第210話 トゥエンツの高級宿(後)

 翌朝、上質な寝具がもたらした快適な睡眠から起床したイナリは、目を擦りながら窓から外を眺めた。


「おぉ……」


 そこからは、昨日は暗くて輪郭しかわからなかった山脈がはっきりと一望できた。


 距離感の関係上、この山脈がどの程度の大きさかはわかりかねるが、山の半分よりやや上辺りには雪がかかっている辺り、少なくとも、イナリの社から見えた山と同じくらいの標高はありそうである。


 それに、よく目を凝らすと、明らかに鳥ではない何かが飛んでいるのも見える。それなりに距離はあるはずだが、ここから捕捉できる大きさの生物とは何なのだろうか。


「……それにしても、昨日の夜も思うたが、ちと冷えるのう。少し前は温暖な日々を過ごしていたはずじゃが、この世界は、数日程度でこんな急に冷え込むのかや?」


「ええと、季節も理由ではありますが、この土地にも理由があります。はるか昔、この辺に『雪の厄災』という魔王が居まして。問答無用で雪を降らせる魔王だったらしいのですが、討伐されてなお、それの影響が残っていると言われています。あそこの山もその影響を受けていて、アイスドラゴン等が生息していますね」


 イナリの問いかけに、エリスが着替えを運びながら答える。


「ふーむ、魔王の影響は尾を引くこともあるのじゃな」


「むしろ、尾を引かない事の方が少ないですね。その内容は様々ですが、世界のうち、二、三割程度は、何らかの理由で居住困難な地になっていると言われています」


「なんと……」


 アルトや人間たちが懸念する割には、魔法文明はそれなりに発展しているし、魔王も基本的に一体ずつだから大したことは無さそうだと思っていた。しかしどうにも、イナリの想定よりも事態は深刻であったらしい。


 よくよく考えれば、ウィルディアとの会話で魔王が遺跡を更地にしただとか、不穏な要素の片鱗は見受けられていたように思える。


「あくまで『言われている』というだけで、実際は一割にも満たないかもしれませんし、あるいは半分以上なのかもしれません。真相は神のみぞ知るところですね」


「いや、我は知らんけども……」


「ええと、そうですね。アルト神のみが知る、という意味合いです。イナリさんの前では、ちょっとややこしくなる言い回しでしたね」


 エリスは苦笑しながらイナリの着替えを手渡した後、その頭に手を置いた。


 それを受け取ったイナリは、寝間着のシャツのボタンを外しながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。


「ところで、今の魔王はどうなのじゃ?出現したきり、何の報せも無いように思うのじゃ」


「ああー……そうですね。教会から調査隊が派遣されてはいるみたいですが、テイルの南の方なので、全然情報が入ってこないのですよね。一応テイルの獣人の方々の証言から、神託の予想通りの挙動にはなっていることは判明したようですが……」


「ふむ……あれ、どんな魔王なんじゃっけ?我と反対とか聞いたから、全てを枯らすとかそんな感じのやつかや?」


「そうですね。あんな歪んだのと、こんなに可愛いイナリさんが一対だなんて酷い話です」


「それは我も思うのじゃ。エリスよ、ここは一つ、教会に乗り込んで異論を唱えて来てくれぬか?」


「そ、そんな事したらつまみ出されちゃいますよ」


「くふふ、それはそうじゃな。言ってみただけじゃ」


「……いや、これはもしや、私のイナリさんに対する想いを試されている……?私、行ってきます!」


「待て、言っただけじゃから。何も試しておらぬから、妙な深読みをするでない!」


 イナリは、謎の暴走を始める神官の腰に縋りついて止めた。


 そして暴走神官を止めた後は、彼女に手渡された服に着替える。今回は、旅の道中でイナリが着ていたローブのデザインを、そのままシャツとズボンに移し替えたような服だ。


 妙にサイズが合うし、尻尾を出す穴の位置も完璧だ。もしかしなくても、イナリのための一点ものではないだろうか。……だとしたら、尻尾の位置はいつ把握されたのだろう。


「……ん?待つのじゃ。この衣服、我の耳と尻尾が隠せぬのじゃが?」


「ああ、それなら、この街では他の獣人さんもいらっしゃるようでしたし、大丈夫ですよ。それに、万が一にでも何かあれば、私が守りますからね」


 エリスは自信満々に、もはや定型句と化しつつある台詞を述べる。


「……というか、少し良いところを見せないと、いつ見限られてしまうかとヒヤヒヤしているところがあるので……」


「別に見限ることなど無いし、寧ろ我こそ幾度もそれを恐れていた気がするが……。まあ確かに、そろそろお主の良いところを見たい感じはするのじゃ。ぶっちゃけ、神器の諸々を抜いたら、我のお主に対する印象って、『尻尾はりつき神官』じゃからの」


「し、尻尾はりつき神官……?」


「うむ。事実であろ?」


「……ひとまず、汚名返上できるように頑張ります」


 エリスは渋々不名誉な称号を受け入れつつイナリを抱え上げ、ソファに座った。


「……そもそも、イナリさんが癒しすぎるのが悪いのですからね」


「そんな無茶苦茶なことがあるかや」


 エリスの言葉に、イナリは苦笑を返した。二人は窓の外を眺め、しばし静かな時間を過ごした。


「……さて、そろそろ朝食が提供される時間のはずです。エリックさん達も起きてくるでしょうから、私達もそこに合流しましょう。まずはハイドラさんを起こすところからですね」


「うむ、我が起こすのじゃ。……ハイドラよ、起きるのじゃ!」


 イナリはハイドラのベッドに飛び込んだ。


「な、何ですか!?爆破しま……あ、イナリちゃんか。不審者かと思ったよ……」


「ハイドラさんも爆破族なんですか……!?」


 いつか聞いたようなセリフと共に、目を白黒とさせるハイドラをよそに、某寝相最悪子供魔術師を思い出したエリスは静かに震えた。




「虹色旅団」の面々が宿の食堂に集まると、すぐに宿の給仕が料理を用意してくれた。


 イナリ達以外には三、四組程の宿泊客が居るようだが、宿の従業員も含め、獣人としての特徴を持つイナリに対して何かしてくるようなことも無く、寧ろ温かな目を送ってきている。そんなわけで、宿の落ち着いた雰囲気も相まって、実に快適である。


「この街で採れた野菜の料理、この街で採れた肉の料理、この街の近くの川で採れた水……すごいのう、何でも揃っておるではないか。しかも美味じゃ。ああ、素晴らしきかな……」


 この宿の料理は、どちらかと言うと素材の味を尊重した調理法と味付けになっているように思える。この世界に来てからは少々珍しいタイプの料理であるように思える。


 イナリが笑顔で料理を啄んでいると、隣からエリスの声がかかる。


「イナリさん、これも美味しいですよ。チーズです」


「ちいず、とな」


「牛乳を何やかんやした料理……というよりかは食材だな。食べたこと無いのか?」


「うーむ、心当たりはないのじゃ。どういったものじゃ?」


「確か、牛乳を凝固させて圧縮して塩漬けして熟成、みたいな感じじゃなかったっけな。細かいところは牧場に行けば教えてもらえると思うよ?」


「……うーむ、お主の説明でもさっぱりじゃし、恐らく知らぬものじゃ。故に、より詳細にされても困るじゃろうな。まあ、美味ならそれでよい」


 イナリはハイドラの言葉にそう返しつつ、エリスに差し出されたチーズを口に含んだ。


「うむ、美味じゃ」


「そうですか、よかったです。ふふ」


「……エリスさんとイナリちゃんって、いつもこんな感じなんだなあ……」


「大丈夫だ、そのうち慣れる」


 ハイドラの呟きを拾ったディルが遠い目をしながら静かに答えた。


 そして、一同が概ね食事を終えたところで、エリックが口を開く。


「さて、今日皆が集まるのは今と夕食の時くらいだと思うから、皆の予定を軽く共有しておこう」


「予定とな?別に何も決めておらんのじゃが……」


「ああ、そんなにきっちりしたものじゃなくて、観光に行くとか、冒険者ギルドに行くとか、大まかなもので大丈夫だよ。これは、万が一誰かが帰ってこない時とか、有事の際に対応できるようにするためのものだからね」


「なるほどの。では我は……多分、エリスと居るのじゃ」


「そうですね。私はイナリさんと一緒に街を回ろうかと思っています」


「私はどうしようかな。うーん……馬の餌の補充とかもしたいし……」


 ハイドラが長いウサギ耳を傾けて考えこむ。


「あー、それは俺が引き受けるから、ハイドラさんも自由にしてくれていいぞ」


「え、いいんですか?ありがとうございます!」


「見よエリス、ディルが他人を気遣っておる。明日は隕石が落ちるのではないか?」


「本当です。これは天変地異の前触れですよ」


「お前ら、俺を何だと思ってるんだ?俺は重い荷物を抱えて腕に負荷をかけておきたいだけだ」


「おお、いつものディルじゃ。世界が滅ぶことは無いようじゃな」


「ええ、よかったですね、イナリさん」


「お前らなあ……」


「あはは、皆さん、仲が良いんですね。それじゃあ私は……押し付けられた魔道具を使ったり、雪解け水を採集しに行こうと思います。確か、街の中にも採取スポットがあったって噂を聞いたので」


「わかった。それじゃあ僕は、僕は軽く冒険者ギルドを覗いたら、ディルの方に合流するよ。……というわけで、この後は各自自由に行動していいよ」


 エリックの声に、一同は頷いた。

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