第302話 不可視術の不具合

 イナリは川での水浴びを終えると、集落の小屋に引き返した。あれ以上進んでいたら戻るに戻れない状況に陥っていたかもしれないし、丁度良い時機であったと言えよう。


 後は不可視術を発動したまま救助が来るのを待つだけだが、寝る場所もあるし、暇つぶしにも困らないので苦にはならない。あるいは、指輪を使ってアルトやアースと会話をしたり、天界に転移して待つこともできる。


「そういえば先日の件について、改めて礼を言わねばならんのう」


 あれは皆役割こそ違ったが、三神が協力して成し遂げた仕事と言えるだろう。ならばこそ、折を見て礼の一つくらいは言っておくべきだし、成功祝いの宴をしてみてもいいかもしれない。できることなら、稲荷寿司も手配してもらおう。


「……いやしかし、まずはここから出てからじゃな」


 宴をしている間に救援が来てしまい帰れなくなるようなことがあってはいけないし、宴とは時間を気にしなくていい環境下でこそ楽しめるものだ。多分。


 イナリは己に用意された小屋に戻り、ひたすら救助を待ち続けることにした。




 その後は何事もなく日が暮れ、この集落での一日目が終わる頃合いになった。


 そう、何も無いのである。


「妙じゃな」


 何が妙かというと、あの世話役の鳥獣人が一切姿を見せないという点だ。


 不可視術を発動した今、彼女からイナリの姿は視認できない。とはいえ、この集落内でも特別な場所と思われるここに姿すら見せないというのは、些か不審ではなかろうか。


「ふうむ、何かあったと見るべきじゃろか」


 この集落は一日中騒がしく、常にその辺で異変が起こっているような環境だ。そんな中であの鳥獣人の身に何かがあっても、それを知ることは困難である。


「どれ、ちと探してみようかの」


 尤も、イナリが鳥獣人を気に掛ける義理も無い。ただ、暇つぶしの一環として探りに行くだけである。


 イナリは寝床から立ち上がり、外に出て夜の集落を散策することにした。


「うう、冷えるのう……」


 イナリは己の尻尾を抱いて暖を取りながら呟いた。


 この集落が雪山の近くにあるというのも相まって、夜はよく冷える。それに人間の街とは違い、魔力灯はもちろん松明すらない、月と星の明かりだけの世界だ。


 しかし夜行性の獣人達はこの環境で普通に活動しているのだから、何だか不思議な感覚だ。こういうところは獣人の集落ならではと言ったところか。


 さて、イナリは昼間に見た集落の景色を頼りに、地上に建てられた粗雑な作りの小屋の中を一軒一軒見てまわりつつ、獣人達の生活について観察した。


 基本的に獣人達は、尋常でなく生活感のない家に住んでいる。具体的には寝るための場所と、服が入った籠と、何かの食べ残しがあるような感じで、子供が多く居て窮屈そうな所も少なくなかった。


 ただ、それなりの量の食べ物が備蓄されている倉庫の存在も認められた。いわば、この集落全体が一つの家のようなものかもしれない。


 勿論例外もあり、明らかに身分が違う獣人――あの鳥獣人が言っていたところの、「長」にあたるだろう――は、一回り大きい小屋に住んでいて、草や木、何かの骨などを用いた装飾品が飾られていたりと、それなりに文明的な要素が見出せる。


 だが、イナリが最も気になった点は別にある。


「……畑が無いのじゃ」


 ここには、何かを育てていそうな場所も無ければ、それをするための道具すらない。思い返せば、この集落内で見た道具らしい道具は植物で編んだ布や籠くらいで、鉄を加工した道具や武器などは全く無かった。よくよく考えてみれば、小屋を建てるための建材がどのように出来上がったのかも謎である。


「いやしかし、こやつらは今までこうして生きて来たんじゃよな。ううむ……」


 豊穣神的には是非とも畑を耕し、植物を愛でて欲しいところだが、彼らにそれを訴えたところでどうにもならないだろう。


 イナリは何とも歯がゆい思いを抱えたまま、鳥獣人を探して集落の小屋を渡り歩いた。




「ふう、漸く見つけたのじゃ」


 しばらくして、イナリは集落の外れにある舞台のような場所に鳥獣人の姿を見つけた。


 途中、木の上の巣に鳥獣人がいる可能性に思い至り半ば絶望していたイナリであったが、その考えが杞憂に終わったことに安堵していた。


「して、どうしてこんなことになっておるのじゃ?」


 首を傾げるイナリの眼前には、草の縄で拘束されて寝かされている鳥獣人の姿があった。彼女は、見張りを置くこともせずにここに放置されているらしい。


 あまりにも不可解な状況に、イナリは万が一他の獣人に見られないよう、物影に隠れた上で不可視術を解き、彼女に話しかけることにした。


「のう。お主、どうしたのじゃ」


「その声は……姉様。一体、何をしたんですか」


「何を、とは?」


 安堵どころか怒気すら感じさせるような鳥獣人の問いかけに、イナリはさらに首を傾げた。


「姉様の言葉を長に話そうとしたら、誰もそんな人物を覚えていないと。そう言われてみると確かに姉様の姿がわからなくなって……苦し紛れに先日連れて来た人物が誰かと問うと、突然皆が錯乱してしまいました。結果、私はこうして処罰を待つ身に。姉様が、何かしたんですよね?」


「いや、何もしておらんけども……なるほど、のう?」


 かなり言葉が足りていないが、イナリは鳥獣人が言いたい事を理解した。察するに、これは不可視術が起こした事故である。


 不可視術は、それが発動している間、イナリの存在を記憶もろとも他者の認識から抹消する性質を持っている。


 よって、イナリが不可視術を発動したことで、この鳥獣人は存在しない人物の言葉を伝えようとして、獣人らに存在しない人物を連れてきた事を意識させてしまった。それにより認識に矛盾が生じ、錯乱状態に陥らせてしまった罰を受けているというのが鳥獣人の主張であろう。


 ……要するに、元を辿ればだいたいイナリが不可視術を使ったせいである。


「皆の怒りは、私と人間の村に向いています。いずれも、ここの皆を陥れようとした罪です。……ですが、私には分かります。姉様が……いえ、貴方が、何かをしたんですよね?」


 鳥獣人は確信を持った声でイナリに尋ねてくるが、律儀に手の内を明かす必要はない。イナリは誤魔化すように答える。


「ええと、まあ、何じゃ。我の存在を示せばよいのであろ?我が弁明に付き合ってやるのじゃ」


 この鳥獣人がとばっちりを受けて現在のような状態になっているのも不憫だが、それ以上に村の方に獣人の怒りの矛先が向く方が拙い。救助を待つだけでよかったところに余計な手間を増やすのは気が引けるが、こればかりは必要な事と思う他無いだろう。


「今言えるのは、我はお主らに対する敵愾心は無いということじゃ。故に、そう張り詰める必要も無い。我も朝までここに居てやるから、しばし休むが良いのじゃ」


「……信じますよ」


 イナリがした事について具体的に答えなかったせいもあるだろうが、どうにもこの一件で鳥獣人に余計な懐疑心を植え付けてしまったようだ。


 それはそうと、今回の件については考えるべき点がある。今まで不可視術で不都合はなかったのに、何故今回に限ってこのような事態が生じたのだろう?


 そもそも、イナリの記憶が丸々認識されなくなるという性質に則れば、獣人達が村からイナリを攫った事実すら抹消されるはずなのだ。もしそれが完全に消えないとなると、獣人達がイナリを別人と思いながら攫うなどして、中途半端に記憶が残るなどしない限りありえない。


「もしや、あやつらが攫おうとしたのは我ではない?」


 妙な話だが、この鳥獣人がイナリを「姉様」から「貴方」と呼称を変えていた点も、この考えの妥当性を高めているように思える。


「……いや、我に価値があると言ったのはあやつらじゃし、考えすぎじゃな!」


 イナリは己の考えを一蹴し、夜空を見上げた。

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