第361話 エーサン
「のう。転移者は歪みを倒した後、地球に帰るのじゃよな?」
天界へ戻ったイナリは、茶を啜りながら尋ねた。
「そうね。アルト、貴方が迎えに行くわよね?」
「そのつもりです。流石に地球神様には色々として頂きましたし、最後くらいは私が動かせて頂かないといけませんよね」
「当然ね。私も、イナリのためとはいえちょっと働きすぎたわ」
「あはは……本当にありがとうございます。お二方には、感謝してもしきれませんね」
腕を上げて体を伸ばしながら露骨に疲労感を示すアースに、アルトは苦笑しつつ返した。
「ただ、少し懸念がありまして。転移者、帰りたくないとか言い出したらどうしましょうか。科学文明の人間って、妙に魔法文明に憧れるイメージがあるんですけど」
「それは無視して強制送還でいいわよ。まあ、この前帰りたいって言ってたから、問題ないとは思うけれど……」
「む、お主いつの間に話しておったのじゃな」
「操作状態を解除した時に少しね。まあ、心変わりしてたら面倒だけれど……イナリ。転移者に何か変化はありそうかしら?」
「んや、特にないと思うがの。……あ、そうじゃ。少し気になる話を聞いたのじゃ」
イナリは指を一本立て、意気揚々と話を切り出す。
「お主ら、『えーさん』という者に心当たりはあるかの?」
「知らないわね」
「私もです。そもそも私が名前を把握している人物というと、数名の友神と、聖女と主要な勇者くらいのものですね」
「……神器の番号は覚えてるのに?」
「神器には思い入れがありますから!」
何故か誇らしげに答えるアルトだが、それは逆に言うと、他人または他神にはあまり思い入れがないということになる。創造神らしいといえば創造神らしい。
しかしよくよく考えてみると、イナリも神生の大半は孤独に過ごしていて、何かしら思い入れのある他者ができたのはつい最近の出来事だ。つまり、思い入れが無ければ何とも思わないのは神ならよくあることなのかもしれない。
となると、イナリも何かが違えば、その辺の草木全部に名前を付けたりしていたのだろうか。
閑話休題。思考が別方向に逸れかけていたイナリは軌道を戻す。
「聞いたところによると、そやつが転移者と接触しているらしくての。何やら、地球の事を知っている口ぶりだったそうじゃ」
「なるほど。転移者が吹聴した地球についてではなく、別世界としての地球を把握している、ということですか?」
「……ええと、多分その通りじゃ。確か、『地球の事を知っていて、魔王を倒したら会えるかもしれない』だったかの?」
イナリは空を見上げながら記憶を辿り、イオリの言葉を再生した。一言一句とまではいかないまでも、大体言っていたことは合っているはずだ。
「だとしたら、アルトの世界に私の世界を認識した者が居て、転移者に接触しようとしているということよね?……一応確認するのだけれど、イナリは誰かに……例えばあの信者とかに、地球の事を言及したことは?」
「無いのじゃ。地球のちの字も無いのじゃ」
杯に入った飲み物をくるくると回しながら問うアースの言葉に、イナリはふるふると首を振って返した。
一応「異界の神」として召喚されたことはあるが、あれは失敗として処理されているだろう。監獄に入るような人間に、イナリの神々しさを見抜く力は無かったのだ。
「うーん、転移した時に見られたのかしら。ちょっと厄介なことになりそうね」
「狐神様、その人物の狙い等はわかりますか?」
「んや、全くじゃな。多分、誰にもわからないのじゃ」
「そうですか。派手に痕跡を残してくれたら楽なんですけど……どうしてこう、一つ片付くぞってところで別の問題が生まれるんですかね」
「大変そうじゃな……」
イナリは頭を抱えて嘆くアルトを哀れんだ。
地上では何かと事件や事故に巻き込まれているイナリだが、アルトもアルトで、中々不憫な目に合っているのではなかろうか。アースという、アルトにとって一歩間違えたら敵対するような存在と杯を交わし合っているというのも、肝が据わっているというかなんというか。
「ひとまず、聖女に探らせるために、あとで神託を飛ばしておきます。何かわかったらお伝えしますね」
「うむ。ああそれと、ついでに頼みたいことがあるのじゃ」
「はい、何でしょう?」
「我が降りた土地あるじゃろ?そこが今、紆余曲折あって人間に占拠されかけていてのう」
「ああ、それは対処が必要ですね。何か魔法を撃ちますか?憂さ晴らしにちょうどいいですね」
「いや違うのじゃ」
腕をまくって謎のやる気を見せ始めるアルトを、イナリは冷静に制止して続ける。
「ただ、『魔王が暴れるから逃げろ』と、そう伝えるのじゃ」
「……それだと狐神様が不利益を被ってしまうのでは?」
「いや、これでよい。とうに魔王と恐れられている身じゃ、どうせなら利用してもよかろうて」
「き、狐神様!自己犠牲を厭わないその姿勢、感激しました……!」
目に涙を浮かべて讃えるアルトに、イナリは得意げに胸を張った。その傍ら、アースが袖をつまんでジトリとした目を向けてくる。
「貴方ね、自分の身は大切にしなさいよ?」
「勿論じゃ。ちゃんと計算したうえでの戦略じゃ」
イナリは頭をとんとんと叩きながら返した。アースは依然として「大丈夫かこいつ」と言わんばかりの目を向けてきているが、そこは結果で語れば良い話だ。
「まあいいわ。それじゃあ積もる話もそこそこに……そろそろ飲みましょうか!」
「おっ、ついにですか!」
おもむろに足元にあった瓶を掲げるアースと、それに色めき立つアルトとは対照的に、唐突すぎて展開が追いつけていないイナリはぽかんとしていた。
「何じゃ、それ?」
「数少ない知神から譲り受けた酒よ。私達でも楽しく飲める逸品ね」
「……それは、お主らが創るのとは違うのかや?」
「全然違います。即席麺と生麺くらい違いますよ!」
「何もわからんのじゃ」
もしかしたら的確な例えなのかもしれないが、イナリの知らない概念を用いられてはわかるわけがなかった。
「とにかく、美味しいってことよ!」
そして、首を傾げ続けるイナリに対し、アースは乱暴な結論で締めくくった。そんなやり取りをしているうちに、酒が注がれた猪口がイナリの前に差し出される。
「ううむ。我、酒の良さはあまりわからんのじゃがのう……」
イナリはあまり気乗りしないまま猪口に口をつけ、酒をくぴりと飲み込んだ。
イナリの記憶は、ここで途切れている。
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