第177話 「ぐらはでぃくと」に行く
異世界の言葉がわからなくなって二日目。
この日はずっと家で過ごし、ひたすら言葉を覚えていくことに時間を費やした。
その間、エリスはというと、イナリが拙い異世界語で喋りかければ笑顔で応じてくれるし、おやつを強請れば、美味しい菓子を出してくれた。だがしかし、必要以上にイナリに触れることはせず、撫でることすら無かった。
その徹底ぶりは中々で、エリスの目の前で尻尾を揺らしたりしても、その時彼女が手に持っていたペンがパキリと音を鳴らしこそしたが、イナリに触れてくることは無かったほどである。
こういったことを踏まえると、昨夜、イナリがこの状況についてあれこれと考えて導いた結論はしっくりこない感じがする。しかし正解が導ける兆しも見えない。
いくらイナリ側で言葉を学び始めているとはいえ、こんなことでモヤモヤとした状態が続くのは気分が悪い。耐えかねたイナリは、その日の夜、アルトに連絡することにした。
イナリは以前と同様、エリスが完全に寝入ったのを確かめてから、こっそりと部屋を出て、指輪の通信機能を有効にする。
「狐神様、こんにちは。何かございましたか」
「うむ。アルトよ、我の言語もじゅうるはいつ復旧するのじゃ」
開口一番、イナリはアルトに本題を切り出した。
「あー……あと八日くらいで完成します。世界の調整と同時進行なので、どうにも進捗が遅れ気味で……。人間との交流で支障が出ましたか?」
「寧ろ支障しかないのじゃ。我を保護する神官の挙動が不審なのじゃが、言葉がわからぬ故に原因がわからぬ。そして我はその原因が気になって眠れぬ」
「なるほど。やはり、言語がわからないのは相当なストレスになるのですね……。では少し優先度を上げておきます。どうにか四日程度で終わらせてみせましょう!」
「そうか。……それはそちらの世界での四日かや?」
「はい、そうなりますね」
「ということは二日か……。うむ、わかったのじゃ。我は何かする必要はあるかや?」
「いえ、私の方で進められますので、狐神様が何かする必要はございません。……ああいや、地球神が『連絡がこない』と言って悲しんでおられましたので、連絡してあげてください……」
「何じゃそれ、まだ我と別れて一日しか経っておらぬじゃろうに……。まあよい、覚えていたら連絡するとするかの」
「ええ、是非そうして頂けると」
「うむ。突然連絡してすまなかったのう。ではの」
「はい、何時でもご連絡ください」
アルトの返事を聞くと、イナリは通信を停止した。
「ふう、自身の言葉で喋れることの何と素晴らしいことか」
イナリは同じ言語を共有することのすばらしさを再認識しながら、暗い廊下を歩いて寝室に戻っていった。
そして二日目の朝。エリスはイナリにおやつを渡すと、一人で外に出ていった。今までの様子から推測するに、教会で回復術師の仕事をしに行ったのだろう。
「ううむ、何だかのう……」
イナリは昼食後のクッキーを齧りながらため息をついた。当人としても、やや素直には認めがたい事実ではあるが、エリスがイナリで癒されていたように、イナリもまた、彼女との触れ合いで癒されていたらしい。もやもやとした感情がイナリの中に渦巻く。
「Chel イナリ, quit wit ocrept?」
「ん?んんー……」
イナリの向かいに座っているエリックが問いかけてくる。これは「どうしたの?」にあたる言葉だ。だが、いくらか言葉がわかるようになったとはいえど、イナリが返せる言葉はせいぜい一語、長くても三語程度が限界で、今の気持ちを完璧に伝達することは出来ない。
「エリス……ぷろんと、じゃろうか?」
「ぷろんと」は「残念」とか、そういった後ろ向きの意味合いの言葉らしい。とりあえず、最低限のニュアンスは伝わるはずだ。
イナリの返事を聞いたエリックは、「あぁ」と声をこぼす。そしてすぐ、エリックの隣にいるディルが「zhelme」とだけ呟いた。この言葉は「大丈夫」という意味で合っていたらしいが、ここでは「気にするな」とか、そういう文脈で受け取れば良いのだろう。
しかし、気にするなと言われても気になるものは気になるし、睡眠にも影響が出始めそうな予感がしているので、ハッキリさせてほしいところだ。
そしてディルは続けて口を開く。
「Tormen, イナリ. Mitlit, owel omet ger grahadict hammoc whift vixtant velmentイナリ」
「……うぃと、じゃ」
全く分からない言葉が告げられた時は、イナリは決まってこう言うことにしている。
なおディルは、イナリの事情など知ったことかと言わんばかりに、遠慮なく知らない言葉をつらつらと並べていくので、大体イナリの返事はこれである。
見かねたエリックがイナリに助け舟を出す。
「Owel, ger, grahadict」
「……なるほど?」
訳すと、「我々は、行く、ぐらはでぃくと」である。どうやら二人は「ぐらはでぃくと」なるどこかに行くらしい。
しかし、記憶が正しければ、イナリを一人にすることは避けようという話があったはずだ。この言葉がわからない現状で、イナリに留守番をさせるのだろうか。
「まあ、お主らが問題ないと判断するのなら、それを尊重するのじゃ」
イナリはもう一つクッキーを摘むと、椅子にもたれかかって手をひらひらと振った。
「……イナリ, yem caste corlet. ……mim, ger」
「む?」
ディルが呆れたような目でイナリに話しかける。どうやら、「お前も来いよ」と言いたいらしい。
「なるほど、そういうことであったか。では我もその、ぐらは……何とかに行かせてもらうとするかの」
イナリが頷くと、エリック達も意図が伝わったと察したのか、各々が出発の準備を始めた。
「ま、拙い感じがするのじゃ……」
イナリは今、エリック達に連れられて要塞の中を歩いていた。「ぐらはでぃくと」とは要塞の事であったようだ。
一体何故イナリが嫌な予感を感じているのかと言えば、この要塞が牢獄も兼ねているからだ。
そして、何故イナリが牢獄に連れてこられたのかなんて、理由は一つしかない。イナリはこれから、神器の違法所持罪で収監されるのだ。
「い、いや、エリックもディルも、我の神器については黙認する方向性だったよの。となると、流石に我の思い違いかもしれぬな。あるいは、何か別件で、我は単に連れてこられただけかもしれぬよな」
「Eulic, quet wheet イナリ haultic?」
「Yem lita stemic……」
ディルとエリックは怪訝な目でイナリを見るが、既にイナリにそんなことを気にしている余裕は無かった。
「逃げるか……?いや、まだ早計じゃよな……」
イナリは要塞のあちこちを落ち着きなく見回した。わからないならわからないなりに、少しでも情報を集めねばならない。
「Chel イナリ misto fatorize? Emm…… wit owel omet crig?」
「Nah, misto zhelme. Owel fiat ger」
「Yis……」
二人は少し立ち止まって会話をすると、再び歩を進めだした。イナリもまた、僅かに震える体を奮い立たせ、渋々それに続いた。
そして連れていかれた先は、要塞の中の一室。中には兵士らしき男女が一人ずつ待っていた。
エリック達が彼らとしばし会話を交わすと、再び部屋を出た。エリック達もそれに続こうとするが、イナリはその場に留まった。
「……わ、我は行かぬぞ……」
何故イナリが移動を拒否しているのかというと、会話にはしばしばイナリの名前が登場し、兵士の男女は何度かイナリに目を向けていたことから、少なくともイナリが部外者であるという線が切れたからだ。
そうなると、消去法でイナリが投獄されるということで確定するのだ。ここで着いていったら、連れていかれる先は牢獄だけである。
「我は行かぬからな!!」
「イナリ, quit wit mim haltenay? Fiat, ger」
しかしイナリの抵抗虚しく、ディルにあっさり持ち上げられて運ばれてしまった。
イナリはディルの腕の中で考える。少し冷静になって考えれば、エリックやディルが兵士と共にイナリを牢に入れるというのは違和感がある。きっと先ほど兵士との会話でイナリの名前が出たのは、単にイナリが紹介されたからであって、それ以上の事情は無かったのかもしれない。
「う、ううむ。我としたことが、恐怖心に呑まれて冷静な判断が出来ておらぬな。これはいかんのう……」
イナリは軽く反省して、気持ちを立て直す。しばらくすると、先導していた兵士が大きな扉の前で止まって振り返り、女性の兵士の方がイナリ達に呼びかける。
「Wimel, hirric」
そして男性の兵士が扉を開けると、そこにはずらりと牢屋が並んだ空間が広がっていた。
イナリは声にならない声を上げながら、ディルの顔を尻尾で叩いたりして暴れて腕の中から脱出し、その場を逃げ出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます