第29話 身分証を呈示してください
イナリは自身の生活に必須となっている茶と群青の実を、エリックらの家の庭でも育てるために、適当に茶の木の苗と群青の実を回収して風呂敷に包んだ。そしてそれを相棒二号の先端に括りつけて担ぐと家を後にした。
「最悪これらさえあれば、細かい道具やらは調達できるじゃろ。それにしても……」
イナリはチラリと左右の様子を窺う。
相変わらず、川に向かってイナリが移動するのに合わせて、周りのトレントもじわじわとイナリに近寄ってくる。
「こやつらは一体何なのじゃ?我の姿、見えてないはずじゃろ……?」
非常に動きは遅いし、依然として特にこれといった被害は無いが、とはいえ意味も分からず近寄ってくるのは一抹の不安と恐怖を抱かせるものである。
そして、家には寄ってこなかったのも謎である。今後、検証する必要があるだろう。
「ま、今はさっさと帰るのが吉じゃろうな」
イナリは少し速足気味で川を下って行った。
そしてそのまま何事もなく――厳密には、変異したと思われる魔物やらはたくさん見たりしたが――無事魔の森を抜け、ディルと別れた湖まで戻ってきた。じわじわと寄ってきていたトレント達も撒いている。
かなり早朝に出発したことに加え、思っていた以上にあっさりと帰宅できたので、今は大体昼過ぎごろである。
「湖の周りにはまだ釣り人がおるのか……。むしろ増えているまであるのではなかろうか?」
人間はこちらの方面をそれなりに危険な場所になりつつあると認識しているとイナリは思っていた。しかし、この様子を見るとそれを度外視するような何かがあるのだろうか。
「ともあれ、呑気に釣りしてるくらいじゃし、この辺に来たらもう安全じゃろうか」
イナリはもう安全な場所に来たと判断し、不可視術を解除して街の方へと向かった。ついでに、釣り人達の近くを通過する際に、少し彼らの会話に注意を向けてみた。
「今まで釣れなかったような魚が大量に出てきたってマジだったんだな」
「噂に釣られて来ちまったけどよ、魔の森とかいうのが近くに出来たんだろ?こんな釣りなんてしてる場合か……?」
「一応その噂は聞いたさ。だが何かあった時のために冒険者が常駐してくれてるし、釣れた魚をギルドに報告したら追加の報酬も出るんだ。来ない理由がないだろ?それに見ろよ、あんなちっこい嬢ちゃんがうろついてられるんだ。この辺は何にも問題ないってことさ」
「まあそれもそうか。そうと決まれば、たくさん釣らねえとな。お前は何匹釣れたんだ?俺は五匹だ」
「俺は三匹だが、大物だからな。見ろよ!こいつはな――」
片方の男が魚を掲げて熱弁し始めた辺りで、イナリは会話を聞くのをやめた。
どうやら彼らはただ単に釣りをしに来たというわけではなく、この湖の調査も兼ねているようだ。
ただ、遠くで歩いているイナリの事を指さして「ちっこい嬢ちゃん」呼ばわりしたことについては少々思うところがあった。だからと言ってどうするわけでもないのだが。
「あやつら、我に聞こえていないと思っておるのじゃろうな、全く……」
イナリが街の門につくと、朝に街を出る時に門番をしていたフレッドではなく、全く知らない男性が門番になっていた。流石にフレッドも、朝から夜までずっといるというわけではないのだろう。
果たしてここ以外の門がどうなっているのかはわからないが、ここの門は非常に閑散としており、この場には門番の男性とイナリの二人しかいない。
街を歩いている時に見た馬車がかろうじて通れるかどうかといった程度には、門も大きくないし、湖へ歩いていく際の道もそこまで整備されていなさそうな様子を見ると、人通りはあまり無いのだろう。
イナリはその門番を一瞥し、門を通過しようとしたところで、門番に止められた。
「そこのお嬢さん、この街へは何をしに来たんだ?」
「む?我はお主ら人間が言うところの……なんたらの丘、じゃったか。そこに居を構えておってな。そちらの様子を見に行っていたのじゃよ。今後はこの街で暮らす予定じゃがの」
「ふむ。居住希望者か。では身分を証明できるものを提示してもらえるか?」
「身分を証明するとな?我は我であって、それ以上でもそれ以下でもないのじゃが?」
「あー、えっと、そういう哲学的な話じゃないんだ。えーっと、そうだな……通行証とか、どこかのギルドのライセンスとか、そういうのだ」
「つうこう……しょう……?」
突然表情が無くなったイナリを見た門番の男は、一瞬「あっこれ多分持ってないんだな」と察知したような顔をし、別の方法を提示してきた。
「えぇっと、持ってなさそうだな。そしたら、銀貨一枚で仮通行証が発行できるんだが……」
「ぎんか……。あっもしかしてアレか!和同開珎とか書いてあるヤツじゃろ!」
「多分違うな……。もしかして、金銭は持ってないのか?」
「我は未だかつて人間の経済とやらに触れたことはないのじゃ」
「マジか……どうなってんだ……」
「とりあえず我はもう行ってよいかの?」
「いや、そうはいかないんだ。お嬢さんには残念だが、身分も不明で金もない人は通れないってのが決まりなんだ」
イナリには不法侵入する手立ても無いことはないのだが、そうしたらきっと二度と街を堂々と歩くことはできなくなるだろう。非常に煩わしいことではあるが、ここで面倒ごとを起こしてはエリック達の家から追放されてしまうかもしれないので、我慢する。
「なんと、人間は本当に面倒な仕組みを考えるのう……。いやまて、以前エリックらに街に連れてこられた時は普通に入れたのじゃが、その時とは何が違うのじゃ?」
「その入れた時ってのはもしかしてアレか。エリックさん達が一人保護した女の子ってやつか。あー……それはだな……」
門番はきまりの悪そうな顔で続ける。
「恐らくその時のお嬢さんは、人ではなく物として扱われていたからだな。誰かに保護された身元不明の人や奴隷は法的には人として扱われないんだ。恐らくお嬢さんが気づいていないだけで、冒険者カードを提示してたはずだ」
「な、なんと……」
イナリは絶句した。
「と、とりあえずだ。エリックさん達が保護者なら、後で銀貨を支払うことを条件に仮通行証を発行できる。それでいいか?」
「よくわからんが、まあそれで入れるならいいのじゃ」
「んじゃ、ちょっとその前に持ち物を検査させてくれ。その荷物をここに出してくれればいい」
門番の男はイナリが担いでいる風呂敷の中身を門の端に設置されている台に出すように促した。
「わかったのじゃ。まずはこれじゃ」
イナリは茶の木を取り出して置いた。
「……これは?」
「これは我特製の茶の木じゃ。これで入れたお茶を飲むとな、精神的な疲労が一気に吹き飛ぶのじゃ」
「それ、大丈夫なやつか?何かヤバい成分とかないか……?」
「我が作った茶の木じゃから、何の問題もないのじゃ」
門番は何か言いたげな顔をしていたが、それをよそにイナリは群青の実を取り出した。
「あとはこれじゃな。群青の実じゃ」
「……ふむ」
イナリが群青の実を取り出した瞬間、門番の目つきが変わった。
「申し訳ないが、お嬢さんを拘束させてもらう。保護者はエリックさん達のところでいいんだよな?色々と確認する必要があるんだ」
「……のじゃ?」
訳も分からず、イナリは手を縄で拘束され、門の横にあった扉から裏へ連れていかれ、質素な個室に放り込まれた。
「……どうしてこうなったのじゃ??」
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