底知れない少女が恐怖を抱くとは、一体どのような事なのでしょうか。アルテミアでのアースさんのように、イナリさんが真の姿になるとかでしょうか?そもそも、イナリさんにそんな概念があるのかが疑問ですが。
「例えると、野性的になるというか……びっくりするほどのおバカになるの」
「びっくりするほどのおバカ」
予想だにしていなかった言葉に、私達は思わず復唱してしまいました。
「本当に大変だったのよ。いきなり成長促進全開にして、『自然が我を呼んでいる』とか叫びながら地平線に向かって走り出して。壁があろうが穴があろうがお構いなしで突撃していくのよ」
「そりゃ凄いな……」
「ふふ、可愛いじゃないですか」
イナリさんがとてとてと走り、壁に激突したり、穴に躓いて転ぶ様子が容易に想像できます。不憫ではありますが、子供らしくて可愛らしいです。
「昔のイナリは、その勢いで世界の陸の七割近くを森にした実績があるのよ。それも素面でね。もしうっかり地上に降り立ったら、この世界の文明が崩壊しかねないわよ?」
「おい、全然可愛くねえぞ」
「え、ええと……結果的に無事なのでセーフ、ですよね……」
ディルさんの言葉に、私は震えた声で返しました。昔のイナリさん、アクティブすぎです。
「で、そんな危機を全力で阻止したのが私ってわけ。イナリから私に抱き着いてくるまで、このおバカは捕まえてもすぐ逃げ出して、もう……本当に疲れたわ」
「お、お疲れ様です……」
普段は飄々としているアースさんが初めて見せる表情に、私達はただただ、労いの言葉を掛けることしかできませんでした。
そんなアースさんを見送り、私はイナリさんを寝室へ運んで寝かせました。
そして少しだけ寝顔を堪能し、水を用意するために立ち上がろうとすると、私の服の裾が掴まれます。
「んう……えりす?」
「おはようございます。具合は――」
「おぬしぃ、我からはなれるでないぞぉ」
イナリさんはまだ酔ったままなのか、未だに呂律が回っていない様子です。
「ふふ、そんな事を言わずとも離れませんよ?」
「嘘じゃ。はなれようとぉ、しておる!」
「い、イナリさん?」
イナリさんは身を起こすと、私の肩を掴んで顔をずいと寄せてきます。……もしかして、まだイナリさんはアクティブな状態なのでは?
「だ、ダメですイナリさん。そこでリズさんが寝てますから」
「関係ないのじゃ。おぬしはもう少し、我がどう思っているのかちゃんと知るべきじゃ。よく聞くがよい。我の中にこみ上げる、この気持ちを――」
イナリさんは先ほどの酔っ払い状態とは打って変わって、赤い瞳を輝かせ、妖艶な雰囲気で迫ってきます。
「ま、待ってください、まだ心の準備が…………イナリさん?」
心の片隅でイナリさんの言葉の続きを期待して待っていましたが、イナリさんはぴたりと動きを止めてしまいました。
そして数秒の間を置いた後、顔を青ざめさせ、手で口元を抑えました。
「……き、気持ち悪いのじゃ……吐くかも……」
「待ってください。それは本当に洒落にならないので、待ってください」
私は慌てて別のものがこみ上げそうになっているイナリさんから距離を取り、近くにあったゴミ箱をイナリさんに渡して事なきを得ました。
この時イナリさんが何を言おうとしていたのかは、きっと本人すらわからないでしょう。それが少し残念な気もしますが、きっとこれでよかったと、どこかほっとしている自分も居ます。
それはそうと、普通に危険すぎるので、イナリさんには後で禁酒令を言い渡そうと思います。
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