第179話 イナリのこれからのこと
暗い夜道、イナリが足元に注意を払いつつ川沿いを歩いていると、右手に水滴がついたことに気がつく。
手を上げて確かめてみれば、ぽたぽたと雨水が手についていく。
「……雨か……」
イナリは手を空にかざして雨雲を消そうとしたが、しばし一考して手を下げる。
田を拓いて米を作った時は雨雲を作って天候操作をしたこともあったが、むやみに天候を弄るのは良くないだろう。それに、今は少し雨に当たりたい気分だった。
「……また我が家を失ってしまったのう。あまりに早いが、こんな気分になるとはの……」
川沿いで立ち止まったイナリは、雲に覆われて星一つ見えない空を見上げ、誰に向けてでもなく呟く。それに呼応する、細くなった川の水と雨の音がイナリの心に刺さってゆく。
そんな風にイナリが感傷的な気分に浸っていると、瞬く間に雨は風を伴って強くなり、一瞬にしてイナリはずぶ濡れになった。雨水が物理的に痛いし、風がイナリの足をよろつかせる。
「ちょっ、な、何じゃ急に!?嵐にしても、唐突すぎないかや!?」
あっという間に感傷から引き戻されたイナリは、慌てて自身を守るように風を操る。ひとまず、吹き飛ばされて転ぶ心配は無くなっただろう。
イナリの力で天候操作するにしても、これほどの嵐だと、雨をあがらせるのは相当骨が折れるだろうし、こうなったらさっさと家に帰るに限る。
「川が荒れる前に家まで着かねば……いや、この川、荒れるじゃろうか。リズが作った穴がどの程度持つか……」
イナリの家の近くの大穴がダムのように作用してくれれば、川の氾濫を防ぐか、そこまでは行かなくとも、氾濫までの時間がいくらか稼げるはずだ。
イナリはたまたま近くに生えていた、サトイモの葉を一回り大きくしたような葉を傘代わりに、家路を急いだ。
「ああもう、最悪じゃ……くしゅっ!」
小屋に戻るなり、イナリは文句とくしゃみをこぼした。道中足を捻って転ぶわ、飛ばされた枝が直撃するわ、実に悲惨であった。
それに、あと少し悠長にしていたら、今頃イナリは川を流れていたかもしれないというほど、川の状況はギリギリであった。立地的にイナリの家まで影響が及ぶ可能性は低いが、リズが空けた大穴は既に池と化していたし、雨があがったら川の形が変わっているくらいは覚悟しておいた方が良いかもしれない。
「今後のためにも川の形は確認したほうが……いや、もう人の街には行かぬのだから、関係のない話か」
イナリは軽く自身の着物の袖を絞って水気を抜くと、すばやく家に置いていた替えの服に着替える。
「ううむ、茶を飲んで温まりたいところじゃが、火を焚くのは難しそうじゃな……」
外は雨が降っているし、木で組んだイナリの小屋の中で火を焚くなんてもってのほかだ。調理魔道具でもあれば話は変わったのかもしれないが、無いものは無いのだ。
他にも、金属製の鍋から木の鍋に逆戻りだし、周囲をしっかり照らす魔力灯やロウソクも無い。水がほしいと思ったら川まで数分。食事はブラストブルーベリー、野菜、あり得ない程辛い胡椒に花。調理法は焼く意外無し。これからは再び不便な生活を強いられるだろう。
もとはと言えばそれが普通だったが、一度文明の味を知ってしまったからこそ、なかなかに堪えるものがある。かつて何度か一時帰宅していた時は受容できていたそれが、今こんなにも苦しく感じているのは、道中の苦難が効いているからか、人間社会とのつながりを失ったからか。
「くう、思いの外失ったものが大きいのじゃ……!」
今からでも引き返すべきかという思いがイナリの頭を過るが、そんな情けない話があるかと一蹴する。
「はあ、これから茶を飲むために枝を拾うところから始めねばならんのじゃな……」
これからは、調理魔道具ならばつまみを捻るだけだった動作が、枝を集めて火打石と短剣をぶつけて火を付けて、という原始的な方法を取らねばならない。
ここでイナリはある事実に気がつく。
「あれ?我の剣が無いから、火がつけられないのでは?」
イナリが家から持ってきたものはブラストブルーベリー爆弾と冒険者証、キツネ柄の硬貨入れだけだ。神器の短剣は家に置いてきているし、冒険者証はもうどこかに吹き飛んでいることだろう。
「……取りに戻るか……?いや、しかし……」
イナリは考える。
あの神器はイナリの物だし、当然取り返すだけの理由はある。だが、それはつまり家に戻るということであり、ほぼ確実に、イナリの不可視術を貫通するエリスと鉢合わせることになる。その展開はあまり望ましくない。
「うーむ、一旦保留じゃな」
イナリは一旦問題を横においておくことにして、小屋の床に寝転がる。
風によって小屋がギシギシと音を鳴らし、体全体で小屋の振動を感じることが出来る。
イナリが組んだこの小屋は、地球に居たころの人間の技を盗み、見た目よりは頑丈な作りになっているはずだが、それでも今の状況では不安ではある。
それに、この小屋は風通しが良すぎるほどに良い。何なら窓からは雨水がちょっと入ってくるほどだ。
パーティハウスであれば、きっとこんな不安を感じる必要は無かったはずだ。
「……これ以上人間の事を考えるのは、やめにした方が良いな。この先どうするかも考えねばならぬし……」
イナリは切り替えるように、過去の話から未来の話に移行することにした。
「うーむ、どうすればよいのじゃろうなあ」
イナリが一つ考えているのは、いっそ開き直って魔王路線を進んでみるかという案である。
何故ならば、イナリの当初の目標であった人間との交流に失敗した今、もはや彼らに配慮する必要は無いからだ。
地球での反省は「己の存在を知られなかったこと」、そして今回の件での反省が「法だの何だの、人間との交流が思いの外難しいこと」である。
では、正真正銘魔王として振舞い、己を突き通してやれば、当然自分の存在が蔑ろにされることは無いし、人間の法に縛られる必要もなくなるのではないか?イナリはそう考えたのだ。
勿論人間を滅ぼしてやろうなんて気は無いし、アルトの意向に反するような真似をするつもりもない。だが、成長促進を最大にしているだけで魔王だと言って恐れてくれるのであれば、あれこれ頑張って人間と交流するより、余程手っ取り早いはずだ。
「うーむ、実行は簡単じゃが、取り返しがつかんからの。もう少し熟考すべきか……」
この方法の問題は、勇者とやらが神器を背負ってイナリの下に来たら、味方や配下も居ない、戦闘力も皆無のイナリは、成すすべもなく死んでしまうだろうということである。あるいは封印とかで済ませてくれるかもしれないが、実質的死であることには変わりない。
この路線を進み始めたら、二度と引き返すことはできない。だからこそ、この決定は慎重にならねばならない。
「ああもう、どうにもならんのう!」
イナリは狭い小屋の床でごろりと転がって叫んだ。その拍子に机に脚がぶつかってじわりと痛み、イナリはそっとぶつけた箇所を押さえた。
「……そういえば、アースに連絡したほうがよいのだったか」
イナリはアルトから言われた言葉を思い出す。ここは気分転換も兼ねて、彼女と話してみるのも良いだろうか。彼女はイナリを応援してくれているようだし、助言の一つくらいくれるかもしれない。
そう思ったところで、イナリに一つ名案が浮かんだ。十中八九断られるだろうが、打診するだけの価値はある。
イナリは軽く脳内を整理し、深呼吸した。
「……よし、行くのじゃ」
イナリは指輪の黒い宝石部分に手を添え、アルトの時と同じように通信を開始すると、すぐにアースの声が小屋に響く。
「……イナリ!連絡してくれてよかったわ!私、貴方を天界から放り投げて嫌われちゃったんじゃないかって心配で……」
「その点は気にしておらぬから良いのじゃ。お主もあのようにして降りるのじゃろ?」
「えっ?……そ、そうよ、よくわかったわね!だからこそ落としちゃったのよ!」
「うむ、なら良いのじゃ」
アースの声は妙に上ずっているように聞こえる。きっとイナリの勘の鋭さに感銘を受けたのだろう。
「して、少々頼みがあるのじゃが」
「ええ、可愛い妹の頼みなら聞くわよ」
「そう言ってもらえると助かるのじゃ。我の代わりに神器を取ってきてくれぬか?」
「は?」
妹のパシリのお願いに、姉は短く声を返した。
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