第176話 エリスのイナリ離れ
「Chel イナリ,『なんじゃこれ』, wit!」
先ほどからハイドラはずっと「なんじゃこれ」と「うぃと」なる言葉を繰り返している。
最初はイナリの言葉を理解しているのかと思い、興奮して立ち上がってしまったが、どうにもイナリの言葉を復唱しているだけらしい。そもそも、イナリの言葉は外国語どころか異世界語なのだから、それが通じるはずなど無かったのだ。
それはさておいて、イナリはパンを齧りながら、ハイドラの今の行動の意図について考える。ここまでは何かの絵を見せられ、それが何かを答えてきたわけだが、ここからイナリはどうすれば良いのだろうか。
少なくとも、エリスが少し前にイナリの家で言ってきた「のじゃのじゃ」のように、意味もなく復唱しているわけではなさそうだし、何かしらの意図はあるはずだ。
「うーむ、もしかして、我の言葉と『うぃと』なる言葉が同義なのじゃろうか。だとすれば……」
イナリは今手に持っているパンを指さし、教えられた言葉を使ってみる。イナリの予想が正しければ、このパンの名前が返ってくるはずだ。
「エリス、ハイドラ。うぃと?」
「Heit de squit filtam chirrot, et イナリ」
「……質問がよくなかったのう」
エリスがイナリの問いに答えてくれるも、よくよく考えたら、このパンの名前がわからない以上、返答がどのようなものかも判断がつかない。ここは、エリスとハイドラをそれぞれ指さして尋ねてみるべきだっただろう。
仕切り直して、イナリはエリスとハイドラに順番に指を向け、返答を待つ。
「うぃと、じゃ」
「Yem de Yelis」
「Yem hydra!……Quet chel イナリ stemic wit misca?」
「ふーむ……」
各々の名前が帰ってきた辺り、恐らく、「うぃと」の意味は「何」という意味で確定だろう。ついでに、「いぇむ」が「私」にあたることと、ハイドラの言葉には明らかに別の用法の「うぃと」が存在していることが分かったが、それはどこの言語でもよくある事だろうし、今は考えなくてもいいことだ。
ともあれ、ハイドラはこの言葉を教えることで、意味を尋ねる手段を与えてくれたようだ。
しかし、うまく使えるかと聞かれると微妙なところだ。この方法は物の名前を知ることには長けているが、概念などの実体を伴わないものを尋ねることは難しいように思える。
「果たしてこれはどうしたものか。上手い方法を考えるべきじゃな」
イナリは椅子にもたれかかり、天井を眺めた。
「……そういえば、エリスが静かじゃな」
ここまで、何か違和感があると思ったら、エリスが全くイナリに触れてこないのだ。
それが普通だと言ってしまえばそれまでだが、今までイナリが見てきた、事あるごとにイナリに触れようとするエリスならば、言葉を理解したことを褒めて頭を撫でるか、膝の上に乗せるくらいはとうにしているはずだ。一体どうしたのだろうか。
そんな事を考えつつイナリが隣を見れば、そこにはイナリに手を伸ばしかけているエリスの姿があった。しかし彼女はイナリと目が合うや否や、すぐにその手を引っ込めた。
「……?」
イナリはエリスの挙動を不可解に感じたが、ハイドラの前だということも相まって自重しているのだろう。イナリは視線をハイドラの方に戻し、その後も、「あなた」「ここ」「あれ」「それ」など、基礎的かつそれなりに汎用性のある言葉をいくつか教えてもらい、そのまま店を出て別れた。
ちなみに、最初はエリスが払おうとしていたようだが、議論の末、食事の代金はハイドラが全て払ったようだ。一瞬だけ見えたハイドラの硬貨入れの中には、金色の硬貨が顔を覗かせていた。ハイドラはエリス以上にお金持ちであったらしい。
「何かがおかしいのじゃ……」
その日の夜、イナリはリズのベッドに横になりながら呟いた。そう、リズのベッドに、である。
教会での一件以降、エリスの様子がおかしい。どうおかしいのかと言えば、全然イナリに触れてこないのだ。
具体的には、ハイドラと別れて家に戻ってきた後、普段ならイナリを膝の上に乗せて座ったりするところ、イナリそっちのけで書類整理や装備の整備を始めたことが挙げられる。
その時こそ仕事が溜まっていて大変なのだと思い、代わりにエリックやディルを異世界語習得のための練習台にしていたが、夕食時や就寝前の時ですら、エリスは必要以上にイナリに触れることは無かった。
その姿には、ディルやエリック、そしてイナリ本人すら動揺した。言葉は伝わらないが、きっと男性陣の二人にもイナリの動揺っぷりは伝わっているはずである。
見かねたディルがエリスに理由を問うたような場面もあったが、異世界語がさっぱりのイナリには「あ、多分今、理由聞いてるんだな」程度の感想しか無く、結局理由はわからずじまいであった。
そして今も、かなりあっさりとした尻尾と髪の手入れが終わって、イナリがいつものようにエリスのベッドで寝ようとしたら、そのまま抱え上げられ、リズのベッドに運ばれたのだ。
「一体何がきっかけじゃろうか……?」
少なくとも、教会に行くまでは今まで通りのエリスであったはずだし、言葉が伝わらなくなって愛想を尽かしたとか、そういうことは無いはずだ。ともすれば、一体何がエリスを変えたのだろうか。
ベッドに寝転がったイナリは天井を眺めながら、改めて教会での一幕を思い返す。
副神官長と会話し、そのままイナリに何らかの術を使わせ、再び会話した後、イナリに縋りついて謝った。
「どうしてそれで、我と距離を取ることになるのじゃ?」
そもそも、副神官長の術が失敗してエリスが謝る意味も、その際にエリスがイナリに尋ねてきて適当に頷いた言葉が何だったのかも謎だ。
「考えるとすれば、まずはそこからじゃろうか。確かあの時エリスが言っていたのは……」
イナリはどうにかエリスの言葉を思い返す。「quet de mim ~ yemet」という質問であったはずで、それをハイドラやエリック達との会話から学んでいったもので訳していくと、「貴方は私~?」となる。
しかし、この空白にはどんな言葉でも入る余地がある。例えばそれは「私が好きですか?」とか「私を許してくれますか?」かもしれないし、あるいは真逆かもしれない。
「……ううむ、何でもありじゃな……」
もしあの時「私のことが嫌いですか?」と聞かれていたとしたら、あの時頷いたことが今のエリスの態度に直結することは疑う余地もない。
だが、イナリの言葉が伝わっていないことが分かっている状況でそんな問いをするのも変な話だし、あの質問が今のエリスの態度と関連しているとは考え難いだろう。
「やはり副神官長がカギじゃろうな。ううむ……」
しかしそちらも、副神官長が何かエリスに暴言を浴びせたりしたわけでもないし、態度が急変するに足る行為は思い当たらない。
もしかしたら、前提からしておかしいのだろうか。例えば、あの老人がイナリに行った謎の儀式は、イナリの言葉をどうにかするためのものではなかった、というのはどうだろう。
もしあの時、聖女の時と同じように、副神官長にイナリが神の力を持つ、れっきとした神であることがバレて、後日イナリを教会に引き渡すように副神官長から言い渡されていたとしたら、今のエリスの態度はともかく、少なくとも、エリスがイナリに縋りついたことは理解できる。
「……あるいは、我の神器の所持について気づかれていたか?」
結局、聖女によるイナリの神器所有の許可は見送られていたはずで、神器集中管理法とか言う法に照らし合わせれば、現状イナリが持つ神器はバッチリ違法物品である。
今日は持ち歩いていなかったが、それまでにどこかで足がついていれば、副神官長に指摘される可能性は十分にある。
「……それで、我の投獄が決まったとか……?」
流石にそれならば即日捕縛くらいはあり得そうだが、見た目は子供であるイナリに配慮して猶予期間が設けられている、なんてこともありえそうである。
かなり無理やりな気がしないでもないが、それならば早めにエリスがイナリに縋りついて謝ってきた理由も、投獄されて離れ離れになるにあたって、イナリ離れをするために距離を置くという行動も説明がつく。
「……いや、いくらなんでも無理やりが過ぎるのう。何じゃイナリ離れって。我、確実に疲れておるのう……」
言葉がわからない不安や夜になったことに影響されて、イナリは変な方向に考えすぎているのかもしれない。
きっと事態はもっとシンプルで、副神官長がイナリの言葉の問題を解決できなかったことを過剰に謝っていただけで、今のこの態度も、言葉が通じないイナリとの距離感を掴みかねているだけなのだ。
「よし、これで解決じゃ。さて、寝るのじゃ」
イナリは柔らかな寝具の上で、毛布に身を包んで目を閉じた。快適な眠りではあったが、どこか物足りなさを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます