第三話 聖者との出会い
「おなかすいたな」
何度目かの独り言を呟いてから、フュリスは固い寝台の上で寝返りした。
反省房は1人用の小部屋で、最低限の生活をするための家具の他は外から鍵がかけられる覗き穴がついた扉と小窓しかない。
話も聞かずに彼女をここに閉じ込めた教師は一度も顔を出さず、扉の覗き穴から差し込む光はか細くゆらめく蝋燭の灯りに変わった。
空腹と渇きに耐えるため寝台の上で身体を丸まらせていたフュリスが、うつ伏せになって膝を抱えて小さくなる。日々の女生徒たちからの仕打ちと教師たちからの失望の目、そして同室のアニタの裏切りともいえる出来事で、彼女には一切が耐え難く感じられた。
「なんで、こんな目に……」
嗚咽が漏れ、寝台を涙が濡らした。
「聖者様、私は聖女になれるよう努めてきました。
だけど、あの日にお声をかけていただいたご恩に報いるどころか、こんなことになってしまうなんて」
フュリスの脳裏に、銀之聖者と呼ばれる男の姿が思い出される。
『フュリス、君には聖女たる資格がある。
村人を救い魔物を退けたその力を、この国のために使ってほしい』
麗しい銀の長髪をなびかせ伶俐さを感じさせながらも穏やかな銀の瞳。その神秘的な眼差しに見つめられ、手を両手で包まれた暖かさと彼の言葉は鮮明で、彼女を2年の間支えてきた。
しかし、今はそれすらも彼女を縛り付ける鎖に思えていた。
(どうしてこんなことに)
そう感じる自分さえ呪わしく、フュリスは彼との出会いに想いを巡らせる。
ハンプニー村はフュリスの生まれ故郷であり、王都から南の辺境へ向かう街道筋から少し離れた村だ。
辺境の開拓地のように魔物や魔族に脅かされることはほとんどない、貧しくも豊かでもない、ごくありふれた村の一つ。
しかし彼女には、村での生活に良い記憶は少なかった。
(この痣が無ければ)
幼い頃からある、左の顎の下から首と心臓の真上にかけて並んだ3つの痣。刺々しい柊の葉を思わせる形の痣にフュリスは軽く爪を立てた。
「お前の痣は魔女の印のようで不気味だな。きっといつかよくないことを呼び寄せるぞ」
魔女の伝承を引き合いに出して彼女を笑いものにした村人の声が思い出される。
この痣のために村人からも気味悪がられ、子どもたちのからかいと嘲りの的にされ続けた。
両親から心の底から受け入れられた覚えもほとんどない。
それでも自分の娘だと言って彼女を手厚く育ててくれた両親は、よくある冬の流行病で2人とも、呆気なく神様のところへ行ってしまった。
「まともな飯も食えてなかったんだろう? あの娘のせいで」
葬儀を終えた彼女に向けられたのは、こんな言葉だ。
12歳になったばかりのフュリスを引き取った伯父夫婦も彼女を納屋に押し込め小間使い代わりにこき使うばかりで、身内として扱われることはなかった。
あの日も、伯父は父と母の命日だというのに、両親の墓を手入れする時間さえ与えなかった。
だからフュリスは、夜も更けてから胸騒ぎを感じて、それが両親が呼ぶ声のように思えて、こっそりと納屋を抜け出して村から少し離れた墓場に向かったのだ。
(あの日に魔物が襲ってくると知っていたら、寄り道なんてしなかったのに)
後悔に絡め取られて、彼女は思い出に沈み込む。
月明かりが照らす墓地の情景。
父母に一輪ずつ花を添え祈りを捧げ、フュリスはざわつく気持ちを抱えて帰路に着く。
黙って抜け出した罪悪感? 夜の独り歩きの恐ろしさ? それとも一人気ままに歩く頬を撫でる夜風の心地よさ?
そんな気持ちに彼女の足は村から離れ、小高い丘へと向いた。
(それでも、あの景色だけはきっと、一生忘れない)
今でも明瞭に思い出せる夜景に、フュリスは、少しだけ気持ちが軽くなった。
その後に起きた出来事を差し引いても、丘から見下ろした村と林の木々と小さな池と川と遠くのなだらかな丘陵と、星々が瞬き月が満ちた夜空は、積み重なった辛さを忘れさせてくれるほどに美しかったのだ。
数分間雄大な自然に心奪われていたフュリスだったが、やがて、林の中から激しく揺れる光が転がり出してきて、距離があるのに聞き覚えのある男の叫びが聞こえた。
「助けてくれ! 魔物だ!」
それは伯父の声だった。
絶叫がかろうじて聞き取れるほど離れていたが、フュリスがそちらに注意を向けると不思議なほど鮮明に伯父の姿が見える。
そして足をもつれさせて転んだ彼にのしかかろうとする、黒い毛に覆われた四つ足の獣の姿も。
「来るな! やめろ助けてくれ!」
手に持つ松明を振り回す伯父に後脚で立ち上がった獣は、真っ暗な眼窩の底から怯える獲物を覗き込み黒い爪を備えた前足を振り下ろす。
「ぎゃあ!」
伯父の叫びよりも早く、フュリスは走り出していた。
丘を駆け下り一度躓いて顔から草原に突っ込んで転がったが痛みを気にせず走り続け、へたりこみ縋るようにして松明を突き出し震える伯父から十数歩のところで声を上げた。
「伯父さん、逃げて!」
「フュリスか。足を痛めたんだ。助けてくれ!」
そのやりとりが大きな隙となり、魔物は伯父に肉薄して鋭い爪がある前足を横薙ぎに振るう。
「がはっ!」
「ド、ドニー!」
村の方から聞こえたのは見張りの声だ。だが、その声はまだ遠くて魔物は唾液を滴らせた口を大きく開き、伯父に襲いかかる。
伯父は胸から腹にかけて服が切り裂かれ月明かりの中で真っ黒に染まり、ぐったりと動かない。
無惨な光景を突きつけられ、フュリスの脳裏にいくつもの思い出が閃いた。
伯父は彼女を嫌悪していて決して優しくしてくれるような人ではなかったけれど、彼の容姿には亡き父の面影があって、父と一緒に仲良く笑い合っている情景があった。
その思い出を壊す獣の牙と爪のまがまがしさがフュリスの心を打ち据える。
「やめてー!」
想像された悲劇に目を閉じたフュリスは叫んだ。
ギャイン!
悲鳴を上げたのは獣だ。
目を開ければ、幾つもの濃い緑の光が魔物の周りに纏わりつき、まるで風に巻かれた木の葉のようにくるくると舞っている。
緑の光が魔物に触れるたびに、鉄の剣でも切れないはずの剛毛ごと皮膚が切り裂かれ、ドス黒い血が吹き出して光の舞に混じり込む。
キャウンキャウン
猛り狂っていた獣の吠え声は光の群れから逃れようとする惨めな獲物の悲鳴となり、体のいたるところから血を撒き散らしながら走り去っていった。
「な、なんだ今のは? ああ! ドニー、しっかりしろ!」
呆然としていたフュリスは伯父に駆け寄る見張りの声で我に返った。
「酷い傷だ……これじゃどうしようもない……」
その見張りは伯父とは仲が良い飲み仲間で、彼の悲痛な声はフュリスに現実を突きつけてきた。
「わ、私がお墓に行ったから、伯父さんが……」
傍に膝をつき狼狽えるフュリスの目の前で、伯父の顔はどんどん青ざめていき土気色へと変じていく。
「いやだ! 嫌だ嫌だ! お父さんみたいにいなくなっちゃ嫌だ!」
父と母が病に倒れるときにも同じものを見せつけられたのだ。フュリスは喉が裂けんとばかりに絶叫し、伯父の体に縋り付く。
「誰か! 伯父さんを助けて!」
肩を振るわせる彼女の後ろで草を踏む音。
「な……なんだこの光は」
見張りの男が驚き後退りながら声を絞り出した。
フュリスに彼の声は届いていなかった。しかし固く閉じた瞼を通して濃緑の明るさが揺れるのを感じ取り、周りを包む暖かさに冷静さを取り戻すと、目を開き、恐る恐る顔を上げた。
「かひゅう……」
伯父の苦しげな吐息が聞こえた。
先ほどは魔物を取り巻いて切り刻んでいた光の群れは、今は目の前で伯父の体に群がっている。
「これは……なに?」
唖然として呟いている間にも舞い踊る光は伯父の腹に開いた傷の周りを切り付け、しかしその傷から闇色の霧のようなものが立ち昇り月の光に散らされた。
「傷が治っていく。瘴気まみれの傷が」
見張りが驚愕を声にした。
魔物に付けられた傷は治り難い。人間たちを付け狙う凶暴な敵は瘴気を身に帯びていて、それは自然を汚し人の身を害し傷を悪化させる。
しかも伯父の傷は胸の中の骨が割れ腹が裂かれて臓物が見える大怪我だ。そんな傷なら瘴気が無くても死んでしまう。
いや、フュリスが駆け寄った時には既に、伯父の息は止まっていたのだ。
だがフュリスが伯父の腹に目を向けると露出していた内臓を光が覆っていて、今は光が呼吸と共に上下している。
そして濃緑の輝きが小さくなると共に温かみのある肌が現れ、服に着いた血も舞い踊る光が触れると跡形もなく消えてしまった。
「うう……フュリスか。てめえ、夜中にどこに行ってやがった! あいつの墓だったら承知しねえぞ!」
開口一番、目を覚ました伯父が怒鳴りつけてきた。
(あの時に、私の人生は変わっちゃった)
反省房の小さな窓から夜空を見上げると、あの日と同じように白く輝く月が見えた。
「聖者様……私が聖女になるよう、背中を押してくださったのに」
月の白さの如き銀の長髪を持つ男の姿が思い出され、フュリスは申し訳なさに顔を伏せる。
「あの魔物がいなければお会いすることも、こんな目に遭うこともなかったのに」
膝を濡らして背を丸め、フュリスはあの出来事の続きを思い出すまいと髪を掻きむしる。
だが湧き上がる後悔は濁流の如く激しく、彼女の心は再び過去に沈み込んだ。
あの出来事の翌日。
「フュリス、銀之聖者様がお前をお呼びだ」
苛立たしさを隠そうともせずに納屋の戸を開けた伯父が、辛辣な声で彼女に告げた。
「銀之聖者様?」
呆気に取られたフュリスに伯父はいつものように拳を固めたが、昨夜の出来事と友人に聞いた話を思い出したのだろう。握った右手を腰の後ろに隠した。
「そうだ。先ほど村に到着なさった。
街道筋から離れた村だというのに十人ほどのお供だけで、魔物の気配を追ってきてくださった」
苦々しげな伯父の声に怯えの響きを感じ取り、フュリスは昨夜の出来事が夢ではなかったと顔を伏せた。
「辛気臭い真似をしていないで早く身支度をしろ。お前を聖者様がお呼びなんだ」
伯父の言葉に先ほどの疑問が明確になり、フュリスは顔を上げて問いかける。
「どうして銀之聖者様が私を? だって、この国で一番の聖者様なのに」
「知るか。夕べの話をしたら呼んでこいと仰ったんだ。
くそっ。そもそもお前があいつの墓に行かなけりゃ、あんな目には遭わなかったのによ」
伯父に睨まれ、再び彼女は顔を伏せた。
「おい、黙ってねえで早く行け!
広場でお待ちなんだ!」
「は、はい」
痺れを切らせた伯父に怒鳴られて、フュリスはすぐに納屋を飛び出した。
村の広場にはほとんどの村人が集まり、そして彼らが遠巻きに眺めている広場の一角にはフュリスが幼い頃に聞かされた御伽噺の情景があった。
荘厳な白い生地に金の刺繍を施したマント。同じく金で装飾された白銀の鎧と盾。
一目で話に聞いた聖騎士だとわかる人々の中央に立つのは、彼らより頭一つ高い背丈の男性だ。
真っ白な長衣には金と銀の糸で聖なる紋様が刺繍されていて、端正な顔には穏やかな微笑み。
額を飾る宝石細工は腰まである長い銀の髪の合間から色彩を覗かせ、静かだが確固たる意志を感じさせる銀の眼差しを引き立てている。
フュリスを見つけて切れ長の目を細めた男に問いかけられた村人が、跪いたまま答える。
「はい、銀之聖者様。おっしゃる通りで。あの娘が、フュリスです」
村人らと聖騎士たちの視線が一斉にフュリスに集まって、異様な雰囲気に気押された彼女は立ち止まる。
長衣の男性が歩み寄り、立ちすくむフュリスの前にやってきた。
目の前に立たれると、小柄なフュリスには見上げるような長身だ。堂々とした立ち姿と広い肩に上等な布を使った白い長衣、そして長く真っ直ぐな銀の髪のため、彼の頭上から光が降り注いでいるように見えた。
「なんと」
「聖者様が?」
その彼が片膝になりフュリスと目線を合わせたのだから、村人たちがどよめいたのは当然と言えよう。
「君がフュリスか」
「はい」
穏やかで低く、それでいて涼やかに晴れ上がった秋空を思わせる声で問いかけられ、フュリスは目を逸らすこともできずに返事をした。
「私の名はバーソロミュー・グレイズヴェルト。
人は私を銀之聖者と呼ぶ」
「はい。銀之聖者様の御高名は存じております」
「そうか。
フュリス、気持ちを楽にして聞きなさい」
フュリスが息を止め、落ち着いて一呼吸するまで彼は口を閉じ、それから言葉を続けた。
「君は私と共に王都に行き、聖女となるのだ」
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