豊穣神、投獄される

第310話 牢屋での生活

「全く、我は人間と獣人の対立を回避してやったというに、何たる仕打ちか!」


 イナリは硬いパンを看守に差し戻し、石畳に寝そべって文句を零していた。


 だが、実際のところ、その理由は既に把握している。端的に言えば「イナリがイオリだったから」だ。どうにも、集落の頭として、獣人の扇動や教会の破壊、その他イナリが知る由もない細々とした獣人の悪事諸々の責任を丸々被せられたようである。


 一応、イナリを連れ出した人間達に己がイナリであると訴えてみたりもしたのだが、「狐は詐術を使うから耳を貸すな」などと言われまともに取り合ってもらえず、ならば己の仲間に口利きしてもらおうかと大人しくしていれば、檻に案内されてそのまま出荷されてしまったのである。


 ただ、ナイアやトゥエンツではなくメルモートまで連れて来られた理由までは分からない。まともな牢獄がここにしかないのか、あるいはナイア辺りにあるかもしれない牢獄が満員なのか、はたまたそれ以外の理由か……こればかりは、イナリの持ち合わせる知識が乏しいために、考えたところで仕方がない話だ。


「ともあれ、旅から帰って来られたことを喜ぶべきかの」


 イナリは半ば現実逃避気味に呟いた。メルモートに帰って来るにしても、まさかこんな形でとは誰が予想できるだろうか。


「……帰りたいのう」


 イナリは何度も寝返りを打っては、脳内にある快適な家と、今自分が居る場所を照らし合わせ、ため息をこぼした。


 イナリの家と同等くらいの大きさの牢屋は、壁、床、天井、いずれも重厚感ある石を贅沢に使用しており、寝床には薄い布一枚、その隣には簡単に壊れそうな木の椅子が用意されている。


 窓は無いが、代わりに解放感ある鉄格子が設けられており、その間に通路を隔て、向かい側にも複数の牢屋が見える。どうやら二階建ての構造になっているようで、イナリは下段の牢屋に割り当てられているようである。


 その中には人が居たり居なかったりだが、何れも色々な意味で只者で無さそうな雰囲気だ。死んだように眠っている者、何も無いのに何故か笑っている者、血走った眼で床を引っ掻き続ける者……軒並み、投獄されるだけのことはありそうな面々である。


「んああ、最悪じゃあぁ……」


 なんだかんだで恵まれた環境にいたイナリにとって、この環境は過酷の一言に尽きる。失って初めて気づくものというのは、まさにこういうものを言うのであろう。


 だが辛い話はそれだけに留まらない。所持品は全て没収されるわ、質が悪くて大きさも合っていない服を着させられるわ、支給される食事が悉く硬くて食べられなかったり、何処をとっても散々だ。


 特に所持品の没収で、指輪と神器が没収されたのがかなり痛い。別に命に関わったりはしないけれども、何れもイナリの私物であり、ある種、心の拠り所と言えるものなのだ。


 着物は着ていなかったので無事なのが不幸中の幸いだが、イナリの私物が処分などされようものなら、相応の報復すら視野に入るぐらいには大きな問題になることだろう。あるいは、イナリが何かするまでもなく、アルトかアースが出張ってくるかもしれないが。


「にしても埃っぽいのう。誰も掃除をしておらんのかや?」


 イナリは文句を零しながら尻尾にくっついた埃を掃い、風を操って換気をした。そしてふと、ここに連れて来られるまでに看守が言っていた言葉を思い出す。


 ここに投獄される前に看守から簡単にこの場所についての説明をされたのだが、曰く、ここには魔法の行使を阻害する結界があるらしい。


 要するに余計なことは考えず大人しくしていろということが言いたいのであろうが、現にこうして、イナリの風を操る能力が使えている。つまり、イナリの能力に対する制約として、魔法の禁止は何の意味も為さないということになる。


「もしや……」


 イナリは誰も自分を見ていない事をよく確かめた上で、試しに手元に風刃を作って鉄格子に当ててみる。すると、やすりで擦るような音を鳴らしながら僅かに鉄格子に傷が入る。


「我、逃げられそうじゃなこれ」


 時間はかかるだろうが、少しずつ切断していけば一時間程度で脱走は可能だろう。風刃の代償である、尋常でなく疲れるという点にさえ目を瞑れば、不可視術との合わせ技で完全犯罪すら成立する。


「ううむ、しかしのう……」


 この考えをイナリは懸念した。


 脱走したとて、その先に未来があるかと言えばまた別なのだ。まず間違いなく人間の街を大手を揮って歩くことはできなくなるし、皆と居ることも難しくなるであろう。


 獣人に向けて散々未来がどうのと講釈を垂れた手前、そんな短絡的な行動をするのはあまりにもみっともないだろう。イナリは未来を見据えて耐え忍ぶことができる、賢い豊穣神なのである。


 故に、イナリは床に座り、しばらくこの状況に耐えることを選択した。


「皆はどうしておるかのう?」


 一応、エリスにイナリが置かれている状況は概ね伝えてあるが、「今すぐ戻る」という返事が返ってきたきり、その後どうなったのかは分からずじまいである。


「ま、今回もすぐに開放されるじゃろ」


 イナリはこの世界に来てからというもの、捕縛、誘拐、襲撃、その他諸々、妙に多様な事件に遭遇しているが、そのいずれも比較的短期間で完結している。ならば、今回もその例に漏れないと見るべきだ。


 実際、イナリに課せられた罪とやらは冤罪であるし、イオリ本人との面識がある以上、その証明もそう難しくは無いはずである。


 故に、イナリは現状を渋々受け入れ、楽観的に構えることにした。




 ――そして、三日が経った。


「もう無理じゃ。辛いのじゃ」


 結論から言えば、イナリは獄中の生活を嘗めていた。なんとこの三日間、一切この牢屋から外に出ていない。地球ではずっと社に居たしそれと同じようなものだろうと高を括っていたが、全然そんなことは無かった。


 ここには何もない。本当に何もない。変化があるとすれば、食事と、体を洗うための水が入った桶や仕切り用の布を支給されるくらいである。


 食事は数少ない楽しみになるかもしれないと期待していたが、硬いパンが食べられないことに配慮して食事がスープに変わっただけで、しかもその辺の雑草をそのまま食べた方が美味しいかもしれないと思える程度には美味しくない。きっと、栄養以外には何も考慮されていないのだろう。


 なお、他の囚人との交流もない。


 厳密に言えば、幾らか会話をする機会はあったのだが、犯罪自慢だとか、そもそもイナリ以外の何かに向けた発言だとかで、まともな会話が全然成立しなかったので、ただただストレスが溜まるだけであった。


 そうなると、心の支えがエリスと神託を通じて会話するくらいしかないのだが、集中力が切れてしまうと神託が使えなくなる関係上、一日あたり一時間程度が限界である。


 故にイナリが心を無にしていると、牢屋の前に看守が立ち、口を開く。


「囚人番号五八七二、面会だ。……聞いているか?」


「……あ、我か」


 イナリが勝手に割り振られた番号など覚えているわけもなく、まさか自分が呼ばれているとは思わなかった。


 それに、自分に用がある者とは誰だろうか。


 心当たりはエリスくらいしか居ないが、特に面会に来るなどと言う話は特に聞いていない。となると必然的に見知らぬ誰かになるのだが、呼びつけられる心当たりも無い。


 一抹の不安を覚えつつイナリが立ち上がって看守の前に行くと、手を縛ってから牢屋を連れ出され、要塞の中にある小部屋へと誘導された。記憶が正しければ、これはこの要塞に多くある談話室だ。


「失礼します。件の者を連れて参りました」


「ありがとうございます。私は大丈夫ですので、下がって頂いて構いません」


「畏まりました。私は外で待機しております」


 看守はそう言って部屋を後にし、後にはイナリと面会者のみが残される。


「……よし、もういいかな。久しぶりだね、イナリちゃん」


「お主は……アリシアか」


 聖女という予想だにしていなかった面会者に、イナリは僅かに身構えた。

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