第191話 イナリと信者
その後、食器の片付けをする傍ら、先に体を洗ったイナリを除いた面々が順番に水浴びをして、そのまま就寝することとなった。
そろそろお分かりかもしれないが、「虹色旅団」の面々は全体的に早寝早起きの健康的な生活習慣だ。なお、イナリだけは基本的に早寝遅起きである。
閑話休題。イナリはエリスと共に寝室へと移動し、暗い室内を見てエリスが口を開く。
「ああそういえば、先ほどイナリさんが起きたときは暗いままでしたね。起こしに来るべきでした」
「んや、特に問題は無かった故、気にせんで良いのじゃ」
「ふふ、そう言っていただけるとありがたいです。今度は気をつけますね」
そう言いながらエリスは部屋の魔力灯を点灯させ、部屋が明るく照らされる。
そしてイナリの目に飛び込んできたのは、エリスのベッドと、その枕元を囲むように飾られた、フィックルによって描かれた、それなりの大きさのイナリの肖像画四枚である。
「ヒェ……」
自分はこんなところで寝かされていたのか。イナリは戦慄した。
「あっすみません。イナリさんが居なくなった後はこうして正気を保っていたので……すぐに片づけますね」
「正気を……保つ??」
いや、既に異常でしかないのだが、その点どうお考えなのだろうか。
そんな事を考えているイナリをよそに、エリスは手をパタパタさせて恥じらいながら、絵を一枚ずつ丁寧に持ち上げ、壁の方へ立て掛けた。そして入れ替えるように、彼女の机の引き出しから櫛やブラシを取り出す。
「さあ、尻尾の手入れの時間です!」
「え?あ、ああ、うむ……」
エリスは何事も無かったかのように己のベッドの上に正座になり、イナリにも座るように促した。
イナリは今見た光景を忘れることにした。流石に正気を失ってからの行動のはずだから、あれこれ言うべきではない。……そのはずだ。
イナリはエリスの隣に座り、尻尾を差し出した。そうするといつものように、優しい手つきで櫛で梳かれ、静かな時間が過ぎていく。
「……ところでイナリさん。少々お話があるのですが」
「……先ほどのアースに関する話かや。何か言いたそうであったのう?」
「やはり隠し切れませんでしたか。ご明察です」
エリスは微笑しながら返事を返した。
「イナリさんは……アースさんに、かなり長いこと放置されていたのですよね。その……わだかまりとかは、無かったのですか?」
「んー……まあ、思うところはあったがの。何やらあやつも、我について変に誤った認識を抱いていたようだったから、なんやかんや話し合って解決したのじゃ。それに、今後は色々と気にかけてくれるとも言ってくれたのじゃ!」
「そうなのですか。私だったら考えられませんけど……イナリさんは、お強いですね」
「それはどうじゃろうなあ。ディルからは中々手厳しい評価を受けたからのう」
「あはは、そういう強さではありませんよ。何て言うんですかね、こう……許せる心、寛容さ、みたいな?」
「それは当然じゃ。いつも言うておるじゃろ?我は寛容、寛大、威厳溢れる、模範的な神なのじゃ」
「あれ、何だか記憶にない要素がてんこ盛りでしたけど……?」
「……まあ、真面目な話、我をここに導いた根本的な原因はアースではなく人間にあると結論付けたし、過去についてどうこう言って神同士で対立するより、手を取り合って未来の事を考えた方が生産的じゃ。そうであろ?」
「それは仰る通りですが……」
エリスは言い淀み、手を止める。不思議に思ったイナリはエリスの方に向き直る。
「でしたらイナリさんは、お帰りになるのですか?」
「……お帰りに、とな?」
イナリはエリスの言葉を繰り返した。
「お忘れかもしれませんが、パーティに加入しているとはいえ、イナリさんは私たちに保護されている身です。つまり、アースさんという身内の者が現れた今、そちらの方へ帰るという選択肢もあるのです」
「ふむ」
「アースさんは、イナリさんがどうするかは、他の誰でもなくイナリさんが決めることだと言っていました」
「……ふむ」
「きっと人間である私達といるより、神であり、私よりも余程イナリさんの事を分かっているであろうアースさんのもとにいた方が幸せなのかもしれません。……イナリさんは、どうしたいですか?」
エリスはイナリの手を握り、まっすぐに蒼い目でイナリを見つめてきた。その目は僅かに潤んでいるのがわかる。
それに気がついたイナリは、しばし黙ってエリスと目を合わせた。
「……そうじゃなあ」
イナリが静寂を破ると、エリスの肩が強張るのがわかる。かなり緊張しているようだ。
それは無理もないだろう。普段からイナリについていくと言っているエリスであっても、イナリが帰ると言ったら、それについていくわけにもいかないだろう。
「確かに、アース、ないしお主の言葉には一理あるかもしれぬ。我の事は我が決める。それは当然の事じゃ。そのうえで言わせてもらうがの」
「……はい」
イナリはエリスの膝の上に飛び乗り、尻尾をエリスの顔面にやさしくぶつけた。
「やはりお主、想像力が豊かすぎるのじゃ」
「……はい?」
「我はもとより、我がこの世界に来ると決めて、この街で、お主をはじめとした皆と暮らしておるのじゃ。わかるかや?」
「……」
「もう少し言ってみるか。先ほどディルが、我の逃げ足の速さを評価したじゃろ?我はの、逃げようと思えば容易く逃げられるし、不可視術でも使えば、人目を避けて、ほぼ誰にも気づかれずに過ごすことだって容易なのじゃ。そんな我が、今ここにいる。その意味が、分からぬとは言わせまい?」
「イナリさん……」
エリスは震えた声でイナリの名前を呼ぶ。
「そも、お主は勘違いをしておるが。アースは我の事をまるでわかっておらぬぞ!」
「……そうなのですか?」
「うむ。あやつが我を見たときの第一声は『アァア、天草之穂稲荷ィ!?』じゃぞ?この我を見て、鬼でも見たかのごとき形相を呈しておった」
「あ、あまくさのほ……?」
「ああ、ええと……多分、我の真名じゃ。……秘密じゃぞ?」
「……!は、はい!」
イナリは人差し指を顔の前に立てた。
「それでな、あやつといったら、我を怒らせたら文明を滅ぼしそうとか言うんじゃ。酷い話じゃろ?この時点で、我の事なぞ何もわかっとらんことが明らかじゃ。お主の方がよほど詳しいぐらいじゃ」
「……ふふふ、そうなんですね」
「ここまで言えば最早説明は不要じゃろうがな、お主が危惧しているようなことは、断じて無い。一応の使命もあるし、我は現時点で帰ったりするつもりは無いのじゃ。わかったかの?」
「……ええ、はい。わかりましたよ。これ以上ないほどに。ありがとうございます。イナリさん……」
「うむ。わかったならよいのじゃ。……これ、泣くでないのじゃ」
「はい、その、すみません。万が一の可能性が思いついてからというもの、ずっと不安で、イナリさんの答えを聞いて、安心してしまって……」
「……全く、仕方ないのう。ほれ、首を垂れよ」
イナリはエリスに屈ませ、その頭をやさしく撫でた。
「……善き行いには、しっかり報いてやるのが我の流儀じゃ。それもせずに『じゃ、帰ります』などと言うはずも無かろうて。それに、どういうわけかお主は我の信者となったわけじゃし、これからも我を支えてもらわねば困るのじゃ」
「はい。はい……!」
「……しかしそう考えると、この『信者』という言葉は気に入らぬな。何というか、一方的な印象があるとは思わぬか?」
「……その感覚はあまりピンと来ませんが……私はイナリさんのためなら、全てを捨てることも厭わない所存ですよ?」
「お、おぉ、そうか……」
前から何度か似たようなことは言われていたものだが、何故だろう、今言われると妙な恥ずかしさがある。
「……まあ、そうじゃな。『信じる者』ではなく、『信頼関係を築いた者』、ということにしておこうかの。うむ、これはしっくりくるのじゃ」
「……ふふ」
イナリがうんうんと頷いていると、それを見ていたエリスがくすりと笑う。一体何が面白かったのだろうか。
「……?どうしたのじゃ」
「ああいえ、すみません。当初のイナリさんと私の関係を思うと、イナリさんの口から信頼関係があると認めて頂けるなんて、嘘みたいだなと思いまして。そう思いませんか?」
「……まあ確かに。我、妙な身の危険を感じてお主の事を警戒しきっていたからの。……実は、まだちょっとその気持ちは残っておるけど。あと、たまにお主の目が怖くなる時もあるし……」
「……あ、あはは。何のことでしょうね?……さて、夜なのに、話し込んでしまってすみませんでした。明日は休みとはいえ、夜更かしはいけませんから、もう寝ましょうか」
「……何か誤魔化された気がせんでもないが……そうじゃな」
エリスはベッドから立ち上がり、櫛やブラシを近くの引き出しの中にしまって、部屋の中央に立って、二つのベッドを示すように手を広げた。
「……さて、イナリさん。今日はどちらで寝ますか?」
「……この流れでそれを聞くのは少々卑怯ではないかの。……まあ、こちらにしておこう。お主が心配じゃからな」
「ふふ、そうですか」
イナリの返事を聞いたエリスは、魔力灯を消すと、イナリに抱きつき、その勢いで横になった。
「では、おやすみなさい。これからも、よろしくお願いしますね」
「……うむ、おやすみじゃ。そして、よろしくの」
エリスの声と共に毛布が掛けられ、例によってイナリは抱き枕となった。そしてエリスは、一瞬にして幸せそうな寝息をたてはじめた。
それを背景音としつつ、暗い部屋の中でイナリは考える。
言葉が通じなくなってから今に至るまで。時間にしてみれば、せいぜい一週間程度の期間ではあったが、この期間で、一気にエリスとの距離は縮まった。これは言うまでもなく明らかだ。
実を言えば、エリスに話しかけられた直後、イナリにはここまで洗いざらい話すつもりは無かった。だが思いの外、己の口から出てくる言葉は多く、振り返って見れば、幾らかアルトとの関係や地球の存在を匂わせる様な事すら言ってしまったようにも思う。
だが、それでもいい。この世界で一番距離が近いエリスから「やっぱり、アースの下に帰った方がいいですよ」なんて言われてしまうよりは、余程いい。
例えそれが善意であろうと無かろうと、この場を離れるように促されるというのは、イナリにとってとても辛いことだ。それをされず、むしろ引き留めようとする態度すらあったエリスを見て、どこかイナリは安堵していたのだ。
「……我も幾らか不安になっていた、ということかの」
イナリの脳裏に、以前ディルに交流を急きすぎなのではないかと指摘された場面が過る。
あの言葉にいくらか態度を改めたつもりであったが、所詮、つもりでしかなかったのかもしれない。だが、守ってくれる者がいるというのに、交流を深めない手も無い。そうであろう。
エリスはイナリから癒しを得ているのだろうが、イナリもまた、エリスの存在によって心の安寧を得ている。これは俗にいう、共依存とか言うものなのかもしれない。
まあ、その上エリスにはイナリの庇護までしてもらっているのだから、この関係はどちらかと言えばイナリの方が得るものが大きいのかもしれないし、共依存と言えるのか、少し考える余地はあるだろうけれども。
「……こんな事を考えて何になるのじゃろうか。……ふあぁ。さて、我も寝るか……」
イナリは大きく欠伸をすると、エリスの腕の中でもぞもぞと動いた。
イナリは先ほど寝てしまった分、眠るのは難しいかと思っていたが、思いの外簡単に眠れそうな雰囲気だ。ならば考え事で眠気が飛ぶ前に、その流れに乗っておくべきだ。
「……おやすみじゃ、エリスよ」
イナリは一言呟くと、目を閉じた。
例によってやや息苦しさが無いことも無いが、一人で寝るよりも暖かく、アルトに言語モジュールについての苦情を入れるのは今度にしてもいいかなと思った程度には、快適であった。
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