第71話 種を買う
「ふう。お腹いっぱいじゃ。満足じゃ」
オムライス事件以来、久々に米を食べたイナリはお腹をぽんぽんと叩いて感想を述べた。
手軽に米を食べられる場所はこの街では貴重らしいので、また来てもいいかもしれない。イナリはそう思った。
「今日も美味しかったです。ごちそうさまでした」
「おう、いつもありがとうよ。銅貨五十枚だ」
「はい、こちらですね」
エリスが銅貨を店主に手渡し、銅貨を受け取った店主はそれを数える。
「丁度だな。ところで神官さん、魔王はどうなってるんだい?」
店主のエリスに対する問いかけに、イナリは背中の辺りが冷えた。最近、魔王というワードに敏感になっている感が否めなくなってきている。
「そうですね、今のところは魔の森の件以降、大きな被害は出ていませんね。不気味なことに、ただ一定範囲内に微弱な影響を及ぼし続けているだけで、存在も確認されていないです。さしづめ、膠着状態といったところでしょうか」
「そうかあ……。今なら他の街に移動しても安全かい?」
「いつ本格的に動き出すかわからない以上断言はできませんが、避難するのであれば早い方が良いでしょうね」
「うーむ。そこの嬢ちゃんがオリュザについて教えてくれたし、一旦店を畳んで味の研究でもしようかねえ」
「み、店を閉じるということかの?それは困るのじゃ!」
「イナリさん、そんなわがままを言っちゃダメですよ」
「前も言ったが、魔王なんぞ存在せんのじゃ。杞憂に過ぎぬのじゃ」
「いえ、神託は絶対で、それによれば魔王が確かにいるはずなのです。きっと我々がその存在に気づけていないだけでしょう」
「そんなことを言われてものう……」
イナリはずっと魔王は存在しないと訴えているのだが、それを詳しく説明するためには、最低でもイナリがアルトと繋がりを持っていて、今魔王だと思われているのはイナリで、魔王はまだ地上に現れていないということを提示しなければならない。まず不可能である。
しかも相手がアルトを主神とする宗教の神官なのだから尚更である。
「嬢ちゃんがうちの店を気に入ってくれたのは嬉しいが、流石に危険もあるからなあ」
「ぐぬぬ、折角また食べに来ようと思ったのにのう……」
「まあ、そんな一日二日で閉店したりはしないさ。もしよければまた来てくれ!」
「うむ……」
会話もそこそこに、イナリは入店時と同じように、他の客の背を尻尾で叩きながら狭い通路を進み、店をあとにした。
「元気出してくださいイナリさん。魔王が滅んだら全て丸く収まりますから」
「うぅむ……」
それはすなわちイナリが滅ぶということであるからして、イナリにとっては何も丸く収まらないエリスの励ましに、イナリは唸った。
とても声に出しては言えないが、さっさと本物の魔王が出てきて、暴れまわって有耶無耶になって欲しいところである。
そんな物騒な考え事をしているイナリをよそに、エリスは一つ手を鳴らして話し始める。
「では、この後は予定通り図書館に行きましょうか」
「待って欲しいのじゃ。その前に相談なのじゃが、米の元、稲の種子を手に入れたいのじゃ。我の家の周りで育てるのじゃ」
「ああ、あの店で食べられないとなると食べられなくなってしまいますからね。しかし、この土地の環境で育てられるのですか?」
「何、我の家は森の中じゃし川も近くにあるのじゃ。それに、お主は信じておらぬどころか、まるで覚えておらぬじゃろうが、我は豊穣神じゃぞ?よゆーじゃ、よゆー」
「そうですか」
エリスの問いかけに、イナリはぷにぷにとした細い腕に力を込めて自信の表れを示したが、微笑ましいものを見るような表情をしてイナリの頭を撫でるエリスには、全くもって届いていないことだろう。
「ひとまず、市場に行きましょうか?イナリさん、初めてですよね」
「前に行ったときは確か、閑散としておったのう」
「日中はかなりの混雑が予想されますから、絶対に手を離さないでくださいね」
「むしろお主が我の手を離さぬじゃろ」
「……それもそうですね」
イナリはエリスに手を引かれて、先ほど服を探していた時にも歩いていた商業地区へと足を踏み入れる。
市場エリアには人々が群れをなしていた。
「おわ、話には聞いておったが、すごい人の量じゃ……。祭りでもしているかのようじゃな」
人々の間を縫いながら、イナリ達は市場を歩いていくと、屋台から色々な掛け声が聞こえてくる。
「さっき釣られたばかりの、この辺では今まで釣れなかった新種の魚だ!新鮮だよ!」
「ヒイデリ丘の村から持ってきた、季節外れの野菜が揃ってるよ!」
恐らく新種の魚とやらは、イナリが自宅に帰った時に湖で釣りをしていた釣り人達が釣ったものだろう。そして、季節外れの野菜というのも間違いなくイナリの権能の影響によって生まれたものだろう。
どうやら、イナリの能力は、魔の森を生んだ以外にも、十分に影響を及ぼしているようだ。
「この市場の人たちは逞しいですね……」
「む?何がじゃ?」
「さっきの店主は魔王の存在を恐れていましたよね?あれが普通の人の反応です」
イナリの疑問にエリスが答える。
「しかしここの人々は、魔王の影響という不安要素を、何とか有益に活用しようと努力しているのです。逞しいという表現は適当でしょう?」
「確かに、不安要素をうまく活用するのは難しいじゃろうな」
自身の権能が不安がられるのは複雑な心境にもなるが、ひとまずそれは置いておくとして、イナリはエリスの説明に理解を示した。
「尤も、ただ、以前ディルさんが少し言っていたような、商魂的な逞しさとは限りませんがね。当然、避難という選択が難しいために魔王の影響下での生活を余儀なくされている場合もありますから」
「む、魔王を恐れるのならば、逃げようと思えば逃げられるものではないのかや?」
「そう単純ではありません。例えば家族のいる家庭の場合、まず、金銭が十分にあるか。あるとしても、家族が移動に耐えられるだけの力や健康状態を持っているかであったり、あるいは移動先はどうするのか、移動先で稼ぐ方法はあるのか……。挙げればキリがありませんが、そういった情報を全て吟味したうえで決断しなくてはならないのです」
「なるほどの……」
エリスの話を聞いたイナリには、少しこの市場の景色が変わったように感じられた。
「イナリさん、あそこが種を売っている屋台です」
エリスがイナリに目的地を示すので、そちらを見る。
……しかし、人の海が見えるだけであった。
「……すみません、見えませんよね……」
「……そうじゃな……」
「もう少し近づいたら見え……いや、ちょっと待ってください。いい案を思いつきました」
「ふむ?」
エリスはイナリの手を引いて市場の隅に寄り、人の行きかう場所をよけた。
「一体何をするのじゃ?」
イナリがエリスに問うと、エリスは何も言わずにしゃがんだ。
「乗ってください」
「……?」
「肩車をしますので、乗ってください。イナリさんなら軽いのでいけます。モフモフも味わえて一石二鳥です」
「お主、絶対それが目的じゃろ……」
「ですがイナリさん、肩車をしたら、周囲の人々を見下ろすことが出来ますよ?神であるイナリさんなら、魅力的に感じますよね?」
「……し、仕方ないのう、今回だけじゃぞ」
承諾した瞬間エリスが小さく腕をグッとしたように見えた。
イナリは断じて、周囲を見下ろせることに魅力を感じたわけではないのだ。エリスが言うのだから仕方なく、である。
イナリがエリスの頭の横に跨ると、エリスが肩車をして立ち上がる。
「うおお、高いのじゃ!すべてを見下ろせるのじゃ!!」
「……前も思ったんですけど、本当に軽いですよね。でも最近は別に食事を採れていないはずはないですし……うーん?」
興奮してはしゃぐイナリをよそに、エリスは首を傾げる。
「まあ今はいいですね。イナリさん、今正面にある店がわかりますか?そこが先ほど言った店です」
「む、見えたのじゃ。では進むのじゃ!」
「あ、そうでした。イナリさんは歩かなくていいんですもんね」
エリスがイナリを乗せて進んでいく。元々イナリの風貌の珍しさから時折視線が刺さっていたが、今はなおの事周囲からの視線が集まっている。しかし、そんなことはお構いなしだ。
種を売る店に着くと、エリスがイナリが見やすいように位置を調整して立ち止まる。
「ほほう、これが種を売る店とな。中々多様で面白いのう、稲だけと言わず、全て手に入れたくなってしまうのう!」
「イナリさんがそういうのなら、端から端まで全部買います。何なら屋台ごと買います」
「そ、そこまではせんで良いのじゃ……」
ここでお願いしたら本当に実行に移しそうで怖くなったイナリはエリスにストップをかけた。流石に屋台はいらない。
「というか、そもそも我の目的の物はあるじゃろうか」
「君、一体何を探しているの?」
イナリが種を吟味していると、店主の女性が話しかけてきた。
「ええっと、稲の種子……オリュザの種を探しているのじゃ」
「オリュザ?珍しいね」
「育てて食べようと思うての。良いじゃろ?」
「ああ、若い子が農業に興味を持ってくれるのは嬉しいよ。ただ殆ど買う人がいないから、かなり在庫を絞っていてねえ……。行商人に半ば在庫処分気味に押し付けられた、これだけしかないんだけど、それでもかまわないかい?その分安くするよ」
女性は表に陳列されている棚の下から小さな箱を取り出す。その中には稲の種子が入っていた。
「うむ、是非にじゃな!ついでに、一通り少しずつもらうことはできるじゃろうか」
「おお、随分と豪快な選び方だねえ。少し値段の計算に時間がかかるけど、それでよければ構わないよ。これも少しおまけしようじゃないか」
「おお、お主、話が分かるやつじゃな!」
店員の女性が近くから小さな箱を取ってその中に種を詰めていく。
「ふふ、良かったですね、イナリさん」
喜ぶイナリを見上げるように、エリスが微笑する。少し待つと、店員の女性が計算を終えたようでイナリに向き直る。
「全部で銀貨一枚と銅貨五十枚だけど、おまけして銀貨一枚と銅貨十枚でいいよ」
「け、結構いい値段じゃな……」
「恐らく十種類近くありますからね、それくらいにはなりますよ」
もし先ほどエリスに片っ端から買うように頼んでいたら取り返しのつかないことになっていただろう。イナリは己の英断を称えた。
エリスがイナリと同じ硬貨入れから硬貨を取り出すと、それと引き換えに、小さな箱が詰め込まれた布袋が手渡されたので、イナリはエリスの上からそれに手を伸ばして受け取る。
「その袋もおまけだよ。毎度あり!」
「うむ、感謝するのじゃ」
礼を告げるとイナリを乗せたエリスはその場から移動した。
「いい人間もおるのじゃなあ」
「ええ、イナリさんにとって良い経験になったようで何よりです。では改めて、図書館へ行きましょうか!」
「うむ!」
エリスの声にイナリは元気よく返事を返した。今度こそ当初の目的通り、図書館へと向かっていく。
「……のう、ところで我はいつまでお主に担がれたままなのじゃ?」
「……とりあえず、図書館に着くまでこのままでいいですか?」
もう人気もかなり少なくなったにも関わらず、エリスに肩車をされたまま、イナリは図書館へと向かっていった。
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