第317話 いらないです

 牢獄内が静まり返る中、イナリだけはいち早く事情を察知していた。


 もしかしなくとも、異界の神として最寄りにいるイナリが呼び出されたのであろう。生憎、魔術師の本意とはかけ離れていることだろうが、少なくとも異界の神という存在を引き当てたという意味では、魔法陣は正常に動いているし、それを描いた彼の腕も確かと言えよう。


 この状況から最も早く復帰したのは、イナリを連れて逃げようとした看守であった。


「今鍵を持ってくる!逃げた奴らも連れ戻してくるから待っていろ!」


「わ、わかったのじゃ」


 イナリは看守の言葉に頷き返し、走り去る看守の背を見送りながらあることに気が付く。


 今のイナリは、つい先ほど喧嘩を売ってしまった者と同じ牢屋にいるのである。つまり、今のイナリはかなり拙い状況にあるということだ。ただでさえ情緒がおかしそうなこの魔術師がこれから何をするのか、まるで予想がつかない。


 渾身の魔法の結果に対して意気消沈するならそれで結構だが、逆上してイナリに襲い掛かってきたりしたら堪ったものではない。今イナリができることは、目の前の魔術師を刺激しないようにしながら、看守たちの救助を待つことである。


 さて、声を掛けるべきか否か。イナリが悩んでいると、別の者が代わりに声を掛ける。


「おいおい、随分と可愛い神サマじゃねえか。さっすが、希代の魔術師さんは格が違えや!」


「終焉とやらが見られると思って楽しみにしてたんだけどなあ!それともまだ何か見せてくれんのか?」


 これ以上ない程徹底的に魔術師を煽り立てていくのは、他の牢屋に閉じ込められている囚人であった。何か狙いがあるのか、助からないと見て自棄になっているのか、あるいはただの阿呆なのか……何にせよ、イナリの思考が全て水の泡となった事は間違いない。


 当然のことながら、こんな煽りを受けた魔術師が冷静で居られるわけもなく。瞬く間に怒りの形相を浮かべた彼は、ずんずんとイナリの方へ迫ってくる。


「ま、待つのじゃ。わ、我に手を出しても何も事態は好転せぬぞ。あやつらが勝手に言うておるだけで、我は別に――」


「黙れっ、どけぇ!」


「のわっ!?」


 魔術師は魔法陣の上に立って狼狽えていたイナリを乱暴に押し退け、囚人たちが煽り立てる声を無視して地を這うように魔法陣を眺め始める。


「一体何を間違えた?……神の力は正常に取り込めたはずだ……対象指定か?」


 魔法陣は間違いなく使命を全うしているのだが、魔術師から見れば、魔法陣は近くにいたいけ好かない狐少女を誘拐してきただけに過ぎない。彼はぶつぶつと呟きながら、血眼で魔法陣を確認し始める。


 己に対する暴挙に文句の一つくらい言ってやろうと思ったイナリだったが、たかが一つの魔法陣に身を削る魔術師の様子を見ているとその気も失せた。むしろ、正しく仕事をした魔法陣の「間違い」を探させる方が、余程残酷な仕打ちであろう。


 故に、イナリは静かに牢獄の隅で息を潜めることにした。


「……ああ畜生、時間がない!」


 魔術師は頭を掻いて声を上げると、魔法陣の一部分を乱雑に擦って消し、再び腕の血を魔法陣につけて起動する。


 そして再び、魔法陣が光を放ち始める。


「全く、無駄な事をするものじゃ」


 イナリはため息をついて己が再召喚されるのを待った。




 ……が、今回はイナリの再召喚はされずに光が収まった。


 目を開くとそこには、汚れ一つない純白の布に身を包んだ銀髪の少年が立っていた。彼はこの世界の創造神、アルトである。


「お、おぉ、成功した、成功したぞ!どうだお前ら、散々この私を馬鹿にしておいて、今更命乞いをしたところでもう遅いぞ!」


「……随分と粗雑な作りの魔法陣ですね」


 アルトは興奮する魔術師を無視して魔法陣を一瞥する。その様はまるで、床に落ちていたゴミを踏んづけてしまった時のような反応である。


 それはそうと、イナリもアルトも同じ神であり、外見年齢的な見た目はそう大して変わらないはずなのに、どうしてこうも反応に差があるのだろうか。……イナリは魔術師の目の前で囚われの身であったからか。


 イナリが、少なくとも本人にとって非常に重要な問題に思いを馳せているうちに、魔術師が興奮冷めやらぬ様子でアルトに話しかける。


「さあ神よ、この世界に終焉を齎したまえ!!」


「はあ」


 アルトは「お前何言ってんの?」とでも言わんばかりの態度で返した。たかが人間の分際でこの世界の創造神にこの世界を壊すよう命令しているのだから、その反応は当然と言えば当然である。


 アルトは不快感を顕わにしながら魔術師に語り掛ける。


「この私に対価も無しに命令とは、人間も随分偉くなったものですね」


「対価……ああ確かに、神に対する礼儀がなっていなかった。この世界全てを壊すのがある意味対価と言えるかもしれないが……そうだな、まずはこの娘を捧げよう」


「ほへ?」


 魔術師は牢屋の隅で静かにしていたイナリの両手を強引に掴み、アルトの前に引きずり出した。


「この娘を好きにして構わない」


「いやいらないですが」


「は?」


 イナリはここ最近で一番低い声をアルトに向けて放った。しかしアルトはそれを一旦無視して言葉を続ける。


「私が言いたいのは、貴方がこのゴミみたいな魔法陣に使った私の力を、どう埋め合わせてくれるのかという話です」


「『私の力』?何の話をしている?」


「……話になりませんね。まあ、狐が……狐様を生贄にしようとした時点で貴方の運命は確定していたのですが」


 アルトはそう言って右手で魔術師の心臓部を貫いた。


「がっ……な、なぜ……」


「そもそも、神を思惑通りに動かそうだなんて、思い上がりも甚だしいです。ああそれと、そもそも私は貴方に呼び出されたのではなく、私からわざわざ来てあげたんです。その点の認識も改めて……って、もう聞こえてないですかね」


 アルトは魔術師が息絶えた事を確認すると、魔法陣を足で掻き消して、何事も無かったかのようにイナリに向き直った。


「お久しぶりです、狐様。先日は大変助かりました。それで一体、どうしてこんな薄汚い場所に?人間に報復するなら手伝いますよ」


「結構じゃ」


 中途半端にイナリが神であることを濁しながら挨拶するアルトに対し、イナリは首を横に振って返した。


「そうですか。はあ、それにしても、どうしてこうも神を召喚しようとする者が後を絶たないのでしょうか。こうして原因を絶つのも面倒ですし、いい加減学習して欲しいものです……」


「……神を召喚しようとした者が皆死んでしまっては、誰もその危険性を伝える者が居らんのではなかろうか?」


「……確かに」


 イナリの言葉にアルトは目を泳がせてから、ぽんと手を叩く。


「ああいや、きっとこの周りにいる者が伝えてくれることでしょう。ねえ?」


 アルトは鉄格子をぽきりと折って外に出て、先ほどまで野次を飛ばしていた囚人たちの顔を覗き込んだ。屈強な者らが皆必死の形相で頷いている様は何とも滑稽である。


「それとお主。この我がいらないとはどういう事じゃ!勇者の件が済んだからこの我は用済みとでも!?」


「違うんですよ狐様。ええとほら、流れってやつです。あそこで受け入れるのはちょっと違うじゃないですか」


「……まあ、一理あるのじゃ」


「そうでしょう。狐様の存在は非常に助かっていますとも」


「ふむ。そうであろ、そうであろ……」


 二神が会話していると、イナリの耳が複数人が駆けてくる足音を拾う。アルトにそれを伝えようとしたところで彼もそれに気がついたようだ。


「おっと、誰かが来るみたいですね。このまま居てもよくなさそうなので、私は一旦帰ります。また今度、地球神さっ……地球の方も交えてゆっくりお話ししましょう」


「そこまで言ってしまったら、言い直したところで無意味な気がするがの……」


 アルトのあまりに違和感剥き出しな誤魔化し方に、イナリはジトリとした目を向けながら呟いた。


「気にしないでください!ここに居る目撃者が余計なことをした時は、ちゃんと始末しますから!」


 アルトは囚人たちに向けて釘をさすと、そのまま亜空間へと消えていき、後にはイナリだけが残された。


「……にしても随分ときれいに貫いたのう」


 ここから勝手に動いてしまったら寧ろ場が混乱するだろうと判断したイナリは、魔術師の亡骸の傍に立って跡を眺め、感心するように呟いた。

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