第304話 (読めない)
イナリの言葉を聞いた獣人は、困惑の面持ちで他の者と顔を見合わせていた。
「……なあ、何言ってるのか分かったか?」
「俺だけだったらどうしようと思ってたけど、お前も?」
誰にも伝わらないような言葉を用いたのだから、このような反応になるのは分かりきっていた事だ。だがここで狼狽えたり、今の言葉について説明してはいけない。たとえ体中に汗が浮かぼうが黙して語らず、流れに身を任せるのが最善である。
とはいえ旗色が悪いのは事実なので、少し言葉を重ねた方がいいのかもしれない。イナリの意思が揺らぎ始めてきたところで、舞台袖から大きな声が上がる。
「姉様、素晴らしいです!私は貴方についていきます!!」
声の主であるパウセルは、バサバサと翼を叩きながら、何処か棒読みに思えなくもない声でイナリを称えている。そうすると、ぽつぽつと他の獣人達もイナリを称え始め、やがて大きな歓声へ発展する。
一連の流れにイナリの脳内は疑問符で満たされたが、ひとまず事態が良い方向に進んだことは理解したので、皆に向けて手を振って舞台から降り、パウセルと共にそそくさとその場を後にした。
「何か、何とかなったのじゃ」
「何を言い出すのかと驚きましたよ。せめて人語にしてください、何語ですかアレ」
先ほどまで声を上げていたパウセルは、少し怒ったような態度でイナリに問いかけてくる。
「古語とか言うやつじゃ。というかお主、我の言葉が伝わっておったのではないのかや」
「いえ。最後の一言以外、全くです」
「なんと。では何故あのような反応を?」
「貴方、完全に滑っていたでしょう。ああいう風にしておけば、賢しらぶりたい獣人が便乗してくれると思いまして。実際皆、場の雰囲気に流されていたでしょう」
「いや我、決して滑っていたわけでは無いのじゃけども……まあ、確かにのう」
イナリはもごもごと言い訳を零しながらも、パウセルの行動の意図に理解を示した。予め相談していたわけでは無いのだが、彼女はいわばサクラのような立ち回りで獣人の反応を操作したようだ。
「ちなみに、本来はどうするつもりだったのですか?」
「ええと、こう、我の言葉がわからぬ者は黙って我に着いてこい、的な感じにじゃな……」
「そうですか。余計な事をしたかもしれないと思っていましたが、それを聞いて私の行動が正しかったことを確信しました」
「ぐぅ……とにかく、過ぎた話はもう良いのじゃ。次はどうするのじゃ?」
「この後は一旦食事を挟みまして、長との面談です。ほぼ確実に『真の真の獣の民』の方針が決まる重要な場面になります。今のようなことが無いように、しっかり準備しておきましょう」
「……うむ」
パウセルはイナリに念押しした。
イナリは現在、長の三人と向かい合って座っていた。それぞれの背後には一人ずつ付き人がついていて、イナリの場合はパウセルがそれにあたる。こういう時には茶を出して欲しいところだが、ない物ねだりである。
「さて、会議といきましょうか。改めてイオリ殿、此度の助力に感謝を」
「気にする必要はないのじゃ。それで、何の話をするのじゃ」
イナリが話題を切り出すも、場を仕切る鳥の長はイナリを見て言い淀む。
「……その前に、失礼ながら……イオリ殿、その口調はどうなさったので?」
「ああ、これかや。人間と話している過程で訛りがついてしまったのじゃ。気にする必要はないのじゃ」
「左様ですか。何とも嘆かわしいことです」
「ちなみに、先の挨拶も同様じゃ」
イナリとパウセルの間で、口調について尋ねられた時はこう答えると予め決めていた。
中々無理がある返しに思えるが、元々彼らの人間に対する知識に乏しい事に加えて、言語モジュールの働きにより人語と獣人語を使い分けていたらしいので、意外にも罷り通る理屈らしい。
ついでに、先ほどの古語挨拶にもこの言い訳を使い回すことにした。
代わりに、彼らには「人間の訛りには語尾が『のじゃ』になる訛りがある」「挨拶に古語を用いる」という誤った知識が植え付けられてしまったが、まあ、些事である。
さて、イナリの言葉遣いの問題が解決したところで、鳥の長が本題に入る。
「ではまず、私から一点。先日、『真の獣の民』から手紙が届きました」
「手紙だと?あの『牙無し』ども、本格的に人間に媚びを売り始めたようだな。今すぐ渡せ、粉々にしてやる」
「待ちなさい、犬公。全ては狐の君が決めるべき事です」
鳥の長が羽の中から取り出した紙きれを見て、犬の長が怒りを露わにしながら迫り、それを羊の長が宥める。どことなく手慣れている辺り、彼らの会議はいつもこんな感じなのだろう。
「その手紙には何が書いてあるのじゃ?」
「我々には文字が分かりません。申し訳ありませんが、イオリ殿の御助力を賜りたく」
「ふむ」
鳥の長はイナリに手紙を差し出してきたので自然な流れでそれを受け取り、その直後に後悔した。
「ええと、これを読めばよいのじゃな?……うむ、読めば、よいのじゃな……」
そう、イナリは今も文字が読めないのである。
だがイオリは文字が読めるのだから、ここで「ちょっとわかんないです……」などと答えようものなら、それはもう不審であろう。あるいは「教会との闘いの過程で文字が読めなくなった」と答えることも考えたが……いくらなんでも獣人を嘗めすぎである。
そして後ろに控えるパウセルも、まさか人間社会で暮らしていたイナリが文字を読めないとは思っていないだろう。
故に、イナリ一人でこの手紙を解読しなくてはならない。
「……解読……そうか」
この言葉にイナリは僅かな希望を見出した。
「これ、暗号文なのじゃ!解読するから、しばし待つのじゃ」
これで時間は稼いだ。後はどうにか文字を読むことができればいい。幸い、以前言葉がわからなくなった時、多少文字について調べた経験があるので、それを基に読み上げることぐらいならできる。
――エリス、助けて。至急。
――イナリさん!何があったのですか!?
――今から文字を読み上げるから、意味を教えて。
――文字、ですか?
――そう。おうぇる、いてり、うぃめ……うぃめる?とー……おうぇろ、おめちかえ??
――ごめんなさい、途切れ途切れ過ぎて全然わからないです。
――待って。今頑張ってる。
――状況が分かりませんけども、イナリさんのためです。何時までも待ちますよ。
獣人が居る手前、あまり時間もかけていられない。イナリは必死に文字を読み上げ、手紙の解読を進めていった。
イナリは長達の視線に耐えながら、およそ三十分程かけて解読を終えた。
「――というわけで、この手紙の内容は我らとの和解を望むもので、近いうちにここに来るのだそうじゃ」
「そんな内容を暗号で、それも人間の文字で伝えるとは、我々に対する挑発ですかな?」
「とことん嘗めた連中だ。やはり最初から粉々にして、羊の餌にでもしておけばよかった」
「紙はあまり食べたくないが……」
鳥の長と犬の長が怒りを露わにするが、暗号ではなく紙にそのまま書いてあっただけである。
パウセルの望む未来を実現する絶好の機会であるはずが、イナリが暗号と伝えたせいで無駄に印象を悪くしてしまった感が否めない。
「ひとまず、この使者とやらが来たら我が対応してやるのじゃ」
イナリが対応すれば、少なくとも悪印象を持ったまま話が進むことを阻止できるだろう。そう考えての発言であったが、鳥の長と犬の長の反応は芳しくない。
「イオリ殿、これは連中の謀略の可能性が高いです。迎え入れるまでもなく、追い返してしまっても良いでしょう」
「そうだ!こんな話し合いは全部無駄。強い奴だけが生き残ってこそ真の獣人というものだ!お前もそう思うだろ!?」
犬の長が羊の長に目を向ければ、彼はおもむろに首を振る。
「前から言っていることだが、我々の一族は食事に余裕が無く、士気が下がってきている。手紙の内容を信じるのであれば、話を聞く価値はあるだろう」
「食事だ?……おい、倉庫の飯はもう無いのか」
「いえ、あるはずですが」
犬の長が彼の付き人に確認すれば、首を横に振る。
「あるのは肉ばかりだろう。我々のような羊系は好んで食べない」
イナリはあまり気にしていなかったが、思い返してみれば、確かに倉庫の備蓄は肉の比率が多かったような気がする。
「なら、その辺の草でも食っておけばいい」
「我々だって草なら何でも食べるわけでは無いし、本来様々な場所を渡り歩いていて暮らしてきたんだ。こうして一つの場所に留まれば、一帯食べつくしてしまうのも当然のこと」
「……なら、余分に持って来ればいい話だろう」
「その策はとうの昔に講じているぞ、犬公。おかげで今では、食事の調達に一日費やす者すらいる始末。限界が近いのも目に見えている。かつてのように、畑があればよかったのだが」
「ぐう、だが……『真の獣の民』と交流するのはなあ……」
羊の長の言葉に、犬の長は頭を抱えた。感情的なようで、それなりの理性は備えているらしい。
それに畑という言葉が出てきたが、察するに「真の獣の民」はそれを活用しているようだ。
「鳥。お前はどう思う?」
「少なくとも、使者の件と食糧問題は切り離して考えるべきでしょう」
「いや、これは我々の未来を左右しかねない問題故、合わせて考えた方がいい。それと、鳥族は肉も植物も食べられる者が多いだろう。出来れば肉を優先して食べるように周知してほしい」
「……前者はともかく、後者に関しては仕方ありませんね、いいでしょう」
「しかしそれでは、肉の消費が早まってしまうぞ」
「魔物なら手に入りやすいでしょうし、場合によってはそちらでどうにかしましょう。全く、もっと早く言ってくれればよかったものを」
「前から言っていると言ったはずだが。……まあ、事の深刻さを伝える努力を怠ったこちらが悪いのだろうな」
「……」
食糧難という重大な問題が露呈したことで、会議の空気はどんどん重苦しくなっていた。
だがしかし、この中に一人だけ、そんなことをよそに尻尾を揺らして心を躍らせている者がいた。何を隠そう、それは豊穣神イナリであった。
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