第208話 祈るだけならタダ
太陽が見えなくなり、空が紫色に染まったぐらいの頃合いで、イナリ達の馬車はトゥエンツに到着した。
イナリは御者台の後ろの辺りに移動し、街の様子を確認する。
前方には、メルモートの街の外壁を二十分の一くらいに縮小したような柵と門のようなものが見え、奥には、たくさんの家屋も見受けられる。
左右には畑が広がっていて、魔物の影もない。実に長閑である。
「あれが……この街の入り口かや?」
「ああ。厳密には検問所と言った方が近そうだが」
イナリが誰に向けてでもなく呟けば、ディルが返事を返してくる。
「して、ここはどういった街じゃ?」
「農業の街として有名だけど、牧場もある。それに主要路と繋がっている上にナイアも近いから、人の行き来が盛んで、宿屋も多いんだ。『生産のトゥエンツ、流通のナイア』とか言ってね」
「ふむ」
「あとは、南にある山から流れてくる川の水が美味しい事でも有名ですね。今は暗くて見えませんけど、明日には見られるでしょう」
「トゥエンツの山頂の雪が溶けた水はポーションの材料に良いんだよ。帰りにちょっと採集できたらいいな」
イナリの問いを皮切りに、皆がトゥエンツの魅力を口にする。
「ふーむ、農業、酪農、それに商売……この豊穣神たる我に相応しい土地と見えるのう。ここは一つ、この我直々に、ちとばかし恩恵を与えてやるとするかの」
「成長促進はしないでくださいね」
「……うむ。まあ、居るだけでも成長促進の恩恵は常にあるからの」
イナリがそわそわとし始めたところ、エリスがその頭に手を置いて制止した。
「つーかお前、商売関連でも何かあるのか……?」
「そうなの!?もしそうなら、是非あやかりたいところだけど……」
イナリに対して、ディルは胡散臭いものを見る目を向け、一方、ハイドラはキラキラとした目を向けてくる。きっと、彼女の商人としての嗅覚が反応したのだろう。
「しかし悲しきかな、何も無いのじゃ。だのに、何故か人間が我に商売繁盛の祈りをしに来ることは何度かあった故、もしかしたら、利益の一つくらいはあるのかもしれぬ」
「じゃあ折角だし、お祈りしようかな。……あ、これって、アルト教神官のエリスさん的には大丈夫ですか……?」
「……本当はダメなんですけど……」
エリスは言葉を濁す。実際、彼女はアルト教神官かつイナリ信者という中々に奇妙な立場にあるので、断言し難いのだろう。
「まあ、問題なしということにしておきましょう!」
「……聞いといて何だけど、いいんだ……。イナリちゃん、何か作法とかはある?」
「んや、好きにして構わぬ。しかし、あまりにも無礼であれば罰が下ると覚悟することじゃ」
「じゃあ、ええっと……お願いします、イナリ様!」
「うむ、うむ……」
手を組んで軽く頭を下げるハイドラに、イナリは満足げに、そして噛みしめるように頷いた。一体何を願われたのかは知らないが、なんだか、久々に神っぽい事をした気がして、とても良い気分である。
イナリはそのままの勢いで、得意げに口を開く。
「他にも、金が欲しいとか、恋人とうまく行くようにとか、何かに合格するように、とか祈られたこともあったからの。折角じゃし、他の皆も何か祈ったらどうじゃ?別に我は何もせぬし、祈るだけなら自由じゃ」
「はは、神様本人がそんなこと言っちゃうと、急に俗っぽく感じちゃうよ?……待って、エリスさん、超本気で祈ってるんだけど……」
ハイドラはイナリの元も子もない発言に苦笑した後、全力でアルト教に背くアルト教神官を見てドン引きした。
「このアホ神官についてはいつものことだから気にしないでくれ。……で、祈りとか言うのは、タダほど怖いものは無いし、意味も無さそうだから俺は遠慮する」
「ディルはいつもそんな感じだねえ。……じゃあ、僕は、旅の成功を祈っておこうかな」
「うむ、しかと聞き届けた。ディルにはきっと罰が当たるのじゃ」
「祈ってないのにか?神が言うと洒落にならないから勘弁してくれ……」
「くふふ、冗談じゃよ。……さて、エリスよ、少し後ろに来てくれるかの?」
「え?は、はい」
イナリは本気で祈っていたエリスを他の皆から引き離し、荷台の後方で二人だけになる。
「お主、先ほどまで祈っていた事をもう一度祈ってみてくれぬか?」
「ええ、わかりました」
エリスが腕を組み、慎みがあり、欲のない、いかにも神に仕える者のような姿勢でイナリに向き直る。
そしてその瞬間――
――イナリさんと二人で一生暮らしたい!!!
イナリの脳内に、欲望に満ち溢れたエリスの声が流れ込む。そして今もなお、呪詛のようにエリスの欲求が脳内に流れこみ続けている。中には、知らない言葉が含まれていて理解が難しい内容や、僅かではあるけれども、言葉にするのがやや憚られるような内容も含まれている。
エリスの名誉のためにも、それはイナリの中にそっとしまっておくとして。イナリは目を閉じて一つ深呼吸し、再び目を開き、目の前で祈る神官を見て、思う。
――何だこれ。
「エリスよ、一旦祈りを止めるのじゃ」
「え?は、はい……」
実は、先ほどディルを揶揄っている間もずっと、イナリの脳内にはエリスの祈りがダイレクトに届き続けていたのだ。
そしてエリスの祈りを止めさせれば、再びイナリの脳内には静寂が戻ってくる。これは間違いなく、エリスが祈るとイナリの脳内に言葉が送られるということで間違いないというわけだが……問題は、それを告げなくてはいけない事であろうか。
「……その、落ち着いて聞いてほしいのじゃが」
「はい」
「お主の祈り、筒抜けておる……」
「……はい?」
「お主が考えていたあれやこれ、ぜーんぶ、我に伝わっておる……」
「……あぁ……えっ???」
「ずっと居たいとか、どこそこに行きたいとか、め、『冥土服』を着てほしいとか、その、そういう感じのが……全部……」
「……はぅぁ……」
エリスは今まで聞いたことが無いような声を上げて顔を抑え、その手の間から覗かせる顔は、これ以上ないほどに紅潮している。
「……今すぐ消えてなくなりたい……」
エリスは絞り出したような声で呟く。その気持ちはよくわかるが、イナリもまた、形容しがたい罪悪感と羞恥心に苛まれていた。
「とりあえず、我を抱いて落ち着くのじゃ。それがしたかったのじゃろ?」
「もうやめてください……」
イナリは無意識にエリスの傷口を抉った。
「い、いつも言っておることであろうに、何を躊躇っておるのじゃ?」
「それとこれとはまた違うんですよ……」
エリスが涙目になりつつイナリを抱擁したところで、御者台からハイドラが顔を覗かせる。
「……イナリちゃん、エリスさん、そろそろ検問所に……着くんだけど……どうしたの……?」
「ええと……色々あったのじゃ。色々との……」
「この短時間で一体何が……?」
「もう、気にしないでください……」
「身分証と、積み荷を確認させて頂きます」
思わぬ事故には見舞われエリスが甚大な被害を被ったが、ともあれ、検問所に差し掛かったイナリ達は一旦馬車を降ろされ、入れ替わるように荷台に兵士が乗り込んでいく。
その様子を後目に、エリックが皆の冒険者証をまとめて提出し、また、ハイドラが錬金術師証を提出した。エリスは今もなおイナリの尻尾に顔を埋めて蹲っている。今日の彼女はもうダメかもしれない。
「ふむ、獣人なのは、錬金術師のハイドラさんと、冒険者のイナリさんですね。何故トゥエンツにいらっしゃったのですか?」
「アルテミアへの移動の中継です」
「右に同じじゃ」
「なるほど、では魔力検出装置に手を……。ん?ブラストブルーベリーを食べて本人確認……?」
兵士は板を見て首を傾げる。
「ああ、そういえばそんな話じゃったか。ええと、爆破したりはせぬからの」
イナリは兵士に断ってから、懐からブラストブルーベリー爆弾を一つ取り出し、起爆用の金具を外して口に放り込んだ。
「……なるほど、確かに確認しました。……マジか……」
兵士は素の声でイナリに引くが、これが本人確認なのだから仕方ないだろう。
ハイドラもまた、魔力検出装置なるものに手を乗せて本人確認を済ませたようだ。
「皆様問題ありませんので、街にお入り頂けます。ですが現在、獣人に対する監視が強化されている関係上、街内では発信機を所持して頂くことになっており、同意していただけない場合は入場を拒否させて頂く場合がございます。勿論、必要以上の監視はしませんし、街を出る際に兵士に返却して頂ければ結構です」
「ふむ、よくわからんが、持っておけばよいのじゃな?」
「はい。お手数をおかけします」
「んや、必要な措置ならば甘んじて受けよう」
「ご理解感謝します。そして、トゥエンツへようこそ」
イナリは兵士から差し出された立方体を受け取り、最近は発信機とやたら縁があるなあ、などと思いながら懐にしまい込んだ。
そしてハイドラも発信機を受け取り、荷台の荷物の確認も済んだところで、一同は再び馬車に乗って街の中へと入っていった。
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