第189話 過剰な危険予測

「ともあれ。これで話は終いじゃ」


「そうですか。では、色々あってお疲れでしょうし、しばらく休むと良いでしょう」


「うむ、そうさせてもらうのじゃ。先の嵐で森からここへ来るまでの経路も変わっていての、その疲れもあって、とても眠いのじゃ」


「あら、それは大変ですね。もしかしたら、エリックさん達が調査依頼辺りを持って帰ってくるかもしれません。……あとイナリさん、先に体を洗って着替えるとよろしいかと。その……雨の匂いがします」


「……わかったのじゃ」


 婉曲的に変なにおいがすると言われたイナリはエリスの膝を降り、水浴びのために裏庭の井戸へと移動した。




 イナリが水浴びを終え、リズの寝間着に着替えてエリスの元に戻ると、彼女は机に座って書類整理をしていた。


「エリスよ、戻ったのじゃ」


「おかえりなさい、イナリさん。今、頭を乾かしてあげますね」


 エリスは近くの棚から魔法陣が書かれた手のひらサイズの紙を手に取り、イナリのそばに歩み寄る。


 あれは魔法スクロールというもので、要するに、リズの穴埋め用の道具で、魔力の無いイナリには使えないが、魔力を流すと魔法陣に書かれた内容に従って魔法が発動する。ちなみに、不用意に折ったり破ったりすると正常に動作しなくなるらしい。


 エリスはスクロールを発動させ、イナリの頭に温風を送り、髪や耳、尻尾を乾かしていく。その手つきは、言葉が通じなかったここ数日のよそよそしい感じではなく、いつものエリスのものであった。


「イナリさんの髪はサラサラでいいですよね。クセになっちゃいます」


「お主、よく我の頭を撫でるよの。まあ、神の髪じゃしな。ふふふ」


「……あの、もしかして今の、笑うところでしたか?」


「……さて、どうかの」


 異世界には駄洒落の文化は無いのかもしれない。あるいは、言語モジュールがうまく意図を読み取ってくれていないのかもしれないが。


「よし、ひとまず一通り終わりました。はあ、スクロールはもたもたしているとすぐ効果が終わってしまうのが嫌ですね」


「それ、大体三分程度で終わってしまうよの」


「そうなんですよ。まあ、使い捨てですし仕方ないのでしょうけれど。本当は一回ごとに十枚ぐらい使って丁寧に仕上げたいところですが、流石に費用がかさむので……」


「いや、我も三十分かけて体を乾かされても困るのう……」


「ふふ、それはそうですよね。あくまで気持ちだけってことですよ」


 エリスはスクロールをゴミ箱に畳んで捨てると、イナリを抱えて元居た机に戻り、イナリを膝の上に乗せて書類整理を再開した。


「お主、いつもこういう仕事をしておるよの」


「ええ。その、薄々お察ししているかもしれないですが、冒険者としての私って、他の皆さんと比べるとかなり仕事量が少ないのですよ」


「確かにそうじゃな」


 やや言い淀みながらのエリスの言葉に、イナリは頷いて返した。


 役割柄致し方無いことなのだろうが、エリスは以前のゴブリン退治の時も後方支援に徹していたし、少なくとも、彼女が中核を担っている場面は今のところ見たことが無い。


 エリスが己の活躍の少なさを嘆く場面は何度か見たし、現に今、彼女を抜いた二人組が依頼を遂行していると考えると、彼女の言葉には頷くことしかできない。


「私、結構それを気にしているのですよ。……少し前に、物語を創作して語るタイプの吟遊詩人の間で『追放もの』というのが流行りましてね」


「あぁ……何か、リズとの会話で聞いた覚えがあるのじゃ」


 あれは一体いつのことだっただろうか。確か、愚かだなあという感想を抱いた記憶はあるのだが。


「それで、それがどうかしたのかや」


「その物語には所謂お決まりのようなものがありまして、うち、主人公の典型的な特徴が、『一見居なくてもパーティとしての体裁が崩れなさそうな役職』であるということなのですが」


「はあ」


 イナリは間の抜けた返事を返す。


「まさに今、私抜きでパーティが立ち行っているわけじゃないですか。つまり私、追放される役の典型なんですよ!」


「そうなのかや」


「だから、パーティの負担を減らしたいというのも事実ではあるのですが、それと同時に、少しでもパーティに貢献しないと、私も追放されてしまうんじゃないかって思ったら……わかります?」


「お主、結構想像力豊かじゃよな」


 自分が投獄されると想像して街から逃げ出したイナリが言えた事ではないかもしれないが、エリスはイナリが言葉がわからなくなったことについて記憶喪失だと唱えたり、その前にはイナリが生贄だとか、魔王誕生を陰で阻止する少女だとかといった説を論じてきた実績がある。


 他にも、リズが魔石の管理を失敗して爆発するのではないかと戦々恐々していたりもするし、エリスはやや危機予測と被害予測が過剰なきらいがあるのではないだろうか。


 ……いや、枕元に爆弾が置かれている状況と置き換えたら、最後に関しては妥当かもしれないけれども。


「というか、仮に活躍度合いに基づいて『虹色旅団』から誰かを追放するなら、お主より我の方が先ではないか」


「そしたら私もついていくので、実質私も追放ですね」


「そ、そうか。それに、仮に追放されても、お主には回復術師の仕事だの、色々あるであろ?何を恐れる必要があるのじゃ」


「そ、それでもですね、追放は外聞が悪いでしょう……?冒険者パーティを追放された回復術師の治療なんて、安心して受けられますか?」


「ああ、評判を気にしているのか、なるほどの……。ま、絶対無いじゃろうし、気にせんでいいじゃろ」


 絶対に起こりえない事を恐れるエリスの言葉を、イナリは一蹴した。


「最近でこそ落ち着きましたけど、『追放もの』最盛期の頃は震えて眠ってましたよ……」


「難儀なものじゃ。して、お主が整理しているこれは何の書類じゃ?」


「パーティの活動記録です。毎日その日の活動記録をつけているのですが、何の依頼を受けて、収支はどうだったかを毎日記録しています。それで、今はそれをまとめて確認しているところですね」


「……なるほどの」


「それは、イナリさんが半分くらいしかわからなかったときの『なるほど』ですね」


「ううむ……まあ、何じゃ。励むがよいのじゃ」


「ええ、頑張ります」


 エリスはイナリの頭を軽く撫でると、活動記録を一枚ずつ手に取っては紙にメモ書きをする作業に入った。イナリはしばらくその様子を眺めていたが、紙をめくる音とペンが走る音がイナリの眠気を誘い、やがてイナリは眠りに落ちた。




「んん……んう?」


 イナリの目が覚めたのは、彼女の耳が、壁越しに微かに聞こえる扉の開閉音やエリスやエリック、ディルの話し声を拾った時であった。


「……ここは……」


 イナリは現在ベッドに横になっており、体には温かい毛布が掛けられていた。どうやらエリスが寝室まで運んでくれたらしい。


 イナリは毛布を剥がしてゆっくりと身を起こし、暗くてよく見えない部屋の中を、ゆっくりと壁をつたって移動し、部屋を出た。


 そしてふらふらとリビングへと歩いて行くと、イナリの姿に気がついたエリスが笑顔で迎える。


「イナリさん、おはようございます。よく眠れましたか?」


「うむ。……お主らも、おかえりじゃ」


 まだ脳がぽやぽやとした状態のままのイナリは、気の抜けた声で帰宅した二人を迎えた。


「うん。イナリちゃん、ただいま!それと、おかえり!」


「んむ」


「お前、話せるようになったんだな。結局、ありゃ何だったんだ?」


「んー?ああ、なんか、言語もじうるをくれって言われてな、あげたらダメになったのじゃ。それでつくってもらったのじゃ」


「……分かったか?」


「いや、全然」


「私もわかりませんでした……」


 イナリの間の抜けた声に、三人は困惑と共に顔を見合わせた。イナリのあまりにも要点を欠いた返答は、誰にも理解されなかった。


「アステさんだっけ。あの人も僕たちに教えるつもりは無かったみたいだし、そもそも僕たちに理解できるような話では無いのかもね」


「うーん、何つーか、はっきりしねえなあ……」


「何にせよ、再発しないのであれば結構ですけどね。イナリさん、その点はどうでしょうか」


「まー、だいじょーぶじゃろ」


「……あの、イナリさん、大丈夫ですか?起きてます?」


「んー……」


「……これ、まだ半分寝てないか」


「皆揃ったので話したいこともあったのですけど、少し待っておきましょうか」


「例の実を食わせりゃ一発じゃないのか?」


「あの実のおかげで嵐の時に大変な思いをしましたし、もう御免ですよ私は。ディルさん、代わりにやってくれます?」


「……悪い、考えが足りなかった」


「よろしい」


「……じゃあ、今のうちに僕たちは着替えてくるよ」


「はい、わかりました」


 エリックとディルは自室へと移動した。そしてエリスはイナリの両手を引いてテーブルまで誘導し、寝ぼけているイナリの目が覚めるまで適当に話しかけ続けた。

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