地下鉄迷妄

日谷津鶴

地下鉄迷妄

 あれは私がほんの子供の時の出来事だ。


 誰に話しても信じてもらえない。ならば胸の奥に仕舞って置こう。そう決めた思い出の輪郭にそっと触れる度に記憶の内鍵は微かに軋んであの音色が聞こえる。そんな気がする。


 どうして皆と同じ小学校に上がれなかったんだろう。


 うんざりしたまま大嫌いなスカートの制服を着て、地下鉄の駅に向かう。そんな日々が続いていた。


「あそこは私立の学校だから先生もお友達もしっかりしている、いいところよ。」


 ママはそう言って私を受験に引っ張り出して何故か受かってしまった。


 合格祝いのパーティーは盛大で、糖細工で飾られたケーキに銀紙で包まれたチキン、見たことのないごちそうがテーブルの上に並んでいた。


 ママもパパもおじいちゃんもおばあちゃんも大喜びなのに私はちっとも嬉しくなかった。幼稚園の友達は誰一人その学校に進まずに、私だけがはぐれてしまうのだから。



 今なら定員割れしている上に高校までしか無い、尻切れ蜻蛉のエスカレーター式の冴えない私学だから受かって当然なことがよく分かる。


 けれど当時の私は受験なんか受かるはずもない、とタカを括って念押しに面接官にあっかんべえまでしたのにがっかりだ。当然両親には物凄く怒られた。


 幼稚園の仲良しの友達と一人だけ別れて進んだ「いいところ」は毎日つまらない。


 シスターの格好をした担任の先生。イエス様を出し抜いて女学院の信仰の中心に据えられたマリア様へのお祈り。


 幼稚園では見かけなかったような意地悪な子やワガママな子だって居る。皆がそれぞれの家のとびっきりのお姫様なのだから喧嘩が起きない訳が無い。


 それよりも一番嫌なのは制服だからといって動きにくいスカートを履くことだ。


 ママは私なんてそっちのけでこの制服を大層気に入って甲斐甲斐しくこのチェックのスカートに毎日アイロンを掛けていた。


 そのギャザーはいつでも折り目正しくて、私はかえってそれをぐしゃぐしゃにして取り返しが付かないようにしたい衝動と戦うために変形するほど爪を噛んではまた叱られていた。


 教科書に加えて分厚い聖書を詰め込んだ革のランドセルは重い。ゴルゴダの丘を引き回されるってこんな具合にしんどいのだろうか。毎日そんなことばかり考えている。


 絶対に無くしちゃダメ、と口酸っぱく言われている定期券を改札に通して地下鉄に乗り、草臥れた顔の大人たちと一緒に電車に詰め込まれる。


 目の前でコンパクトを広げてお化粧を続けるお姉さんをじっと見ていたら今描いたばかりの眉を釣り上げてじろり、と睨まれて慌ててそっぽを向く。


 手すりに掴まって立つ。子供は座っちゃいけません。子供は邪魔にならないように隅で大人しくなさい。それがママや先生のモットーだった。


 古い線路の上を走る電車はガタガタと揺れてパパが大事にしている赤い車に乗せられている時のように気分が悪くなる。


 色んな香水が混ざりあった匂い。怒りながらどこかに電話を掛けているサラリーマンのおじさん。優先席に座って隣にリュックを置くお兄さん。


 ぺちゃくちゃと喋る高校生のお姉さんたちを急に怒鳴り付けるおじいさん。そんな場面を見ていたら自然とお腹がしくしくと傷んで、駅について逃げるように飛び出してトイレを探す。


 タイル張りの汚れた和式トイレで用を足した。


 隅にあるゴミ箱からは生臭いけれど綺麗な模様のくるくる巻かれた何かが飛び出している。


 手洗い場の蛇口を捻ると薄黄色の水が流れてごぼごぼと音を立てて何とか流れていく。


 今日もハンカチを忘れてスカートで手をごしごしと拭いた。


 普段使っていたエレベーターの前に点検中の貼り紙があった。そこから出てすぐ右手が学校なのに。


「あーあ。」


 声に出して呟く。このままエレベーターが動かなければ学校に行かなくてよい、そんなことを期待しながら別の出口を探す。


 歩き回っているとステンドグラス風の装飾が両壁を覆った通路が見えてきた。


 春夏秋冬のパネルは春には桜、秋は紅葉、冬は雪景色とどれも淡く美しく、地下に似合う静謐さを備え持っていた。


 一番気に入ったのは黄色のチョウチョウオの群れが泳ぐ夏の海のパネル。


 一度も行ったことのない海はどんな匂いがするのだろうか。


 パネルは続く。夜空の星座が埋め込まれた漆黒の御影石を触ってみるとその表面はひんやりしていて心地よい。


 耳を押し付けるとごう、と何かが通りすぎる風のような音がした。


 水に落としたミルクのようにたゆたい続ける星雲。明滅する赤星。霧が立ち込める。


 ああ、すごい仕掛けだ。出口を探して暗がりの方向へそのまま進む。


 石畳の通路を歩き続けていると急に開けた場所に出た。


 床は煤けて、空気は埃っぽい。見上げると天井が無い。一番高い壁から飛び出す鉄骨。遥か遠くに映る青空は果てしなく遠いように思えた。


 ランドセルの肩ベルトをぎゅっと握る。何かが変だ。指の腹で削れた砂岩のようになってしまった爪の凹凸に触れる。不安な時の歪な癖。


 微かな音色が聞こえる。どこかで聴いたことがあるような、愁いを帯びた旋律だ。その音色を便りに私は気がつくとまた歩き出していた。


 曲がり角の向こうの壁際に座り込んで、アコーディオンを弾いていたのは一人のお兄さんだった。


 左手が動く度にくすんだクリーム色の蛇腹のふいごが開いては閉じる。滑らかに光る柘榴石を思わせる赤い本体に刻まれた消えかけた金の銘のアルファベット。


 象牙色の鍵盤にお兄さんの指が当たると音色が零れ落ちる。


お兄さんはぴったりと目を閉じていた。


 まるでアコーディオンに絡め取られた囚われの奏者のように。或いは初めから内蔵された部品の一つであるかのように。


「あの…」


「お嬢ちゃん、靴磨きなら悪いけど間に合ってるんだ。」


 お兄さんは歌うように私を諭す。足元の空き缶には給食で皆が残すようなコッペパンの半切れが入っていた。


「好きな曲は?俺に弾けるか分からないけれど。」


 お兄さんは自信が無さそうに力なく微笑む。私は知っている曲の題名をぽつぽつ、と伝える。


 それは幼稚園で皆と歌った曲ばかりだと口にした後に気づいて鼻の奥がつん、とした。


「知らない曲ばかりだ。お嬢ちゃんは物知りだね。俺が聞くのもなんだが君には帰るところはあるのか?」


「うん。…あるよ。」


「それはよかった。」


 お兄さんはぎこちない笑みを浮かべてアコーディオンをそっと地面に置く。


「今日は晴れだろうか。」


「うん。ほら、こんなにいい天気だよ。見てごらん。」


 私はそう言って上を指差す。お兄さんは悲しそうに俯く。


「ごめんね。俺は目が見えないんだ。」


「目が見えないのにアコーディオン、弾けるの?」


「弾けるさ。指が覚えているからね。」


 お兄さんはそう言って自分の指を見えないピアノの鍵盤の上に置いて動かす。


「目が見えていたら他の人みたいに字を教えてあげられるんだけど俺には何もできない。せいぜい曲を聞かせてあげられるだけだ。」


「だけど、お金持ってないよ。」


「いらないよ。何か食べ物を、と言いたい所だけれど夜になれば誰かが恵んでくれる。」


 お兄さんはそう言ってまたアコーディオンを弾き始めた。


「なんていう曲?」


「蛍の光、だよ。」


 なんだか家に帰りたくなるような、哀しい曲だ。だけど私の家はあんまり楽しい所じゃない。


 ぽつぽつ、と雨が落ちる。あんなに明るかった青空にいつのまにか鉛のように重い雲が垂れ込んで暗い影を落とす。


 私の頭の上に雨粒が落ちているのに、お兄さんの擦りきれた落ち葉色の立襟服は少しも濡れない。


「雨が、来そうだ。」


 お兄さんは顔を上げてまるで失われた光を求めるように眩しそうに薄く瞳を開く。それは岩の間で瞬く柔らかい蛍石のような繊細な輝きを孕んでいた。


 私は雨から逃げてお兄さんのすぐ隣に膝を丸めて座る。すぐ側では雨が降りしきり、石畳の側溝に囂々と音を立てて流れていく。


 地下通路の汚れを洗い流したその水はどす黒く煤けて油が浮いていた。


「どうして目が見えないの?」


「お化けに潰されてしまったのさ。」


「ほんとうに?」


 私は知りたかった。幼稚園の近くに目の見えない人が通う学校があって黄色の点字ブロックをこつこつと白い杖で探りながら歩く人たちがいた。


 その人たちが通る度に私は息を潜めて道の端によけていた。それは私にとって親切ではなく、かくれんぼのような感覚だったかもしれない。


「嘘だよ。」


 お兄さんはあはは、と笑う。早すぎる種明かしは慣れない冗談の証拠なのだろうか。


「俺はね。この間やっと復員できたばかりなんだ。その前は南方で戦っていた。俺は隊の中でも一番年下だったから皆には本当によくして貰ったよ。


 訳も分からず南下を続ける。糧食も尽きて、一人、また一人と赤痢で死んでいった。


 そうして最後の一人になって彷徨っていた所で地雷を踏んで吹き飛ばされた。


 …その破片で目をやられたんだ。もっとも足一本と目一つで生きて帰れたのは奇跡だよ。こうして楽器を弾けるのだから。」


 生き返る救世主、貧しい人々を満たすパンと葡萄酒。


 私が習った奇跡と違ってお兄さんの言う奇跡、は自分に言い含める呪文のように思えた。


「それから終戦で、俺は運良くこうして戻ってこれた。それだけでも奇跡なんだ。」


 ここでずっと奇跡、の意味を考え続ければ答えは出るのだろうか。


 神様はどうしてお兄さんたちが酷い目に遭っても澄まし顔で見ないふりを決め込んだのか。


 ランドセルの中の聖書を繙き捲る。安っぽい薄紙に雫が垂れ、福音書はどろどろに溶けていく。それでも私は頁を捲る。


 そうしている内に雨の勢いは不意に収まり、白い霧が立ち込める。


「もう行きなさい。お家の人が心配するよ。」


「…分かった。バイバイ。」


 私はお兄さんに手を降って歩き出す。掛ける言葉を見つけられないまま。アコーディオンの音は次第に鳴り止んでいた。


 真っ直ぐ進むとステンドグラスの道に出た。地下鉄が走る音がする。見覚えのある改札をひっきりなしに誰かが通る。天井から下がった時計を見る。あと10分で学校が始まる。


 急いで人混みの中に紛れて、私はそれきり何度試みてもあの場所に戻ることはできなかった。


 大人になった今も私は雨に濡れ溶けた紙屑のような聖書を手離せないで居る。


 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

地下鉄迷妄 日谷津鶴 @hitanituzuru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ