第28話 一時帰宅

「あやつも中々大変そうじゃな……」


 イナリは一言呟きながら、手元の指輪がしっかり指についていることを確認し、顔を上げた。


「む、何かこの辺の川の形、見たことあるのじゃ」


 その場所は、イナリが四体のゴブリンを見つけた場所に酷似した場所であった。草木によってかなり風景が変わっているので、殆ど川の形と地形で推定するしかない。


「もしここがあの時の場所であれば、恐らくこの辺に……あったのじゃ」


 まだ魔境化から二日程度しか経っていないので、もしここが家の近くであれば、ゴブリンに襲われる前にイナリの持ち込み品の一つである桶と、そこに入れた着替えがあるはずだ。そう考えてイナリが近くを探すと、幸運にもすぐにそれを見つけることが出来た。


 幸いにもトレントに轢かれたりはしなかったらしく、多少砂埃はついている以外は問題なさそうな状態であった。


「ともすれば、我の家はあっちの方かの」


 イナリは記憶を頼りにおおよそ家がある方角に向かって歩き出した。正しい方角ならば、家を建てる際に川側に向けて道を作るように木を倒していったので、直線状に開けた場所があるはずだ。


 あるいは、もし木がトレントになって移動していたりしても、イナリが木を伐採する際に周辺に残った、風刃の痕跡を辿っていけば良いだろう。


「……我の記憶は正しそうじゃな。よかったのじゃ」


 木の配置が若干変わっており、かつて木が生えていたのだろうと思われる穴があったりしたが、トレント化しなかった木の幹のなかにいくつか傷がついているのを確認できた。


 イナリはその跡をたどっていき、ついに自身の家に到着した。


「む、意外と何ともないのじゃな」


 ここに来るまではかなり変貌した森の様子が見られたが、イナリの家の周辺は魔境化する前とまるで変わっていなかった。


 道に向けて作った鳥居や、それっぽく飾っておいたよくわからん効果の石はもちろんのこと、畑に植えてある茶の木や群青の実のできる木、それにいくつか試験的に植えている植物たちも健在である。


「家の中も変化なしと。うむ、平和で良いことじゃな」


 続けてイナリは家の中を軽く覗き、特に変化が無いことも確かめた。


「ふう。思ったよりも疲れたのじゃ。まずはお茶を淹れるとするかの」


 イナリは切り倒した木の一部から作った籠に入れてある、乾燥させた茶葉を取り、イナリお手製の急須に入れ、お湯を沸かすために火打石を手に取った。


 ちなみにこの火打石は、地球から持ってきた短剣とその辺の石を片っ端からぶつけていって見つけたものである。なお、その作業でイナリは半日近く費やした。


 さらに、その後鍋が無いことにも気づき、奇跡的に耐火性のある木を見つけることに成功し、それを使って簡易的な鍋を作った。


 イナリがその鍋を家の中から持ち出したところで、ふと気づく。


「……水、取りに戻らないとダメかや……」


 残念ながらイナリの家には井戸は存在しない。イナリは畑から群青の実を一つつまみ取り、口に放り込んだ後、水を汲むために再び川へと戻っていった。




「全く、最初から汲んでおればこのような事にはならなかったのじゃが……」


 家の前で薪を燃やして火をつけ、湯を沸かしながらイナリはぼやいた。


「あるいはリズが使っていたような、魔法だか、魔術だかとやらを使えば横着できたのじゃろうか。もしそうなら人間が横着するのも頷けるというものじゃな」


 イナリが木から作った鍋は、耐火性があるというだけで、鉄の鍋とは違い熱伝導性が大変低い。従って、沸騰までにかなりの時間を要するので非常に暇なので、イナリは、火にくべられた鍋を眺めながら魔法について考えている。


「確か、あやつは火とかも出しておったよな。……もしかして魔法があれば、我がここまでやったことの半分くらいは一瞬で終わるのではなかろうか?」


 思い返してみれば、リズは岩を飛ばしたり、氷を生成したり、髪を乾かすために温風を生み出したりと、かなり手広く色々な事をしている。


 恐らく火をつけるのは火の魔法で一発だし、氷を生成できるなら水も生成できるだろう。


「魔法、とんでもない技術じゃ……」


 ディルがウィンドカッターが云々と言っていたところを見ると、風刃的な魔法もあり、それなりに普及しているのだろう。


「……もしかして我の風刃、下位互換……?い、いや、神である我の力がそんなことになるわけ……」


 イナリは恐ろしい結論に至る前にそこから目をそらすことにした。根拠はないが、きっとイナリの風刃には何かすごい、一線を画すような感じの違いがあるはずだ。


「確か人間はこの技術が発展したら、神殺しとか言い出すのじゃったか」


 もしそのような未来が訪れた場合、アルトの他に誰か神やそれに類するような者がいるかはわからないが、まず間違いなく一番お手頃な神殺しターゲットは、地上で生活しており、碌に戦闘経験も能力もないイナリになるだろう。


「人間の文明、うまく発展させないと我の未来が危ういのじゃ……」


 イナリはアルトに任された己の使命を再確認した。ついでに、もしそれに失敗してヤバい状況になったら、すぐにアルトに助けてもらおうと決めた。


 そんなこんなで、イナリが魔法についてや、未来に思いを馳せて絶望しかけていた間に鍋の水が沸騰し始めた。


 そこから、イナリは手慣れた様子で湯を湯呑に入れ、それを持って草履を脱いで家の中へと入っていった。


 長年の経験から、最適な時間や温度といったものが何となくわかるので、床に座り湯呑を置いた後は、机の上に置いておいた茶葉を放り込んだ急須を手元に寄せて、テキパキとお茶を淹れた。


 お茶を飲み精神的な疲労を回復しながら、イナリはこの後の事について考える。具体的には、今後どのように暮らしていくか、ということである。


「うーむ。どうするかの……」


 元々はこちらの家は住めなくなっている想定でいたが、実際に来てみたら思った以上に何の問題もない様子だ。


 むしろ、先ほど考えていたような最悪の未来や、あるいは何らかの理由で街で過ごすことが難しくなった場合には、ここに戻ってくるという選択肢を残すという意味でも、この家は放棄しない方が良さそうである。


 しかし、ここでずっと過ごすのというのは、それはそれで魔王の被害に遭ったら面倒である。となると人間による保護も捨てがたい。あと人間の街は食事が美味しい。


「ひとまず、基本的にはあちらで過ごして、たまにここに様子を見に来る、というのが良いじゃろうか。定期的にここに来る言い訳を考えておかねばの……」


 イナリは不可視術を使えるので魔の森に来るリスクはほぼ無いが、しかし人間からしたら、理由もなく危険な場所へ行くというのは不自然であろう。イナリは何か尤もらしい言い訳を考えておくことにした。


「ふう。とりあえず用事は概ね達成じゃな。帰るとするかの」


 お茶を飲み終えたイナリは、街に戻る準備をするべく立ち上がった。

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