第175話 ハイドラの試み ※別視点あり
イナリは困惑していた。
エリスがイナリに縋りついてきた時、最初は老人の神官が居なくなったことをいいことに、家にいるときのようにイナリに抱きついてきたのかと思ったが、すぐにいつもとは様子が違うことに気がついた。
現在のエリスは、イナリの正面にしゃがみ込んで縋りつき、繰り返し同じような言葉をイナリに向けて呟いている。
文脈からして、これがイナリに向けて謝っているということは察することが出来る。しかし、自分が謝られるようなことをされた覚えはないのだ。
イナリは椅子に座ったまま考える。
先ほどこの部屋を後にした老人の神官は、以前見たことがある。確か、この教会の副神官長とか言ったはずだ。
彼に一体何をされたのかはわからないが、今までイナリが見てきた、治療、破邪といった教会の機能からするに、何らかの形でイナリの言葉が伝わらなくなっている問題をどうにかしようとして、失敗したのだろう。
それについては、イナリとしても実に残念だと思う。しかしそれだけで、これほどに深刻な様相になることがあるとも考え難い。
「ひ、ひとまず、エリスを宥めねばならぬな。ええと……とりあえず落ち着くのじゃ」
イナリは、いつもエリスにされていることの反対をしてやれば大体あっているはずだという漠然とした予想に基づき、ひとまずエリスの頭に手を置き、撫でることにした。
「よ、よしよし……」
何とも気恥ずかしい感じがするが、今のエリスには必要な措置のはずだ。エリスが落ち着くまで、イナリは頭を撫で続けた。
しばらくすると、エリスが顔を上げてイナリに向けて何かを呟く。
「……Et イナリ, quet de mim amest yemet……?」
「……ええと……そうじゃ」
イナリはとりあえず何か聞かれていることは分かったので、ひとまず頷いておくことにした。
「……Lita, heit molita」
エリスは一瞬表情を明るくしたが、すぐに真顔になってしまった。
「ど、どういう反応じゃそれは……?」
「Folmistol, Et イナリ. …… Yem de zhelme. Owel de fiat ger tyltaf」
エリスはイナリの手を取って立ち上がると、そのまま教会を後にした。今までのエリスとは様子が違い、イナリが初めて遭遇した頃のような雰囲気であった。
エリスに手を引かれて歩いていると、向かいから見覚えのあるウサギの獣人、ハイドラが歩いてくる。彼女はイナリ達の存在に気がつくと、表情を明るくし、人と人の間を縫うようにして軽快に駆け寄ってくる。
「Et yelis, chel イナリ, yelta!」
「Yelta, et hydra. Fitra tresk」
「Yis! Yem corletant hirric tor jewit net gerenay mimo tyltaf bito……Chel イナリ? Quet wit mimo ocrept?」
後半はともかく、前半についてはハイドラが挨拶しているのはわかった。しかしどう返したものかと考えていると、何も言葉を返してこないイナリにハイドラはは長い耳を傾けて、訝しげな表情を作る。
「Et イナリ de vixtant velment net ghethor theto metratory bito. Sotas Et イナリ jestlita halte owelo waulmisc……. Misto theto velment criglita covixta……」
「wit plomt……」
「何を言うておる……??」
ちょくちょく自身の名前は上がるが、だから何だというほどに何を言っているのかわからない。流石にこのままわからずじまいというのは苦痛でしかないし、少しでも早く、少しでも多く言葉を理解しないと、イナリの気力はもたないだろう。
「え、ええと……いぇるた?」
ひとまず、挨拶らしい言葉をそれらしく話してみる。
「……!」
「Yelta, Et イナリ! Phasmeticola!」
二人の反応を見るに、どうやら正解であったらしい。だがここからはどうにもならない。
「Et yelis! Yem chote mid loute. Owel fiat ger haulot!」
「……Yis. Folmistol」
イナリが挨拶をした様子を見ると、ハイドラが何かエリスに訴えると、エリスがそれに頷いた。
<ハイドラ視点>
「うーん、ちょっと取引先が減ってきちゃったなあ……。ほんと、あの野生生物どもは……」
最近は野生生物もとい獣人たちが人間の街でやりたい放題しているせいで、私にまで変な偏見がもたれて商売あがったりだ。今も取引してくれている店や商会とは一層仲良くさせてもらわないと……。
私が商談を終えて街を歩いていると、最近街で密かに有名になっている二人組を見つけた。イナリちゃんとエリスさんだ。折角だし、一声かけておこうかな。
「エリスさん、イナリちゃん、こんにちは!」
「こんにちは、ハイドラさん。奇遇ですね」
「はい!私は商談でここに来て、今帰るところだったんです、けど……。イナリちゃん?どうかしたの?」
何か、私から見るとイナリちゃんがものすごく悩んでいるように見える。何かあったのかな?
「イナリさんは呪いにかかって記憶喪失になってしまっていて、私達の言葉も話せないのです。もしかしたら呪いが解けないかもしれないらしく……」
「そんな……」
「となわあいつえり……?」
うわ、これは本当に言葉が話せなくなっているみたい……。しかも、明らかに私が知らない言葉だ。私は商人としてのスキルを研鑽した関係で、それなりに言語には精通しているつもりだけれど、それで見当すらつかないとなると、相当マイナーな言語だと思う。
こうなるとイナリちゃんにポーションを作ってもらう計画も白紙か。ううーん、今後の予定に支障が……。
そう思っていたら、またイナリちゃんが口を開く。
「え、ええと……こんにちわ?」
「……!」
「こんにちは、イナリちゃん!すごいね!」
このエリスさんの反応からして、これ、イナリちゃんの初めての公用語らしく見える。教科書も無しに言葉を喋るのは難しいし、これは素直にすごい事だ。
それに、記憶が無くなったとは言っても精神退行している様子は無いし、これなら希望があるかもしれない。
一応魔法学校にいる、趣味で言語に詳しい先生に投げるのも手だけど、その前に私も色々やってみようかな。ちょうど一つ、こういう時にやってみたいことがあるし。
「エリスさん!私、いい方法を知ってるよ。一緒にご飯食べに行きましょう!」
「……はい。ありがとうございます」
……何か、エリスさん、ちょっと疲れてそうだなあ。
まあリズさんやたまに聞く噂によれば、相当イナリちゃんを大事にしているみたいだし、こんなことになってかなりショックなんだろうなあ。
ここはひとつ、私が力になってあげられたらいいのだけれど。
私たちは商業地区の近くの、行きつけの喫茶店に入った。
「それで……方法というのは?」
エリスさんが紅茶の入ったコップを片手に尋ねてくる。その隣では、イナリちゃんが窯で焼いた四角パンを黙々と齧っている。
……前にリズちゃんと一緒に食事した時も思ってたけど、食べ方が小動物っぽくて可愛いんだよなあ……。
まあそんなことは置いておくとして。
「ええと、呪いを解く方法ではないんですけど、コミュニケーションを取るための手段を提供しようかなと。ちょっと見ていてください」
私は鞄から契約用の紙とペンを取り出して、そこにまず、簡単に椅子を書いてイナリちゃんに見せる。
「イナリちゃん、これ見て!何かわかる?」
「……とをじゃける。あしか?」
イナリちゃんは首を傾げて答えを返してくる。
「……う、ううーん。イナリちゃんの言葉だと、椅子は『とおじゃけるあしか』なのかな……」
「ふ、複雑ですね……」
「ま、まあ、まだわからないですからね。もう少し聞いてみます。イナリちゃん、これは?」
もしかしたら単語以外の語句も混ざっているかもしれないし、本当の目的は椅子の呼び方を知ることじゃない。今度はリンゴを描いて見せてみる。
「……らをごじゃ」
「……多分『じゃ』はイナリさんの口調ですから、いちごは『らおご』と呼ぶのでしょうね」
「あの、エリスさん、これ、リンゴです」
「えっ?……あっ、ごめんなさい……」
エリスさん、そんなに申し訳なさそうに謝らないで。私も自分の絵がうまいとは思ってないから。
「ま、まあ次。イナリちゃん、これ!」
今度は何でもない、適当にペンを走らせただけの絵を見せる。
「……とをじゃける……」
イナリちゃんがものすごく悩んでいる。これは答えに苦しんでいる表情だ。
「……イナリちゃん、『とおじゃける』?」
「……!えにさ、ろるねけてばがろおりねお!?」
イナリちゃんが興奮したようにガタリと席を立って声を上げる。
「あっ、ごめん、何言ってるかわかんないや。でも知りたいことは知れたかな」
「ハイドラさん、一体何を……?」
「ええと、多分イナリちゃんの言葉のうち、『とおじゃける』って言うのが、『何』って言う意味みたいです。つまり、最初に見せた椅子について、イナリちゃんが答えたのは、『何』という言葉と、『椅子』という言葉の結合だったみたいです」
「な、なるほど?」
「なので、あとは私達の言葉における『何』にあたる言葉を教えてあげれば――」
「イナリさんが私たちに質問できるようになるわけですね!」
「そういうことです。うまく行くといいんですけど……」
後はイナリちゃんが言葉を結び付けられるかどうかにかかっている。もしうまく行かなくても、できる限り頑張ってみよう。
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