第186話 獣人通行規制
早朝、イナリは、昨日成長促進によって成長させた作物をいくつか朝食として食べると、不可視術を発動してすぐに家を発った。
なお、アースから貰った良質な布団は、盗まれないように天界に置かせてもらうことにした。以前ゴミを捨ててもらった時といい、指輪の天界への転移機能は思いの外便利である。
嵐の影響で街に帰るための道標である川は今もやや増水気味で、リズがかつて空けた大穴はすっかり池と化していた。
また、これは人間が魔物を掃討したからか、あるいは魔物が定住する場所を見つけて動くことが減ったからかもしれないが、すれ違う魔物の数はいくらか少なくなったように思う。
尤も、とても平和な森とは程遠く、相変わらずゴブリンや、イナリを丸呑みできそうなサイズの熊や蛇、狼は健在であるが。
それに、蜘蛛やトカゲのようなものや、トレントではない、花か何かが元となっているであろう魔物も数体見受けられた。恐らく、この森にあふれる草木のおかげで多様化が進んでいるのだろう。魔物の多様化が喜べる事態なのかはわからないが。
そんなことを考えながら川を辿って魔の森を抜けたイナリは、やがてメルモートの街の西門の近くに位置するヒイデリ湖へと到達する。
「やっと着いたのじゃ。何か、いつもより長く歩いた気がするのじゃ……」
川のすぐ真横は危険そうであったので若干森よりに抜けてきたが、そのせいで嵐の影響で倒れた木や、地面のぬかるみの中を抜けることになったのだ。おかげで、イナリは普段よりも疲弊気味だ。
それに、イナリが履いている草履も泥にまみれていて、それはイナリの足袋まで浸食している。これもまた実に不快で、イナリの精神的疲労に貢献している。
「まあ、滑って転んだりしなかっただけマシだと思うべきか。今日は帰ったら、さっさと休ませてもらうとするかの……」
イナリは門の近くに差し掛かると不可視術を解除して、門の前に立っている二人の門番へ向けて話しかける。
「門番よ!我を街に入れるのじゃ!」
「お、狐のお嬢さんか、今度は一体どこの獣人かと思ったよ」
門番の片方は、以前イナリが冒険者になる前に一度会話をしたことがある人間であった。イナリは、彼の言葉の気になった部分を反芻する。
「……今度は?」
「ああ。最近は獣人が来ることが増えてきたんだが、軒並み色んな意味でお話にならなくてなあ……」
「確かに以前、なかなか凄まじい輩は見たが……そんなに酷いのかや」
「ああ。言語が違って会話ができない、言語が同じでも理屈が通じない、理屈が通じてもシンプルに身分証が無いってな具合でな、酷いもんだよ」
「そうそう。こっちはまだ楽だけど、東門や南門の方はそれはもう大変らしい」
「それは大変じゃなあ」
イナリの問いかけに、門番の二人は口々に愚痴を零していく。
「わかってくれるか。昨日もかなり身なりのいい獣人が来たんだが、身分証も通行許可証も無いってんで泣く泣く帰ってもらったよ。獣人のヤバさは分かるが、ここまで徹底的に締め出さなくてもいいと思うんだがなあ」
「まあ俺らは上に従うだけだよ。話じゃ、他の街も似たような事をしているところもあるみたいだしな」
「ふうむ、人間は難儀じゃなあ……」
「本当だよ。獣人が皆、狐のお嬢さんや兎の錬金術師の子みたいな感じだったらいいのになあ。……って、すまん。こんな朝早く来たんだから、俺らみたいなおじさんと話してないで、さっさと街に入りたいよな」
「あいや、我が聞いたことじゃし、気にせずとも良い」
「はは、よくできた子だ。じゃ、身分証を出してくれ」
「うむ……。あれ?……あっ」
イナリは懐に手を突っ込んだまま固まった。
「我、冒険者証、捨てちゃったのじゃ……」
「す、捨てた……?」
イナリの声を聞いた門番の二人も固まった。雑談で温まった雰囲気は一瞬にして冷えていく。
イナリは声を震わせながら門番たちに問う。
「わ、われ、どうしたら……?」
「……どうしような……」
イナリは慌てて思考を巡らせ、一つの活路を見出す。
「……あっ!そうじゃ、確か仮通行証とか言うのがあったじゃろ!それを頼むのじゃ!幸い、銀貨はあるのじゃ!」
イナリは指をぱすりと鳴らし、いそいそと懐から狐の硬貨入れを取り出すと、銀貨を一枚摘んで提示した。記憶が正しければ、これで仮通行証が入手できたはずだ。
だが、渾身のドヤ顔を披露するイナリに対し、門番の表情は一層暗くなっていく。
「……な、何じゃその表情。もしかして金額を覚え違えていたかや?」
「いや、間違えていない。確かに少し前までは銀貨一枚だった……だが今は銀貨五枚になっている。しかしそれは本質的な問題ではなくてな……。仮通行証を獣人に発行することが禁止されたんだ」
「しかし、我の事はお主が知っておるじゃろ。ここは一つ、我を助けると思って通してくれぬか?」
「そうしたいのは山々だが、それが罷ると色々と問題になるからなあ。すまない」
「ぐう……我、厳密には獣人じゃないのじゃが、それでもダメかや」
「流石にその言い訳は厳しいんじゃないか……」
「こういう時の対応は決まってないんだよなあー。君、冒険者だって言ったよな。仲間は居るか?」
「居るのじゃ。ただ、我がここにいることは分かっていないと思うのじゃ……」
「うーん、参ったな。ひとまずその仲間を呼ぶしかないか。確か『虹色旅団』だったよな」
「そうなのか!?君、相当いいパーティに入ってるんだなあ」
「じゃあ、ちょっと声掛けに行ってくるから――」
「その必要はありませんよ」
門番の片方が街の方に向けて振り返ったところで、街から聞き覚えのある、透き通った声が響く。
「こ、この声は――」
「全くイナリさんったら、冒険者証はちゃんと持っていなきゃダメじゃないですか」
「エリス!!」
長い銀髪を靡かせながら現れたこの時のエリスは、イナリにとって救世主さながらで、後ろから光が差しているかのような錯覚すら覚えたほどであった。
エリスはイナリの目の前まで歩いてくると、しゃがんでイナリの手に冒険者証を握らせる。
「さて、これでイナリさんは街に入れますね?」
「ええ、結構です。どうぞお通り下さい」
「うむ!」
「それじゃ、行きましょうか」
イナリはエリスに差し出された手を握って街へと入った。
「にしても、よくこんな小さい板が見つかったのう」
イナリは片手で冒険者証をひらひらと振ってみせた。
「ふふ、イナリさんの姉を名乗る方が来た日に、この街の西の方で奇跡的に見つかったらしいのですよ。発見者の方と、この奇跡を齎してくれた神様に感謝ですね」
「……それは、どの神かの?」
「……そうですねえ、全ての神に、でしょうか」
「何じゃそれは……」
「ちなみにですけど、冒険者証の再発行は結構罰金が重いので気をつけてくださいね。銀貨五十枚から、等級が上がるごとに十枚追加されていきますからね」
「き、肝に銘じるのじゃ……あ、そういえば。お主、数日間、我から露骨に距離を取っていたじゃろ。その件、詳しく説明してほしいのじゃが?」
「……少し、座って話しましょうか。ええっと、ベンチが……ああ、ありましたね」
エリスはやや離れた位置にあるベンチを見つけると、イナリの手を引いてそこに移動する。二人が隣り合って座ると、エリスが早速口を開く。
「アステさんから、事の顛末はどの程度聞いていますか?」
「……誰じゃそれ?アースでは無いのかや」
「……これ、偽名使われてますかね」
「……ああ、つまり、アステとアースは同一
「そうですか。……私はですね、イナリさんとずっと一緒に居たのに、呪いに気がつけなかったのだと思って……その戒めとしてイナリさんと距離を置かせていただいていました」
「ふむ?結局呪いなぞ無かったわけじゃがな」
「実際はそうでしたけども、呪いが解けないと告げられた時は、本当に目の前が真っ暗になりました。それに、私は、イナリさんが私を受け入れてくれているのをいいことに、相手の事など微塵も気にかけず、ただ自分の欲を満たしていただけだったのだと、そして、そんな私は変わらないといけないと思ったのです」
「そ、そこまでのことかや……?」
「そうです。それに、イナリさんが私の事を受け入れてくれる一方で、私がイナリさんにしたことは?『守る』だのと口先では言っておいて、実際に守れたことはありましたか?呪いは勘違いだったとはいえ、その前の囮作戦の時は?誘拐未遂事件の時は?……私は、最終的にはイナリさんを危険に晒してしまいましたよね」
「いや、それは事実じゃが、現に今、我はこうしてここに居るし……」
他にも、少なくとも神器の云々はエリスが居ないと懸念すらできなかったことのはずだし、生活面では色々と助けてくれていたはずだが、エリスの中ではそれは計上されないのだろうか。
あるいは、しばしば自分が何もできていないことを気にしていたことを鑑みるに、「イナリを守る」という行動に圧倒的価値比重が置かれているとかだろうか。
「それは結果論です。私は結局、基本的に見ているだけで、何もできていません……。それなのに、どうして私がイナリさんを愛でる権利がありましょう?」
「いや、知らぬけども……」
そもそも、何故この神官は、白昼堂々自分を愛でる権利について熱く語っているのだろうか。
「ひとまず、お主は我に赦しを求めているという理解で良いのじゃな?」
「……ごめんなさい。都合の良い話ですよね」
「うーむ……結論から言うが、答えはどうでも良い、じゃ」
イナリがここまでの議論を一蹴する発言をすると、エリスは驚いたような表情を作る。
「少々すれ違いこそあったが、我の身に何かあったわけでは無い。そして、お主をはじめ、皆、十分に我によくしてくれていると思っておる。……それで十分ではないかの?」
「……しかし……」
未だ何か悩んでいるエリスを見て、イナリは彼女に寄りかかる。
「エリスよ。念押しするために再度言うが、我を守る事に固執せずとも、お主は十分、我によくしてくれておるのじゃ。……だから、お主は変わらずとも、今まで通りにしてくれればよい。それで満足できぬのなら、これから訪れるであろう危険を退けてくれればよいだけの事じゃ」
「イナリさん……そうですね。ありがとうございます」
「うむ、わかったなら良いのじゃ。それと……心配させてすまなかったのじゃ」
「はい。おかえりなさい、イナリさん」
「うむ。ただいまじゃ」
エリスはそっとイナリを抱き寄せ、頭を撫でた。しばらくしたら、イナリは顔を上げて口を開く。
「さて、この話はこの辺にするとしてじゃな。お主には大事な話をせねばならぬ」
「大事な話、ですか?」
「そうじゃ。お主が我の信者になっていることについてじゃな」
この話は今後に大きく影響しうる話なので、できる限り早めに処理しておかねばならない。イナリは早速、その話題を切り出すことにした。
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