第209話 トゥエンツの高級宿(前)

 速度を落として歩行者に気を配りつつ、イナリ達の馬車はゆっくりと街の中を進んでいた。


 この街の周辺に違わず、街の中もまた、実に長閑だ。以前ディルが言っていた、「ちょっとデカい村」というのは実に的確な表現であった。


 夜ということで人気はかなり少ないが、街の所々には獣人の姿も見受けられ、九割方人間しかいなかったメルモートとはまた違った雰囲気である。


「ここ、獣人は普通に居るんじゃな」


「そりゃそうだ。というか、どちらかと言えば獣人が殆ど居ないメルモートが特殊なんだからな」


「それに、普通の人と殆ど変わらない獣人さんもたくさんいるからね。……まあ、テイルの動物がヤバすぎて、世間のイメージは完全にそっちに持っていかれてるけど」


 御者台のすぐ後ろから街を眺めて呟いたイナリに、ディルとハイドラが返す。


「……ところでいつ聞こうか迷ってたんだけど、エリスはどうしたの?気分が優れないようなら、一旦空いてるところで止まろうか?」


「いえ、お気になさらず。ちょっと消えたくなっているだけなので」


 馬の綱を握るエリックが、イナリの背後にぴたりとくっついて尻尾に頭を埋め続けるエリスを見て尋ねれば、彼女は今にも消えそうな声で返す。


「なるほど、全然大丈夫じゃなさそうなのはわかったよ。とりあえず空いている宿を探して、今日はさっさと休もうか。どこがいいかな……」


「馬車が格納できる宿を探してくるから、適当な場所に止めて待っていてくれ」


「ああ、じゃあお願いするよ」


 ディルが馬車から飛び降り、速足で街の中へと消えていった。そして一分程度で、街の人気が少ない場所で馬車は停止し、エリックは馬の様子を、ハイドラは荷物に損傷が無いかの確認を始めた。イナリもそれに倣い、己の尻尾にひっつく神官を撫でて慰めることにした。……余談だが、イナリに撫でられたいというのも、彼女の祈りの内容の内である。




「手頃な宿は軒並み埋まっていて、旅行者向けの高級宿か、床で寝るだけの安宿だけしかない。獣人の宿泊はいずれも問題無さそうだが、どうする?」


 荷台の外から、街を見てきたであろうディルの声がする。


「後者は論外として……高級宿の値段はどれくらい?」


「宿にもよるが、一部屋一泊、金貨二枚からだったか」


「なるほど。……一日滞在するわけだし、折角だから高級宿に泊まろうか。二部屋押さえても問題ないよね」


「まあ……そうだな。今は偉そうな神もいるし、ハイドラさんも居るからな、多少の出費は致し方ないか……」


「誰が偉そうな神じゃ!?我は実際、偉いんじゃぞ!不敬じゃぞ!!」


「あー、わかったわかった。悪かったよ」


 イナリが荷台から叫べば、ディルの気怠そうな声が帰ってくる。


「さてはあやつ、我に聞こえないと思っていたな?全く、無礼が過ぎるのじゃ。のう、エリスよ?」


 イナリがぷりぷりと怒りながらエリスに尋ねれば、その体が僅かに振動しているように見受けられる。


「……お主、笑っておるな?」


「い、いえ、笑っていませんよ。ふふ……」


「いや、笑っておるじゃろ!ああもう、誰も彼も不敬なのじゃ!!」


 しかし、エリスはある程度回復したとみてよさそうだ。もしかしたら、ディルもこれを見越していたのかもしれない。……いや、あのディルがそんなことをするなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ。


「全く、仕方ないのう」


 イナリは渋々と呟き、エリスの機嫌が直ったことに免じて、ディルの不敬は許してやることにした。




 そして予定通り、何だか小綺麗で木の温かみが良く感じられる、いかにも高級感のある宿屋で部屋を二つ取り、男女に分かれてそれぞれの部屋に入った。


 エリスが部屋の鍵を開けて扉を開いた瞬間、イナリは我先に中へと突入し、調度品を指さして声を上げる。


「おお、これはもしや、暖炉というやつでは無いかや!?実物は初めて見たのじゃ!」


「ふふ、寒い時期の必需品ですね。あとひと月もすれば寒い季節になりますから、その時は一緒に暖まりましょうね」


「……あ、これ魔道具じゃなくて、実際に燃料を入れて燃やすタイプだ。風情があっていいなあ」


「見よエリス、柔らかい椅子じゃ!我らの家のものより上等じゃぞ!」


「流石高級宿、やはり違いますね。……跳ねると危ないですよ」


「おぉー、私の研究室にも、こういう椅子が欲しいなあ」


「柔らかい寝具じゃ!毛布も厚みがあって、しかも広いのじゃ、素晴らしいのじゃ!」


「そうですね、きっと一緒に寝れば、最高の眠りが約束されるでしょう。……あの、跳ねないでください」


「うわ、柔らか、あったか……」


「魔力灯の意匠が凄いのじゃ!花の形じゃ!」


「これはガラス細工でしょうか……?弁償すると洒落にならないと思うので、割らないようにしてくださいね」


「よくわからん置物じゃ!」


「……これは……何ですかね?よくわからない置物ですね……」


「窓から外に出られるのじゃ!」


「おお、山の景色がよく見えていいですね。きっと良い朝が迎えられますよ」


 イナリは部屋のあちこちを指さしては、はしゃぎ立てた。それに応じて、二人も一言ずつ言葉を返してくる。


 イナリが初めてメルモートのパーティハウスに入った時こそ、特に家の中を見ても何も思わなかったが、ある程度人間社会に染まった今だからこそ、こういった反応が出来たのかもしれない。


「……ところで、途中からハイドラの声がしなくなったのじゃが」


「あれ?そういえばそうですね」


 二人がハイドラの方を見れば、彼女は既にベッドの中で眠りに落ちてしまっていた。


「……そういえばこやつ、寝る速度が尋常でない早さだったのじゃ」


「ふふ、何だかリズさんみたいですね」


「類は友を呼ぶ、ということかの」


「言い得て妙ですね。ですが、着替えもせずに寝るのは頂けませんね。ハイドラさん、起きてください!」


「んあ?……ああ、すみません、寝ちゃってました……」


「お疲れのところ申し訳ありませんが、ここは先に浴場に行きましょう。食事の時間は過ぎてしまったようですが、浴場はまだ空いているはずですから」


「む、食事は無いのかや、それは残念じゃな。さぞ美味であったろうに……」


「朝食は頂けるようなので、そちらを楽しみにしておきましょう。それに、明日の夜も食べられるでしょうからね」


 エリスは、肩を落とすイナリの頭を撫でて励まし、馬車から持ってきた荷物が入った鞄の中から寝間着を取り出し、イナリに手渡した。


「ええと、ハイドラさんの方は大丈夫ですか?」


「はい、バッチリ用意してあります!」


「それは良かったです。では、早速行きましょうか」


「うむ」


 イナリはエリスに手を引かれ、宿の浴場へと向かった。


 この時のイナリは何にも考えていなかったが、浴場ではやや興奮気味のエリスの手によって、体の隅々までものすごく丁寧に洗われた。最近は殆ど意識していなかったが、そういえば、エリスはこういう人間であった。




「いやあ、浴場があるなんて素晴らしい宿ですね。貴重な体験もできましたし……ふふふ」


「何か、すごいつかれたのじゃ……」


 つやつやとした様子のエリスに反し、イナリはベッドに大の字になった。


 ちなみに、イナリ達が上がるのを湯に浸かって待っていたハイドラは見事のぼせかけ、既にベッドに沈んでいる。


「さて、我もハイドラに続いて眠りたいところじゃが……その前に、二人だけのうちに、少しだけ話をしたいのじゃ。良いかの?」


「ええ。少しとは言わず、いくらでも話しますとも」


 イナリがベッドから立ち上がって窓の外に出れば、エリスもその隣についてくる。そして、夜の冷えた風に当たりつつ、柵に寄りかかって口を開く。


「お主には嫌な話かもしれぬが、避けては通れぬ話だと思って我慢してほしいのじゃが。何故、お主の祈りは我に届いたのかのう?」


「うっ、その話ですか……」


 エリスは露骨に顔を顰めた。


「言ったじゃろ、避けては通れぬ話じゃからの」


「ま、まあそうですよね。……ええと、私のイナリさんに対する想いが届いた、とか……?」


「まあ、確かに届きはしたのじゃけれども……」


 エリスは自分で言って自分で恥ずかしくなっているようだ。これに関しては彼女の自爆でしかないので、イナリは無罪である。


「我が思うにの、あれは神託もどきだったのではないかと睨んでおるのじゃ」


「神託、ですか?しかし私は神ではありませんよ?」


「うむ。我が知る限り、神託とは、神と聖女の間で交わされるもの……つまり、お主は我の聖女、ということになるのじゃ」


「……何か、グッとくる響きですね」


「そうかの?まあ、それはお主が好きなように捉えれば良いと思うのじゃ」


 イナリの認識では、聖女とは神の言葉の受信者でしかないのだが、そこに価値を見出すかは本人次第であろう。


「さて、ここからが本題なのじゃが……お主から我に言葉が送れたのなら、我もお主に言葉を送れるはずじゃ。その実験をしたいのじゃ」


「なるほど、わかりました。……しかし、私はどうしたらよいのでしょう?」


「わからぬ。とりあえず、我を見ておれ」


 イナリはそう告げると、静かに目を閉じ、精神を研ぎ澄ませる。頭に言葉を思い浮かべて塊にして、ある一点に向けて線を繋ぎ、それを辿るように言葉を送り出す。


 ……何かが起こった。いくらかの脱力感と共に、そんな直感を得た。


「……どうじゃ?我の想い、伝わったかの?」


「ええ、確かに伝わりましたよ。……その、嬉しく思います」


「そ、そうか。ふう、成功じゃな……」


 何だか小恥ずかしいやりとりをしているが、イナリが伝えた内容は至って単純。「自分もエリスと一緒に居たいと思う」。これだけである。


「……あの、イナリさん。何か、ものすごい疲れていませんか?」


「うむ……これ、風刃並みに疲れるのじゃ……」


「そ、そうなんですか。私は全然大丈夫だったのに……?」


「ひとまず、我の話はこれで終わりじゃ。ちと、寝床まで運んでくれたもれ」


「はい、わかりました」


 エリスが不思議そうな面持ちになりつつ、イナリを抱え上げて室内へと運んでいく。


 確かに、エリスが不思議がるのは当然である。彼女はこれでもかと言うほど、あれこれイナリに対する欲望を列挙してピンピンしている一方、至ってシンプルな言葉を伝えただけのイナリがこんなことになるのは、少々納得がいかない。


「これも要検証かの。ううむ、信者所持経験の有無がこうも響くとは……」


 イナリはエリスの腕の中でぼやいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る