第8話:セイショク
ほのぼのとした賑わいをみせる市場で、そこだけが凍り付いたようになった。
店先で水煙草を楽しんでいた女が、子供に呼ばれて振り返る。笑顔は嘘偽りない幸せ。人間の親子そのものだった。
「ねえ、人間の男が一人もいないんだけど」
「あら、
「フォクス!」
威圧感のある声がこだまして、にわかに視線が集中した。拳を握りしめたガルガの耳が鋭く立っている。
その時、おずおずと近寄ったルルが主に頭を垂れた。申し訳なさそうに、両の手を重ねている。
「奥様はメディナ帝国のヒトでございます。ましてや王族が知らぬとあっては今後、不都合が生じるかと」
「そうだぞ、ガルガ。アイヤ様を忘れるな。まだ宝石の中に魂があるんだぞ」
腕を組んだオウルが、ヘーゼルの瞳を光らせる。
紅は、イチジクやらレモン、デーツの並ぶ店先で甘い香りを吸い込んでいた。
「おや、アイヤ様。お身体はもう宜しいので? どうぞ、ウチの果物を持っていってください」
麻の腰布を巻いた豹族の男が、笑顔でオレンジを差し出す。店の奥では、男の妻が子供にお乳を飲ませていた。
「ありがとうございます。うわ、美味しそう。とても可愛い赤ちゃんですね」
「ええ。お陰で病気もせず、すくすくと育っています」
紅と獣人族のやり取りに、ガルガたちの瞳が切なく揺れた。彼女は、ここメディナ帝国のヒトとして生活しているのだ。
一人、にやけた眼鏡面のフォクスが、
「娼館に連れてったらいいんじゃないの? あそこにいるじゃない、セイショク」
「ふざけるな、彼女は妻なんだぞ」
「だって……この国では合法でしょ。むしろ
牙を剥いたガルガが、薄茶色の瞳を睨みつけた。隣に立つオウルが腕を組み、書物の内容をそらんじる。
「シュクフクのもたらした風土病『セイキ』に娼館利用を推奨する。帝国憲法第22条」
「……アイヤは風土病に
「下手に隠せば、あの無鉄砲女は屋敷を抜け出してでも、セイショクを探すって意味だよ。俺は、アイヤ様の身を危険に晒したくない」
豹の家族に交じって、笑顔で果物を頬張る紅を見たガルガが、眉間に
工芸店を営む女主人が、ピンク色が愛らしいローズクオーツの指輪を「アイヤ様にお似合いですよ」と微笑みながら差し出していた。
長い銀髪を風にそよがせたガルガは、シュクフクを見上げた。メディナ帝国の守護神にして唯一神。神のもたらした生態系。それが、セイショク。
「……連れて行こう。昼間の方が、まだ安全だ」
「ちょっと! そこの陰気
「「原因を作った、お前(君)に言われたくない」」
二人に突っ込まれた紅は、ぽかーんとした顔でザクロを配った。
それから、衣料店に入った一行は紅にターバンを巻き、胸を隠してガウンを着せた。わざと土埃を付けて、小汚い男を装わせる。
紅は、くノ一として男装することに慣れている。性格的に美人局をやれるタイプではない。彼女は、主に暗殺を請け負っていた。
妹の
これと言った動揺を見せない紅に、ガルガたちがむしろ困惑していた。
獣人たちも人間を装う。ターバンで耳を隠し、ガウンでは尻尾を仕舞った。淡々と変装する
丸っきり少年ではないか。女性的な顔立ち、黒髪と真っ白い肌は目立つ程である。背中には小さな羽があり、足は
「何見てんだよ、脳筋」
「……私、こんな子供から馬鹿にされてたの?」
「ええっ! 美人さんじゃない、オウル」
部下にそれとなく市場を見張っておくよう指示を出していたガルガが、うんざりした顔で眼鏡を見た。
「フォクス。お前ってヤツは、見た目が女なら何でも良いんだな」
「今更、気づかないで欲しいわね。何年の付き合いだと思ってんの、ボクたち」
オウルが一人、店の奥にそそくさ引っ込んで「こんな筈じゃなかった」とブツブツ言っている。
出掛けと同じように首根っこを掴まれ、強引に引きずられていった。
ぬかるみと迷路を思わせる通路、そして暗闇。臆する事なく、慣れた足取りで地下道を走る紅に全員が
獣人族は夜でも目が利く。けれども、紅は人間だ。暗闇の中で金色の瞳が一際、光を放った。
「ニンジャとは、こういう場所に慣れているのか」
「そうだね。私の任務は暗殺が多かったから。暗闇に紛れられた方が何かと便利なの」
地下を流れる下水の匂いに、フォクスが露骨に顔を
「蛇っ! 蛇がっ!」
「ルルってば……だから待っていてって言ったのに」
紅は親指と人差し指をくっつけて狐の手型を取ると「忍法、
ただでさえ驚いていた獣人族が、今度こそ目を丸くした。オウルの唇から堪らず、
「書物では知っていたが、まさか本当に魔術を使うなんて……経験に勝る知見はないな」
「忍術っていうの。でも、これが限界みたい。肺を大きくして、心拍数を上げないと使えないから。そこの眼鏡、ルルを助けてあげて」
「なんでボクなの!? 蛇、嫌いなんですけど!」
ターバンから耳を突き破らんばかりのフォクスが、嫌々ぬかるみに入ってゆく。蛇はおらず、縄が巻き付いているだけだった。
再び移動を開始した一行に、紅が問いかける。
「人間の男は、別の場所に隔離されてるって事で良いんだよね」
「そうだ。私は、お前の見た地獄の範囲内であって欲しいと願っている」
「……地下牢より酷いってこと?」
誰もが重く口を閉ざしたままだ。紅は沈黙からひしひしと感じていた。
人間の男は、獣人族より身分が低いのだと。
どのくらい移動しただろうか。急に地下道が広くなり、腐敗臭が一気に強くなる。
「あと少しだ、セイショクはここで暮らしている」
ガルガの手が自然と紅の肩を抱いていた。
鉄格子の下にあったのは、スラムの街。セイショク……人間の男の居住区だった。
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