第158話 イマジナリーイナリ

 イナリはグラヴェルを引き連れて川を下り、森から抜ける少し手前の場所まで移動した。


「よし、この辺まででいいかな」


「うむ。我を救ったお主の貢献、褒めて遣わすのじゃ」


「はは、ありがたきお言葉だな。……だが、俺が組織から抜け、こうして歩いていられるのは、君のおかげでもあるんだ。本当にありがとう。……じゃ、俺はどこかに逃げるとするよ」


「うむ。また縁があれば会えるじゃろう。達者でな」


「……ああ。また会えると良いな。それじゃ」


 イナリの言葉にグラヴェルは笑いながら去っていった。出会った場所こそ最悪であったが、イナリ個人としては好印象の人物であった。


「さて、我も帰るとしよう」


 イナリを守る仲間もグラヴェルも居ない今、ここで別の者に襲われては堪らない。イナリは念には念を入れて不可視術を発動すると、街の方角を向いて歩き始めた。




「ふう、やっと着いたのじゃ……」


 イナリはそのまま何事も無く街へ入り、そのままパーティハウスに着く。


 そしてその扉に手をかけ、全身を使って戸を引く。


「……む、玄関に鍵がかかっておるのじゃ。あやつらは外出しておるのか……」


 イナリは何度か戸を引き、施錠されていることを確かめる。


「ううむ。これは参ったのう……」


 確かに今は真昼だ。ということは、冒険者である彼らが依頼に出向いている可能性は容易に想像できる。


「……裏口を試してみるかの」


 イナリは一縷の望みにかけてパーティハウスの裏に回り、家への侵入を試みる。


「……!開いたのじゃ!」


 施錠忘れは本来ならば問題提起するべきことなのであろうが、今のイナリにとっては実に好都合な事だ。


 イナリは堂々と家の中に入る。この家特有の香りがイナリに帰ってきたということを強く実感させる。そうなると、一気にイナリの緊張が解けていく。


「……ふああ。眠くなってきたのう……」


 イナリは囮作戦の時から一度も眠っていない。イナリは極論睡眠を必要としないので、グラヴェルが寝ていた時ですら、ボスのような招かれざる誰かが来ないかと警戒していたのだ。


 そのため、ここに来て一気に眠気が襲ってきたイナリは、迷うことなく寝室へと足を運び、エリスのベッドに飛び込んだ。


「ふう……柔らかな寝具、素晴らしいのじゃ……すぅ……」


 柔らかな毛布に包まれて、イナリはすぐに眠りに落ちた。


 ……不可視術は解除せずに。




「ちょっと!裏口開いてたよ!?施錠した人、誰!?」


 リズの怒ったような声により、イナリは目が覚める。


「む、あやつらが帰ってきたのじゃな」


 イナリはおもむろに立ち上がり、皆を出迎えるべくリビングへと向かう。部屋は暗くなっており、既に夜を迎えている。


「皆よ、おかえ……り……じゃ?」


 イナリがリビングを覗くと目に飛び込んできたのは、沈痛な面持ちの皆の姿であった。


「すみません、私が戸締りを忘れていました。その……」


「い、いや、ごめん。確認しなかったリズ達も悪かったよね。ええっと……元気出して……」


「無理ですよ!もうイナリさんが捕まってから二日経っているんですよ!?なのに、未だに冒険者からも兵士からも、手がかりの一つも無いなんて……もうイナリさんは……ううぅ……」


「エリス姉さん……」


 リビングには、リズに背をさすられながら、テーブルに伏せて涙を流すエリスの声だけが響いていた。


「な、何か、すごいことになっておる……」


 この光景を見たイナリは途方に暮れるとともに、とてつもない気まずさを感じていた。恐らく彼らは今日もイナリを探して色々な事をしていたのだろうが、その間イナリは家でぬくぬくと寝ていたのだから。


 イナリがその場に現れるのを躊躇していると、今度はエリックの声が聞こえてくる。


「……エリス。エリスの辛い気持ちは本当にわかる。でも……少し、冒険者業は休んだ方がいいと思う」


「そ、そんな。いえ、イナリさんを見つけるまでは、絶対に……!」


「俺もエリックに同意する。流石に落ち着きがなさ過ぎて、そう遠くないうちに致命的なミスに繋がりかねない。怪我する前に止めておくべきだ」


「ディルさんまで……」


「エリス姉さん、流石に生活に響くようなことだし、一回落ち着いた方が良いよ……」


 このままではイナリのせいで、無駄にエリスの生活に大きな影響が及ぶことになってしまう。イナリは意を決してリビングへと姿を現すことにした。


「ま、待つのじゃ!我はここにおるぞ!」


「……ハッ!?今、イナリさんの声がしました!」


「えっ?」


 イナリがリビングに飛び込むと、エリスだけがガタリと椅子から立ち上がって声を上げる。そして声がした方角へ首を回し、視界にイナリの姿を認める。


「あぁ!イナリさんが!イナリさんがここにいます!!」


「おい、何言ってんだお前」


「む?ちょ、ま――」


 イナリを捕捉したエリスは全力でイナリに飛び掛かり、抱きついてくる。


 が、現在もイナリは不可視術を発動したままである。何故かイナリが見えているエリス以外からは、虚空に向かって、居なくなった少女の名前を叫びながら飛び掛かる異常者の姿が映るだけである。


「どうしよう、エリス姉さんが壊れちゃった!!」


「まずい、とりあえず落ち着かせないと。ええっと、精神汚染された時の対応は……」


 イナリが見えない他のメンバーは、エリスをどうにか正常にしようと動き出す。


「おいエリス!イナリはここにはいない!現実を見ろ!」


「何言ってるんですかディルさん。イナリさんはここに居ます!」


「居ないから!落ち着け!」


 エリスはイナリを抱き締めながらディルに訴えるが、悲しきかな、不可視術を発動した状態のイナリの存在は認識されなかった。




「はい、あーん……ふふ、イナリさん、美味しいですか?」


「うむ、美味じゃ。二日ぶりの料理じゃから、一層美味に感じるのじゃ。……ただ、自力で食べられるのじゃが……」


「まあまあ、いいじゃないですか」


「全く、仕方ないのう……」


「…………」


 結局、エリスだけがイナリを認識できる状態のまま夕食の時間を迎えた。リビングには嬉しそうにイナリと触れ合うエリスの声だけが響き、他三人は下を向いて食事を進める。


「それにしても、何故お主以外、我を無視するのじゃ?」


「皆さん、イナリさんが戻ってきたことにビックリしちゃって、現実を受け入れられていないのだと思いますよ」


「なるほどの。まあ、人間は、己が信じられない事を信じないこともあるし、致し方無いのかのう」


 一体何故こんな状況が生まれたのかといえば、そもそもイナリが自力で家に戻ってくる可能性が零に等しいことに加えて、エリスがイナリを認識していることもあり、イナリ本人が不可視術を発動したままであることに気がついていないこと、単にエリスがイナリの幻覚を見ていると言われても違和感がないこと、そして、エリスが不可視術を突破していることに、本人も含めて誰も気がついていないことが理由として考えられるだろう。


 そのような理由が重なって発生した事故が、エリスが病んでおかしくなったという形で処理されてしまったのだ。


 そんな光景を後目に、リズはエリックに耳打ちする。


「ねえ……あんなエリス姉さん見てられないよ。どうするの……?」


「本当に幻覚だったらどうしようもないけど……さっきのを見た?エリスが差し出した肉が消えてる。もしかしたら……」


「……本当だ、確かに。……もしかして、不可視術?」


「……試すだけ試してみよう」


 これでイナリの不在が証明されると、いよいよエリスがおかしくなったことが裏付けられてしまうだろう。エリックはその可能性も覚悟しつつ、意を決して口を開く。


「ええっと。イナリちゃん。もし不可視術を使ったままだったら解除してほしい。今の僕達にはイナリちゃんが見えてなくて……エリスが一人で喋ってるようにしか見えないんだ」


「む、そうであったのか。……確かに、解除しておらんかった気がするのう」


 エリックの声を聞いたイナリはすぐにそれに応じて、不可視術を解除する。


「どうじゃ?我はここにおるのじゃ」


「うん、見えるよ。よかった、イナリちゃんは本当に居たんだ……」


 エリックは大きく安堵のため息を零す。


「最初からそう言ってるじゃないですか……」


「いや、リズ達には見えてないからさ、エリス姉さんが想像上のイナリちゃんと触れ合ってるのかと思って……」


「マジで、今までの中でも一、二を争うレベルで怖かったからな」


「そこまでですか……」


「……いや、待つのじゃ。となると、一体何故エリスは我を認識できたのじゃ?」


 イナリが疑問を口にすると、全員の視線がエリスに向かう。


「黙秘権を行使します」


 エリスは涼しい顔で答えた。


「お主、またお守りとか作ってないじゃろうな」


「……黙秘権を、行使します」

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