第九話 旅の仲間

 たしたしたしっ

 にゃっ

 たしたしたしっ

 にゃっにゃっ

「もう少し寝かせて。あなたのせいで寝付けなかったんだから」

 黒猫によく似た不思議な生き物に頬を叩かれ続けて、フュリスは音を上げて目を開けた。

 昨夜は戦いの緊張と他にも危険があるかもしれないという不安のために目がさえてしまい寝付けず、そのためもう少し眠っていたかったが、完全に目は覚めてしまっている。

「はぁ」

 諦めの溜息。

 眠気とだるさが残る身体を起こし、消えかけた焚火に枝をくべる。

(火の番があるから、けっきょく熟睡はできないけれど……もう!)

 それだけに寝起きを邪魔されたのは不愉快ではあったが、火が消えていて冷や汗で飛び起きるよりは良いかもしれない。

 そう考えを切り替え、フュリスはお湯を沸かし始めた。

 にゃーん

 猫によく似た生き物が体を摺り寄せてくる。

「この子、猫じゃないけど何なの。ミアズマ種ではないし、そもそも瘴気を感じないから魔獣でもないわよね」

 ミアズマ種は通常の生物が瘴気に汚染されて魔物に変化したもの。そして魔獣というのは魔物と戦う軍などで厳密に区別する際に使われる、活発に動く生物が元となった魔物を示す名称だ。

 魔獣以外にも、会話が可能な知性があり多くは人型である魔族なども存在する。

 瘴気の汚染ではなく最初から魔物として生まれる種もあり、こちらの方が総じて危険性が高い。

 しかし、この猫もどきはどちらでもなかった。

「神学校の授業でも習っていないし……。こらっ、服に爪を立てないで」

 フュリスが追い払うと猫もどきはさっと避けて、首を傾げながらフュリスの様子を見ている。

 そして彼女が朝食のために小鍋を取り出してそちらに集中すると、またそろりと近付いて体を擦り付けてきた。

 にゃーんにゃーん

「はいはい、あなたの分も用意します」

 フュリスは鍋に干し肉をちぎり入れながら返事する。すっかり諦めた声だったが、しかしどこか楽しげな風にも聞こえる自分の声に、フュリスは黙り込んで見上げてくる小さな生き物と目を合わせた。

「あなた、目の色が左右で違うのが神秘的。それに額の宝石みたいなのも、きれいね」

 にゃーん

 気が付けば口元が緩んでいて、フュリスは虹色に光る宝石がついた小さな頭にそぉっと手を伸ばす。

 恐る恐る手のひらを触れても、猫もどきは逃げなかった。逆にぐるぐると喉を鳴らしながら頭をこすりつけてくる。

「ねぇ、あなたも一緒に来る? あなたの分までご飯を探さないとならないけど」

 フュリスが囁きかけると、手の下からにゃーんと鳴き声が返ってきた。


 旅路は相変わらず楽ではなかった。

 街道を進めば旅人と出会い、若い女の1人旅となれば確実に注目される。そこにあの噂だ。

 人の気配があれば道から離れ、時には道を外れた森を歩き、極力人目につかないように進む。

 その厳しさは変わらないはずだったが、フュリスの気分は軽かった。

「こら、背中から降りてよ。重いんだから」

 にゃーん

 背負い袋の上で器用にバランスを取っている相棒のおかげだ。

(あんなにも気が重かったのに)

 怒ったふりをしながらもフュリスは肩越しに左手を背中に伸ばし、ざらざらした舌の感触が返ってくると反撃とばかりに頭を撫でる。

 そんな些細なやり取りが、彼女の心から暗雲を取り払ってくれていた。

 そんな旅路の最中に

 かさり

 行く手の茂みから微かな音が聞こえて、フュリスは身を固くした。

(何かいる?)

 その途端に彼女の感覚は草木の中に広がり、気配の主を見つけ出す。

「なんだ、ウサギか。

 捕まえることができたら食べ物が楽になるんだけど、追いつけないから無理ね」

 茂みの奥に潜んだ生き物を見ながら呟くと、背負い袋に軽い衝撃。

 にゃっ

 短く鳴いた黒猫もどきが茂みへと一直線に走り、がさっと逃げ出したウサギに瞬く間に追いついた。額から伸びた白光が刃のように鋭く煌めく。

 ウサギは一撃で首を切り離され断末魔の叫びを上げる余裕さえなかった。

 にゃーん

 自分の身体よりも大きな獲物を引きずって戻ってきた黒猫もどきは、フュリスを自慢げに見上げた。

「あなたって本当に何者なの? でも、ありがとう。今夜はごちそうだわ」

 にゃーん

 ウサギの血に濡れた口元を布で拭ってやると、フュリスはその頭を撫でまわした。


 その日はウサギを解体することにしたので、予定の半分も進めなかった、

 しかも、黒猫もどきは褒められて嬉しかったのか、その後も獲物を何羽か捕まえてきた。

 フュリスはその解体に大忙しになってしまい、ついにはもうどこにも行くなと言い聞かせなければならなくなった。

「こんなにたくさん捌いていたら、水が足りなくなっちゃう」

 にゃっ

 運が良いことに近くにあった湧き水を黒猫もどきが見つけてくれたので、フュリスは一日そこで腰を据え、手に入れた肉を加工してしまうことにした。

 狩人だった父親にこういう仕事は習っている。幼い頃の思い出が半分だったが、神学校で学んだ生存術の知識と合わせてなんとかなった。

「よし、手早く火を起こして燻しちゃおう」

 拾い集めた木の枝で焚火の用意をしたフュリスは、火口を取り出したが、

 にゃっ

「火をつけるから、って、ええ!?」

 ひょこっと横から頭を出した黒猫もどきが額の宝石から赤い光を放つ。

 短剣のような形になった赤光の先端が焚き木に触れると、あっという間に火がついて赤々と燃えだした。

「そんなこともできるなんて。ありがとう、助かるわ」

 にゃーん

 自慢げに体を摺り寄せてくる小さな頭を撫でて褒めると、満足げな鳴き声が返ってきた。


 森の外れを足取り軽く歩くフュリス。少し離れて開けた場所には、街道沿いの村が見えた。

 ふと立ち止まって村を眺める。

「村には噂が広まっているかもしれないし、見つからないように通った方がいいよね。森にも人が入っているはずだから、跡を残さないように」

 にゃーん

 左肩の上に顔を出した相棒の返事を合図に再び歩き始め、フュリスは眉を寄せてその横顔を見た。

「そういえば、いつまでも『あなた』は変ね。

 あなた、名前があったりしないの?」

 にゃーん?

 こちらを見つめる左右異色の目は不思議そうに傾いて、それから小鳥が飛び立った気配の方を向いた。

「あるはずないわね。それなら、考えながら歩きましょう」

 そうして思いついた名前を黒猫もどきに尋ねては興味なさそうな態度に頭を悩ませ、生き物の気配に息を止め、村の近くに人影を見かけては身を隠して、そんなことを繰り返しながら森の中を進むこと半日。

「今日はこの辺で休みにしましょう」

 村からは離れて一息つき、途中の小川で組んだ水を沸かすために拾い集めた焚き木を組むことにした。

「あなたの名前は決まらなかったけれど、どんな名前なら気に入ってくれるのかな」

 焚き木に火をつけてくれた相棒の鼻をチョンと突つくと、みゃっと鳴いて頭を引っ込め離れていく。

「ご飯の用意をするから、おとなしくしていてね」

 そう伝えてから小鍋に水を注ぐ。

 それからお湯を沸かして干し肉を煮て柔らかくしていたら、黒猫もどきは小鳥を捕まえて自分の食い扶持を稼いでいた。

「良い腕してるわ。そうだ、あなたの名前、ルークはどうかな?

 私のお父さんを友達が呼ぶとき、こう呼んでいたの。狩人だったのよ」

 尋ねるフュリスにチラッと目をやった黒猫もどきは、しかし獲物の方に関心があるらしく、すぐにそちらに集中してしまった。

「ルーク、ルーク。ほらこの名前なら、いいでしょ?」

 繰り返し声をかけられた黒猫もどきは、食事を止めてフュリスを見上げる。

「ルーク?」

 にゃーん

 返事は、なんだか呆れているみたいに聞こえた。


 やがて、森の木々はまばらになって起伏の激しい荒地が続くようになった。そんな地形の中にある窪地には背の低い木々が茂っているのだが、その大きさは森と言うには小さすぎる。

「ガルトルード伯爵領に入ったみたい。アニタさんに聞いた通りの場所ね」

 伯爵領は王国にあって最南端であり、魔族の領域との境界にあたる。

 豊かな土地ではないため王国としてはこれ以上南下するにはデメリットが大きく、魔族からの守りとしては要所を固めやすく有利。

 そこで、武勇に名高いガルトルード家が領主としてこの地を治め、魔族の侵撃に対して矢面に立つ代わりに食糧などの物資や税金その他諸々の優遇を受けていると習った。

「だけど、これは街道を通らないと進めないわ。

 水場も無さそうだもの」

 そんな地形が、フュリスの障害となった。

 この地域の街道は窪地の水場を繋ぐように曲がりくねっていて、しかも守りの要となる関所の周囲は身を隠すものもない斜面で監視も容易い。

「でも、王国史で習った通りなら、迂回も難しいよね」

 それを避けるなら相当な回り道を要求されるのだが、ガルトルード領には小山の上に塔を備えた砦が多数あり、魔族が領地を超えて北へと侵入しようとしても発見できる体制が整っていた。

「こうなったら通れるか試してみるしかないわ。

 アザは、土で汚して誤魔化せるかな」

 唯一の結論に辿り着いたフュリスは、胃のあたりを手でつかみながら足を進めた。

 ガルトルード伯爵領は他の領地の者からすれば、魔族の脅威に晒された危険地帯だ。その上、今は魔族領からの攻勢にさらされて王国の軍は前線を下げつつあると聞いていた。

 王都を出てからの情勢は把握していないが、過去の歴史から考えれば三ヶ月足らずの短期間で状況が変わるとは思えない。

「アニタさんが伯爵領の外れにある開拓地は訳ありの人が行き着くことが多いって言っていたから、それっぽくしていれば1人でもおかしくないよね。

 ……ないわよね」

 にゃー

 フュリスの独り言に、そんなのはどうでもいいと言っているみたいな鳴き声が返ってくる。

 フュリスは肩越しに背負い袋をジト見して、ため息をついた。

「言い訳はきちんと考えておかないと。

 あと、関所に着いたらルークは顔を出さないでね。

 あなたの額、すごく目立つから」

 にゃ

 フュリスが背負い袋の中に話しかけると、言うことを聞くつもりがないときの返事が聞こえた。

「この子は……どうしてあげようかな。

 だけど、噂には猫のことは無いだろうし、もしかしたら、ここまでは噂も届いていないかもしれないし。

 普通に旅人で通じるかも」

 ルークの誤魔化し方を考えながら独り言を呟く。

 その予想は当然の如く甘かったのだが。


「通ってよし」

 関所の兵士に認められ、フュリスは安堵のため息をつきながら門をくぐった。

 しかし、門を通って少しして背後から聞こえた兵士の声に、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。

「あの女、噂の魔女にそっくりじゃないですか?

 あんなに顔が汚れているのも……」

「伯爵様のお触れを読まなかったのか。魔女がこの地を抜けたなどと言うことはありえん」

「でも隊長、こんな時期に開拓村の知り合いに会いに行くなんて、おかしいですよ」

「逆にこんな時期だからだろう。魔族の侵攻によっては、二度と会えなくなるんだ。

 貧しいが心配で会いに行くと言っていただろうが」

 噂はここまで届いていたのだ。

 フュリスの衣服が森を抜けるような長旅のためにボロボロだったことと、顔に塗った汚れが、生活に困って開拓地の知り合いを頼るのだという言い訳の説得力を増すとともに魔女の特徴として広まっていた頬の痣を誤魔化してくれたのだろう。

 そして、ガルトルード伯爵が魔女の噂を否定していてくれたことも幸運だった。

「人の良い兵士さんでよかった。

 でも、魔女が王都に侵入していたとなったら、ガルトルード拍車の立場に関わるもの。

 そう考えれば心配のし過ぎだったわ」

 フュリスが推測した事情は、常識的な判断としては妥当なものだ。

 ガルトルード伯爵の領地は魔族からの守りのためにあるのだから、魔族と同じく瘴気から力を得る存在である魔女が領地を抜けた可能性を認めるのは難しいだろう。

「慎重に進めば村を通っても大丈夫かもしれないわ。

 美味しいものも買えるかもしれないから、我慢してね」

 にゃん

 フュリスが背負い袋の底を軽く叩いて声をかけると、中から相棒が返事をする。

 大人しくしていてくれた相棒にほっとしながら足早に砦から離れたので、フュリスは隊長と呼ばれていた兵士が後姿を目で追っていたことには気づかなかった。

 彼女の姿が丘陵の陰に隠れると、一般兵とは異なる飾り付きの兜をかぶった隊長が、砦の中に戻って独り呟く。

「俺だって通すには怪しいとは思うさ。だが、命令だからな」

 勤勉な隊長は執務室で兜を脱ぎ丈夫な革の手袋を外すと、報告を送るために紙とペンを取り出した。


 その後の旅は気が張るものではあったが順調だった。

 魔族との戦場の間近と言うこともあって人々は緊張しており物々しい雰囲気に包まれていたが、彼らの警戒心は魔族の領地へと向いていて、王都の方からやってきたフュリスに疑いの目が向くことは少なかった。

 だから、女の一人旅ではあっても困った末の開拓地行きとなれば事情を聴いてくる者も少なく、フュリスが恐れていたような出来事もまったく無いまま進むことができたのだ。

 やがて、街道は地形がなだらかになって所々を森に覆われた緩やかな丘陵地へと辿り着き、南と東の分かれ道となった。

「思ったよりも順調だったわ。悩んで損をした気分。

 でも、ここから南へ行けば領都を抜けて前線。そして、こっちの細い道が開拓地。

 あと少しね」

 フュリスは東へ向かう道の彼方を眺めた。

 東から南にかけて高い山々が鋭くそそり立っている。あの山々が障壁となっており魔物が攻め入り難いことから、ふもとの森林を切り開く開拓事業が行われている。

「ガルトルード伯爵が開拓を始めたけど、すぐに魔物の攻勢が始まってしまって、今は事情があって開拓に参加するしかなかった人たちの村があるだけなのよ。

 そこなら、私たちも受け入れてもらえるかも」

 にゃーん

 独り言じみた話に気のない返事。

「ルークは気楽ね。羨ましいわ」

 肩の力が抜けた気がして小さく笑い、フュリスは東へと足を進めた。

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