第二十二話 柊乃巫女止銀之聖者
フュリスは、待ち受けていた魔獣の軍団を殲滅し終えたその場所で、北の丘陵の上空から白く輝く流星が雨のように降る様を見た。
圧倒的な法力に人々の命が吹き散らされていく。
「どうして聖者の術が人を?
あんなに強い法術は聞いたこともないわ。
まさか、銀之聖者様が?」
万の数の命が蹴散らされ、離れた場所にいるフュリスに止める術はない。いや、全力で走れば虐殺を止めることはできたかもしれないが、彼女にはそれはできなかった。
(行けば人に見られてしまうわ)
フュリスは今ジャフィールとの戦いで千切れ飛んだ服を繋いで身に着けていたが裸に近く、全身に現れたアザは誰の目にも明らかだ。人目につくほど近寄れば魔女だと思われ人間の軍から攻撃されかねない。それに、それ以上の危険もある。
「どうしようもないわ。魔族を止めるのが先よ。
あちらに強い瘴気を感じるから、そっちから」
荒野の彼方に小さく天幕が見える。
フュリスは目を閉じて丘陵から顔を背けると、南へ向けて走り出した。
「来たな。てめえがフュリスか」
天幕の前には、黒い革の服を着た長身の男が待っていた。
「貧相な格好してやがる。
てめえみてえなガキにキーナとジャフィールがやられたなんて、信じられねぇ」
「あなたも、四天王ですね」
ライキーナに匹敵する瘴気の持ち主にフュリスが問う。
「四天王、万影のバーザックだ。
瘴気を隠さずにいれば来ると思っていたぜ。
キーナとジャフィールの仇、逃がしゃしねえ」
(消えた? 後ろ?!)
バーザックが消えると同時にフュリスは真横に大きく跳んだ。
彼女の首があった空間を背後に現れたバーザックの短剣が薙ぎ払う。
ジャフィールと戦った経験から獣の感覚と脚力を宿していなければ、今頃首を断たれていただろう。
「よく避けたな!」
跳んだ先で振り向けば足元の影からバーザック「動きが甘いぜ!」突き出された短剣を躱して前に飛び込めば地面についた手の影からバーザック「まだまだ行くぜ!」バーザックバーザックバーザック「ほらほらどうした?」どう逃げてもフュリスの影からバーザック「逃げるだけか?」次から次へとバーザック。
フュリスは獣の脚力で駆け巡り
まともに息をする余裕もない。
(今までと全然違うわ。
ライキーナさんもジャフィールも私を殺そうとしていなかった。
だけど、この人は違う。こんなにも違う)
殺意に満ちた攻撃は今まで経験してきた戦いとは異質の鋭さがあって、フュリスから力を放つ間を失わせていた。
ひたすら追い立てられ切りつけられ癒して耐えて逃げ続け、ようやく影から現れる動きに慣れた頃、バーザックはピタリと追うのをやめた。
(どうして? いいえ、チャンスなんだから迷っちゃダメ)
ここぞとばかりに足を止めて両手を掲げ、力を放つフュリス。
だが突如として天幕の中に瘴気が渦巻き、真っ黒な円盤が回転しながら飛んできてフュリスを妨げた。
(この瘴気は!?
なんてこと。2対1だわ。
バーザックは時間稼ぎをしていたのね)
円盤はさらに数を増して天幕を切り刻み吹き散らし、現れたのは1人の男。
顔まで覆った黒い兜の後ろからは腰までまっすぐな黒い長髪。
全身を真っ黒な布を重ねた衣に包み、右手には闇夜から切り出してきたような漆黒の剣。
黒い炎のようにゆらめく瘴気。
背後に浮かぶは闇を押し固めたように真っ黒な円盤が8枚。
バーザックは男の横に控えたが、代わりに4枚の円盤がフュリスに襲いかかった。
攻撃の質が変わってフュリスは反撃の機会を失い再び追い立てられる立場となった。
「我が名は魔王ヴェルハリード。
柊乃巫女よ。
我らが大望果たすため、貴様にはここで死んでもらうぞ」
「魔王? それならあなたが」
対話の余地なく円盤が舞って四方からフュリスに襲いかかる。力どころか一言言う隙もない。
突然円盤がフュリスの前後左右で停止した。
円盤の影からバーザック。人数は4人。前後左右にフュリスを囲む。
(え?)
突如増えた敵の姿にフュリスが止まった。
フュリスへと踏み出すバーザックの影からバーザック。もう一歩進んでバーザック。16人のバーザックが壁のように押し寄せ逃げ場を失ったフュリスは真上に飛ぼうと力を込めたがその脚を掴むのもバーザック。
(いけない! 足元を忘れて……)
フュリスは円盤と増えるバーザックに気を取られ、足元にある自分の影への警戒を失っていたのだ。
16本の短剣が次々とフュリスの身体に突き立てられ消えゆくバーザックの影からバーザック。
新たに現れたバーザックが短剣を突き刺して消えると新たにバーザック。
バーザックバーザックバーザックバーザックバーザック。
ザクザクザックザクザクザクザックザックザクザクザックザクザクザクザックザック。
フュリスに凶刃が刺さり続ける。
「「「「「こいつ、なんで死なねぇんだ!」」」」」
叫んだのはバーザック。
全身に短剣を刺されながら、その傷は百を数倍は超えながら、しかしフュリスは耐えていた。
(こんなの、みんなが同じ目に遭わされることに比べたら!)
フュリスの覚悟を支えていたのは両親の死をはじめとした、自身が元となった出来事の積み重ねだ。
その理不尽さが彼女を受け入れてくれた人たちに及ぶことこそ耐え難かった。
だからこそ彼女は殺意と刃の恐怖に勝って痛みを堪え短剣を受け、そうして得た瞬間に力を放ち、「死」の糸を切り散らし傷を癒して猛攻に耐えた。
爛々と深緑に輝く双眸でバーザックの向こうにいる魔王を睨む。
「「「「「お、俺を無視してやがる。この俺を!」」」」」
フュリスは象の如く堂々と、短剣を我が身で受け止めた。そんな生き物は見たことも聞いたこともなかったが、命の底を通して湧き上がる力から望んだ獣の力を得た。
力が華奢な体の周りに層を成す。犀の皮の如く厚く亀の甲の如く固くなって、バーザックの短剣を悉く止めた。
河馬の如く猛々しく歩けば足を捕らえていたバーザックの腕は踏み砕かれて、全てのバーザックの腕が折れた。
「「「「「ぐああああっ!」」」」」
一斉に飛び退き腕を抱えるバーザック。その全部が等しく同じく傷ついている。
影分身の魔導で力を使う隙を与えずフュリスを倒す策は潰え、彼は歯を食い縛って遠ざかる。
「あなたを止めれば、戦いは止まるんですね」
そしてフュリスはバーザックのことなど眼中になく、魔王へ向かって一歩また一歩。
魔王は言葉を交わさない。
円盤が唸りを上げて回転しながら襲いかかり、フュリスは顔の前で腕を交差させてそれを防いだ。石と刃物を打ち合わせたような身の毛もよだつ音が鳴り響く。
円盤はフュリスを覆う力を、次いでフュリスの腕を丸鋸のように引き切ったが切断には至らずに割れた。
骨まで達した傷を瞬く間に癒すフュリス。
「「「「「あれを止めんのかよ」」」」」
愕然としたのはバーザック。
あれは魔王の膨大な瘴気を固めた代物だ。無双のジャフィールでさえ止められなかった攻撃を、完全ではなくともフュリスは防いだ。
フュリスの周りに柊の葉が現れ数を増し、竜巻のように渦を巻く。
(なんて力だ。ああ、納得がいくぜ。
あの力にキーナもジャフィールも滅ぼされたんだな)
バーザックが魔王の傍らに1人現れ、残りのバーザックは全て消えた。
「ヴェルハリード様、あいつに対して俺は無力だ。
倒せるとしたら、あんたの剣くらいだろうな」
魔王ヴェルハリードの剣もまた瘴気を濃密に束ねた魔導。
その威力は円盤全てを合わせたよりも大きい。
「バーザックよ」
「言わねえでくれ。
あれがどんな化け物だろうと負けたくねぇ。
俺はキーナの仇を討ちてえ。
だから頼むぜ、魔王様よ」
「……承知した」
その一言を聞くなりバーザックは走り出しヴェルハリードは残り7枚になった円盤を放つ。
渦巻き広がる柊の竜巻。
その周りを鋭角な軌道で飛び回る円盤の影からバーザック。
合わせて8体のバーザック、その影の中からバーザック。
さらに影からバーザック。
バーザックバーザックバーザックバーザックバーザックバーザックバーザックバーザックバーザックバーザック。
倍々に数を増すバーザック、その総数65536体。
「「「「「一撃で一枚だ!」」」」」
その全てが一斉に、彼と魔王を覆い尽くそうと広がる柊の嵐に飛びかかった。
6万余のバーザックが柊の嵐を受け止めた。捨て身で1人が1枚の葉を撃ち落とし、嵐は散らされフュリスまでの道が開いた。
黒い疾風と化したヴェルハリードが突き進む。円盤で残った葉を払って道を切り開き、漆黒の剣をフュリスに振り下ろす。
刃が少女の肩から心臓の位置まで食い込んだ。
「「「「「キーナ、俺たちの勝ちだぜ」」」」」
65536体のそれぞれで柊の葉を受けたバーザックは、それぞれの傷が全てに及んで滅びた。
「おおおおおおおおおお!」
「うわああああああああ!」
フュリスの胸の半ばまで食い込んだ剣。魔王ヴェルハリードは雄叫びと共に剣を押し込みフュリスは叫びながら押し上げ拮抗していた。剣の瘴気が傷を真っ黒に染めようとしているが、身体の内から湧き上がる深緑の光が押し返している。
「これでも、これでも死なぬのか!
始原の力とはこれほどのものか!」
心臓を真っ二つにされてもフュリスは止まらなかった。
吹き荒れる柊の葉はヴェルハリードに襲いかかり彼は円盤を盾にして嵐を凌ぎつつ、全力でフュリスを圧し斬ろうとする。
「あああああああああああああ!」
荒野に響く絶叫は細い喉から発せられているかも怪しく、自らの命を持ち去ろうとする死の糸に、身を蝕もうとする瘴気に、癒そうとしても癒せない傷の痛みに、全身を沸騰させるような力の奔流に意識は掠れ、決意を成し遂げようとする気持ちだけがかろうじて、己の叫びで繋がっていた。
(ハリスよ! 今だ!)
フュリスが全身全霊で抵抗している。両者の力が完全に拮抗している。
今こそ好機と、ヴェルハリードは遠い小山の頂に視線を送った。
頂に立つは四天王最後の1人、一矢のハリス。
ハリスは手にした強弓を引き絞り、必中の魔導を込めて矢を放つ。
矢は狙い違わずフュリスのこめかみへ。
みゃあっ
矢の射線に身を躍らせたルークが額から白い光を発し短剣を象った光で矢を受けた。
矢は光の短剣を砕き、ルークの顎の下から胴に風穴を開けて貫通し、フュリスの額を掠めて飛び去った。
(やった! やってやったぞ! してやったぞ!)
身体を貫いた衝撃も掠れてゆく視界も意識も構わずに、ルークは喝采をあげた。
(とうとう貸しをくれてやったぞ!
お前のその顔が見たかったのだ。
返せぬ借りに悶々とし続けたわしの苦渋をお前も味わえ!
ここで死ぬのは決して許さん。
生きてわしと同じだけ、それ以上、その寿命が尽きるまで!
わしの思いを喰らうのだ。
よいな、決して死ぬな! 生き延びよ……)
暗くなる視界の中の刹那の思考。
ルークは最後に気が付いた。
(ああ、そうだ。
貸しも借りもどうでもよかった。
わしはお前に……死なれたくはないのだ)
「ルーク?」
矢が掠めて正気を取り戻したフュリスが横を見れば、額の宝石から光を失った黒い猫がぺしゃりと軽く湿った音を立てて荒野に落ちた。
「そんな……
ルーク、ルーク……
だから言ったでしょ? 来たら死んじゃうって」
「こ、これは何事だ!?」
離れた場所に落ちて動かなくなった相棒に声をかけながら、フュリスは剣を押し戻す。
ヴェルハリードは全身全霊で押し込んだが歯が立たずまるで大人と力比べをする子供のように押し返され、剣を押し返しながら塞がる傷に驚愕した。
柊の嵐は勢いを増し、それまでに倍する力で円盤を削る。
小山の頂から放たれた矢を嵐がかき消した。
「そうね。そうだったわ。
ルーク、あなたも私の大切な」
フュリスが指差すと柊の葉が生じて増えた。増える勢いをそのまま早さに転じ、葉はハリスまで達して取り囲む。
「しまっ……」
一矢のハリスは滅びた。
容易く四天王を消し去って、そんな相手はいなかったかのように地に横たわる相棒の体を見つめて、フュリスが囁く。
「大切な、友達だったわ」
フュリスの頬に涙が流れ、柊の葉が渦を巻いた。
途方もないほど密度を増して、深緑の嵐がヴェルハリードに襲いかかる。
「おのれ!」
ヴェルハリードが吠えた。
だが嵐は彼の円盤を削り、黒衣を引き裂き、瞬く間に瘴気を散らしていく。
遂には手にした剣も折られて兜も砕かれ、柊の葉の中に埋もれた。
「メルゼアデス様! 我はここまで。
どうか、どうか我らが望みを!
この世界をおす……」
魔王ヴェルハリードは滅びた。
「メルゼアデス様?」
魔王の最後を見届けたフュリスは、彼の最後の言葉と、最後に現れた彼の素顔に呟いた。
それで全てが繋がって、フュリスは北の空を見上げた。
(まだ終わっていないのね)
白く輝く流星が丘陵から舞い上がって空を飛び、大気を震わせ荒野に落ちる。
全身を法力の輝きに包んだ男が、あまりにも強大な力に支えられ宙に浮いて立っていた。
その身に纏うのは金銀の刺繍で飾られた純白の法衣。
銀の長髪は自らの力に神々しく波打ち、髪と同じ色の目がフュリスを静かに見下ろしている。
「魔族を率いていたのは、あなただったんですね」
「いかにも」
幾度も見た端正な顔は、目と髪の色を除けば魔王ヴェルハリードと瓜二つ。
「私こそ魔族の頂にある者。
人は私を、大魔王メルゼアデスと呼ぶ」
男の答えにフュリスは改めて目を見張った。
その名前は伝説の中、1000年前に勇者によって倒された魔族の王のものだった。
「フュリスよ、四天王のみならずヴェルハリードまで滅ぼしたお前は、我らが大望を妨げる最大の敵となった。
残念だ。
神学校から出なければ、このようなことにはならなかったであろう」
「どうしてこんなことをするのですか?
やめていただくことはできないのですか?」
怜悧な声は穏やかで初めて出会ったあの日と変わらず、フュリスは、答えは分かりつつも問いかけずにはいられなかった。
「できぬ。
我が友の望みを果たす機会は、今を逃せば他にないのだ」
静かな答えに、フュリスは一度目を閉じた。
初めて奇跡を起こしたあの日。
そこから始まった日々が思い出されるが、彼女の決意は揺るがなかった。
「私は、私を受け入れてくれた人たちのためにここに来ました。
だから、あなたの行いを認めることはできません」
「良かろう。
ならばお前を倒して進むのみ。
フュリスよ。柊乃巫女よ。
このバーソロミュー・グレイズヴェルドを、止められると思うな」
バーソロミューが両手を広げる。
白く輝く法力に漆黒の瘴気が混じり込み、法衣は白と黒に塗り分けられて染まった。
銀の長髪にも黒が流れ込み相反する色に揺れ、右目も底知れぬ闇を思わせる黒と化した。
「銀之聖者様。
私はあなたを、止めてみせます」
荒野に白と黒が深緑と対峙して膨れ上がり、互いを巻き込みながら嵐と化した。
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