人間の街へ

第6話 人間(仮)との接触

 ある日、モーニングルーチンとなった水浴びを終え、服を着たイナリが川を立ち去ろうとしたときのこと。


 イナリがふと対岸に目をやると、四体のゴブリンの姿が見えた。見たところ、以前見たものよりも少々身体がしっかりとしているように見える。果たして初日に見た個体がその中にいるかどうかイナリには判断が付かなかったが、それはイナリにとってどうでもよいことであった。


 一つ、初めてゴブリンを目撃した日の夜、イナリが寝るときに考えたことがあった。それは、「どのようにすれば地球であったような事態を回避することができるか」についてであった。


 恐らく最も根本的な原因は「自身の能力が社会にとって不要なものになったこと」であるが、他にもイナリには考えがあった。


 それは、「自身の存在を他者に知らせることが無かったこと」や、「人間と交流しなかったこと」であるとイナリは踏んでいた。


 それこそ境内に男性二人が訪れた時に、イナリが自身の姿を見せて文句の一つでもつければ、彼らは考えを改めたかもしれない。あるいは、それ以前から自身の存在が認識されていれば、少なくとも、どこの誰かもわからない馬の骨によって土地の命運が定められることもなかっただろう。


 この世界ではそのようなことを回避するためにも、積極的に自身の姿を人前に見せていくべきだというのが、イナリの結論であった。


「ふむ……これは人間と交流をするのにはうってつけの機会じゃ!」


 確かにイナリの考えは妥当なものであろう。しかし哀しきかな、イナリはゴブリンの事を人類だと思い込んだまま話を進めてしまった。


 イナリは、バランスを崩さないように注意しつつ川を渡り、自身の姿を隠す術を解除し、ゴブリン達に向けて話しかけた。


「そこの人間よ、首を垂れるのじゃ!我は植物を司りし豊穣神、イナリじゃ!」


「ギャ??」


 イナリは勢いよく口上を述べたものの、いまいち手ごたえが感じられなかった。


「……なんじゃ、我が威光に怖気づいてしまったかの?」


 ゴブリン達は困惑した面持ちで互いに目を交わした。その様子を見たイナリは、何か致命的な間違いが起こっていると感じつつあった。


「ギャァァ!!!」


 そして、ゴブリン達は付近に置かれていたこん棒を手に取り、イナリに襲い掛かった。


「危なッ!?え、な、何故じゃ!?」


 イナリは既のところで初撃を回避し、混乱しながらも走り出した。


「人間というのは、挨拶だけで相手に殴りかかるような野蛮な生物ではなかったのではないのかや!?」


 後ろからはゴブリン達が武器を手に追いかけてきている。


 再び自身の姿を隠す術を発動しようにも、その術を発動するには立ち止まって十秒程度集中する必要があり、また、その際に術者の姿を見ている者には効果が無いのだ。


 それに、天界でアルトと会話した際にイナリが述べていたように、イナリは戦闘とは無縁の生活を送ってきたし、唯一の攻撃手段である風の刃を発動できるほど落ち着いた状況でもないので、とにかくゴブリンから逃げるのがやっとであった。


 イナリは森の中を躓かないように注意しつつ走りながら、ゴブリンについて考えていた。


 アルトは、この世界の生物は地球と比べて様々な違いがあると言っていた。それはここら一帯の植生でよくわかったし、生物についても、初日に小鳥や虫を軽く観察したのと、ここ数日間で何度か猪や鹿を見た程度で、あまり注意して見なかったがきっとそうなのだろう。


 しかし、アルトが神託を教会に出したと言っていたのを考えると、少なくともこの世界の人間も言語を理解できると考えるのが妥当そうだ。となると、今後ろに迫ってきている、イナリの言葉が通じなかった彼らは――


「もしかしてこやつら、人間ではないのか!?」


 イナリは、そのように考えると、他にも多くの情報を失念していたことに気が付いた。よくよく考えれば、この世界に降りる前に村や街のような影などを散々見ていたのだから、流石にこの世界の文明が、今イナリを追い立てているゴブリン程度のお粗末なものではないことは明らかである。


「くぅぅ、我としたことがっ、なんという不覚っ……!」


 イナリ体力が消耗され、若干息が切れてきた。


「何とか、せねばならぬがっ!良い案が、思いつかんのじゃっ!」


 ちらりと後方を確認し、しつこく追いかけてくるゴブリンがいることを確かめたイナリは、半ば自棄になり叫んだ。


「こうなったら、一か八かじゃ!」


 良い案が無いと叫んだイナリだったが、一つだけこの状況を乗り切ることができるかもしれない考えを思いつき、それにすべてを託すことにした。


 イナリは森の中の若干開けた場所に立ってから叫んだ。


「植物成長促進、最大じゃ!!」


 イナリが自身の命運を託した賭けは、自身の植物を成長させる能力の強さを最大にすることであった。


 イナリの本分ともいえる植物成長促進能力は、イナリの状態に関係なく、イナリが存在する限り常に発動している能力であり、止めることが出来ない能力である。しかし、その能力の強さを変更することはできるのだ。イナリは、この能力を最大限に発揮することで草木で足止めさせ、ゴブリンらを撒こうと考えていた。


 イナリが植物成長促進の強度を最大にすると、瞬く間に周辺の木々や草花が急成長し、ゴブリン達の下半身を飲み込んだ。実際に植物成長促進の能力をこのような形で使うことはなかったので、どのような挙動になるかは完全に運任せだったが、うまく成功したようでイナリは安堵した。下半身が飲み込まれたゴブリンは、そのまま上半身も草木に包まれ、やがて見えなくなった。


「我ながら、結構えげつないことをしてしもうたのじゃ……」


 その様子を眺めつつ、イナリは呟いた。イナリはせいぜい足場が悪くなって躓きやすくなるとか、ゴブリンの体がツタによって拘束される程度を想定していたので、思った以上の効果に若干引き気味だ。


「……して、これはいつ止まるのじゃ?」


 イナリが成長促進のレベルを通常まで戻しても尚、周辺の植物が成長を止めることはなかった。イナリの目前には変なうねり方をしながら成長していく木や、能力を使う前と比べて明らかに変色している木、明らかに危険そうな色の花を咲かせる草が大量に生まれている。


 イナリは地上に降りてすぐ、植物について注意深く観察していたものの、完全に見落としていることがあった。それは、この世界の植物は、地球とは違い成長に限界が無く、エネルギーを取り込めば取り込むほど成長するということである。そのような中で、埋めた種が一瞬で花が咲かせるようなレベルの成長促進をさせられた植物たちは、異常な速度で成長を遂げていった。


 一分ほどして、ようやくイナリの周囲の変化が収まったものの、辺りの様相は全くの別物になっていた。高く成長した木々によって日が遮られ、なんだか手足のようなものを生やした木々や、明らかに「近づいた生き物は殺します!」と主張しているような外見の花も見える。


この世界には植物型のモンスターというものも存在していたが、イナリはそのようなものを認識していなかったし、ましてや自身の能力がそれらに対しても適用されるとは全くもって考えていなかった。


 「これ、どうやって帰ったらいいのじゃろうか……」


 こうして、かつて平和だった丘は、異様な成長を遂げた植物がひしめく魔境へと変貌した。そしてイナリは迷子になった。

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