第四章 柊乃巫女
第十六話 銀之聖者
戦場に絶望が溢れていた。
禍々しい瘴気を纏った獣の群れが白き旗の元に集う兵士たちに襲いかかる。
鉄をも引き裂く爪と牙を持つ獣たち。鋼よりも硬くしなやかな毛に覆われた体躯は元々の獣よりも大きく力強い。
魔獣は鉄の鎧兜で武装し訓練を積んだ兵士たちであっても3倍の数を用いなければ押さえ込めないほどに凶暴だ。その上、飛び道具は瘴気に阻まれ効果が薄く、獣故の機敏さで戦列を掻き回し数の優位を覆しては、不運にも孤立した兵士に群がり爪と牙で哀れな獲物を引き裂いた。
「神よ、兵たちに恩寵あれ!」
「聖者の加護が我々を守ってくださる。押し返せ!」
戦列の後ろから白い光が湧き上がり、兵士たちの身を包む。瘴気は押し除けられ武器を握る手には力が戻り、彼らの槍と剣は加護を得て魔獣の毛皮を貫いた。
しかし、それも一時のこと。
兵士の後ろに並ぶ聖者たちの数は少なく、法術を放つ回数は瘴気によって削り取られる加護を補うには足りていない。
「加護が切れる!
つ、次の法術は? 助けてくれ!」
法術の支援によって生じる戦線の押し引きは呼吸にも似て戦いの激しさと共に乱れ、その波に取り残された兵士は複数の魔獣に襲われる。
魔獣の群れの中に孤立した彼らを助ける術は仲間たちにも無く、叫びながらあっけなく食い散らかされた。
魔獣たちの群れの後方、小高い山の頂に1人の女性が立っている。
岩や砂利を歩くには不向きな踵の高い靴。
黒く艶やかな革の服は彼女の背丈と身体つきを引き立たせ、ストレートに腰まで伸びた七色の髪は戦場からの風になびいている。
「よう、キーナ。順調みてぇだな」
「あら、あなたお休みじゃなかったの?」
横合いからの声に女性は振り向き、声の主である黒髪の男へと流し目を送る。その目には白目が無いどころか虹彩も瞳孔も無く、虹の七色が視線と共に流れて揺らめいた。
彼女の髪もまた、振り向く動きに合わせてなびき色彩が流れる。
「休んでなんかいねぇよ人聞きが悪りぃな。
お前に命令があるから、伝書鳩にされたんだぜ」
黒髪の男が肌の露出が多い黒服の前を開いて、懐の影から革を漉いて作った紙を取り出した。
「あなたが?
そんなに急ぎの命令なんて珍しいわね」
「ヴェルハリード様直々の命だからな。ほらよ」
キーナの表情から笑みが消えて、彼女は紙を受け取り目を通した。
「おかしな命令ね」
「ああ。だが、お前が適任だろ。
こっちは俺が任されたから、人間どもにはきっちりとどめを刺してやるぜ」
「前みたいにやり過ぎないでよ。
もうしばらく生かしておかないとならないんだから」
「あの将軍をやったことか?
やり過ぎってことはねぇだろ。
どうせいずれは皆殺しにするんだ」
「皆殺しにするのは、あのお方の命が下ってからよ。
四天王であっても勝手に決めることじゃないわ」
「わかったよ。やりすぎねぇようにする。
要は適当に痛めつけておけばいいんだろ」
「わかったならいいわ」
2人は兵士たちを攻め立てる魔獣の群れを見下ろした。
男が冷たく吐き捨てる。
「さっさと片付けてえぜ。人間どもめ」
「そうね。我らが魔王様のために」
キーナも男と同じく冷酷に呟いて、目が灰色がかった青へと変じる。だがそれはすぐに、元のゆらめく七色に戻った。
「それじゃあ、後は任せたわ。
万影の名に恥じぬ戦を、バーザック」
「任されたぜ。そっちもせいぜい頑張ってくれや」
「楽しんでくるわ」
そして女性の姿は景色に溶けるように消え、黒髪の男だけが小山の頂に残った。
「伯爵様、我が軍は押されつつあります」
「わかっている。
この数日で敵の攻めが変わったな。
攻勢は厳しくなったが耐えるよう命じよ。
右翼にはゴドニーに命じて騎兵を出し、獣の注意を引きつけさせろ。中央への圧を逸らすのだ」
ガルトルード伯爵は落ち窪んだ目をギラギラとした怒りで光らせ、事実上は死守に等しい苦渋に満ちた命令を発した。
(一時凌ぎに過ぎん。援軍はまだか。
このままでは兵たちの士気も体力ももたぬ)
地の利を生かした綱渡りの戦術により戦線を保ってきたが、魔物の軍勢は一気呵成にと攻め立ててきており、昼夜を問わぬ戦いに皆が疲弊していた。
伯爵が率いる軍勢は精強ではあって、だからこそ彼の作戦を忠実に実行し魔物の猛攻を凌いではいた。
しかしそれ故に、限界を超えた瞬間に崩壊することも目に見えていた。
「援軍はまだか?」
「申し訳ございません」
「バーソロミューめ、後どれほども保たぬぞ」
部下の答えに伯爵はとうとう弱音を吐き、奥歯が砕けんばかりに歯を食い縛る。
戦線の崩壊は、彼に従う部下たちの大半が討ち死にすることも意味するからだ。
魔獣たちは獣なのだから当然に足が早く、撤退にも高度な戦術が要求される。しかし、すでにその策を巡らせる余力は戦線を維持するために使い果たしていた。
「民の避難はできておるか?」
「すでに南部の村々には命令を下し、伝令は皆戻ってきております」
なぜなら、この戦線の後ろは民の住む地だから。
避難の命令は出した。元々戦いに近しい地なのだから、速やかに実行されただろう。しかし、瘴気で領地を荒らされることは防がねばならない。
加えて、住みやすい地形は進軍しやすい地形でもある。
ガルトルード伯爵領は全体的に地形が険しいが、それでも今の丘陵地帯を抜けられたなら、魔物たちは一気に領内へと進むだろう。
そうなれば、今度はこちらが奪還のために攻める側となってしまって、今は守るために効果的な地形が敵に優位を与えてしまう。
もう、一歩も引くわけにはいかないのだ。
「よし、私も前線に出るぞ」
彫金を施された白い鎧を身につけた伯爵は、腰に帯びた剣に左手を置き馴染んだ感触を確かめると、兜の面頬に右手をかけた。
「お供いたします」
部下たちが彼に倣う。
彼らは全員が聖騎士として認められるほどの勇士たちではあるが、数が少なすぎた。
戦線に加わったところで多寡が知れている。
だが、兵士たちを鼓舞して戦線の崩壊を遅らせることはできる。
その間に援軍が来れば、流れが変わる。
来なければ……
「皆、すまぬな」
「伯爵様におかれましては、我らのことは気に置かず剣を振るわれますよう申し上げます」
「我らは皆、覚悟の上のことです」
「其方らの忠義、感謝する。行くぞ!」
これが最後と言葉を交わし合い、伯爵は剣を掲げた。
伯爵が先陣を切って魔獣の群れを押し返し、兵士たちは一時の間勢いを取り戻した。
しかし、魔獣は強く瘴気に支えられた体力は底知れず、時間と共に戦線は再び劣勢となり、綻び始めた。
(ここまでか)
ガルトルード伯爵が最後の突撃を覚悟した、そのとき天が真っ白に染まった。
真夏の太陽よりも眩く天が輝いている。
誰もが驚いて頭上を見上げ、あまりの眩しさに目を細めたその時、輝きの中から白い流星が尾を引いて戦場に降り注ぐ。
絶望に耐えながら戦っていた兵士たちの目の前で、魔獣が次々と流星に貫かれ叫ぶ間もなく文字通りに消し飛んでゆく。
白い輝きを炸裂させた流星は魔獣の身体も瘴気もひとまとめに霧散させたのだ。
血みどろの戦いの最中、魔獣を切り伏せたガルトルード伯爵は輝きに天を仰ぎ、兵士たちを鼓舞する。
「これは銀之聖者の法術だ! 援軍が来たぞ!
今こそ反撃のとき。勇気ある兵たちよ、我に続け!」
伯爵の檄に、目の前で起きた奇跡に、兵士たちは雄叫びを上げ武器を振り上げる。
反撃が始まった。
魔獣の群れを蹴散らして兵士たちが突き進む。
彼らの身を守るのは白い光の鎧。
彼らの武器に宿るのは聖なる輝きの刃。
魔獣の爪は光に弾かれ、牙は輝きに折られ、身に纏う瘴気を切り裂かれ毛皮を貫かれ、どさどさと倒れ伏していく。
戦の趨勢は逆転した。
「バーソロミュー殿、援軍に感謝申し上げる。
貴方様のおかげで、我らは同胞の多くを失わずに済みました」
本陣に戻ったガルトルード伯爵は、援軍を率いてきた銀之聖者ことバーソロミューと面会していた。
「ガルトルード伯爵、国境の守りを果たした貴君らの働きは、国王より直々の褒賞を賜ることになろう。
援軍が遅れたこと、私が王都にいた間のこと、貴君らの受けた痛みには何物も替えようがないことを申し訳なく思う。
ついては、貴殿に指揮権を認める。
我が力を惜しむことなく使いたまえ」
「そこまでおっしゃられるのであれば、我々は全力を尽くす他はありませんな」
聖者は軍とは異なる命令系統に従う。法術という強力な力を軍が掌握しないように、またその逆が起きないように権力を縛りあった結果の体制だ。
それを破っての指揮権の承認には、伯爵家をはじめとした南方貴族に被害を受け止めさせたことへの償い以上の意味がある。
「是非ともそうしてほしい。
それから、すぐに後続として聖女隊もくる。速やかに治療できる体制を整えてほしい」
「なんだと!?」
これにはガルトルード伯爵であっても驚かずにはいられなかった。
「貴君は正気か? 聖女隊は癒し手としてあるもの。
あくまで後方部隊だぞ。
過去、聖女がいるために兵が無闇に奮起し、聖女が襲われ逆上した軍が統制を離れ全滅した。
その愚行を繰り返さぬために定められた軍規を忘れたわけではあるまい?」
「もちろんだ。
だからこそ速やかに治療を行い後方に下がらせなければならない。
ガルトルード伯爵、現状を鑑みて兵を後方に送り治療する猶予があるかね?」
軍から指揮が失われることは、特に魔物との戦いにあっては敗北を意味する。
法術支援を行う聖者たちと前衛の兵士たちとの連携なくして魔物たちの猛威には立ち向かえない。
だからこそガルトルード伯爵は、相手が銀之聖者であっても猛烈に反論をした。
しかし銀髪の英雄が下した冷徹な判断に口を閉じる他はなかった。
「確かに、魔物たちを押し返しはしたが戦いは余談を許さぬ状況だ。
こちらの兵力に不足を感じ取れば、すぐにでも襲いかかってくるであろう」
「いかにも。私も再び神威級の法術を扱うには時が足らぬ」
神威級とは、伯爵の窮地を救ったあの白き流星の法術だろうか。
あの法術を目の当たりにした伯爵は、銀之聖者が単身で万の軍勢に匹敵するという噂も嘘では無いと感じていたし、今後の反撃も優勢だろうと考えていた。
だが、あれほどの威力のものならば容易に扱えないことも納得がいく。
そして、あれを頼れないのであれば兵力の回復は最重要事項だ。
伯爵は顎を引き規則に反した英雄への不満を飲み込んだ。
「そうであるならば、貴君の申し出と機転には首を垂れる他はない。
速やかに体制を整え、聖女隊が滞在する期間を最小限とするべく努めよう」
「私も学舎で育んだ者たちが危険に晒されるのは忍びない。
貴殿の働きに期待する」
そして2人はお互いに頷き合い、それぞれの役割を果たすために本陣を後にした。
魔物との戦いが繰り広げられている一帯は小高い丘が連なる丘陵地と広野の境にあって、ガルトルード領側である丘にはそれぞれ小さいながらも頑強で高い見張り塔を備えた砦が建てられている。
そのような砦の一つで塔の上に立つのは、銀之聖者ことバーソロミュー・グレイズヴェルト。
彼は普段着ているものより丈夫な布地を用い、要所には鉄の板や革の裏打ちを施した軍装法衣を纏って、静まり返った戦場と月と星々と雲が彩る夜空を一望にしていた。
魔物の中には飛び道具や魔導と呼ばれる瘴気を源とする邪悪な術を用いるものもある。
それらを防ぐために塔の屋上は凸凹のある高い壁に囲まれていて、今は壁際に月の光が作る影が弧を描いていた。
「天には雲が増しつつあり、東方へと流れている。
魔除け座は今や雲間でただ一つ形を成すばかりとなった」
「バーソロミュー様、フュリスの元にアニタ・ガルトルードとディアナ・ヴィルターハウゼンが着く頃合いにございます」
影の中から聞こえたのは、バーソロミューだけに聞こえるように絞り込まれた囁き声だ。
「雲が月の光を受けて虹を描いているな。これが意味するは何か」
「魔族四天王が1人、七彩のマルキーナが単身で東方へ向かったとの報を受けております」
「四天王が動いたか。
フュリスにも他の者にも苦難となるな。
だが、滞りなく進むであろう。
あと少しだ。
あと少しで、我らが悲願は果たされる」
バーソロミューは天を仰ぎ、雲が厚さを増して星々を月を隠していく様に両手を掲げた。
「我が友よ、汝が願い果たすまで、汝が敵どもを滅ぼすまで、私は決して止まらぬぞ」
影の中の気配は消えてただ1人、銀髪の英雄が夜の闇に残された。
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