迢怜剱髢??縺昴?蠕

 ――とある山奥。

 そこには見るも無惨な光景が広がっていた。


 地面は円状に大きく抉れ、辺りの木々は薙ぎ倒されている。割れた石畳の欠片や折れた灯篭、上半分のない鳥居などがあるところを見ると、かつてそこは神社だったのかもしれない。


 まるでつい先程までそこで熾烈な戦いが繰り広げられていたかのような――そんな神社跡地に、奇妙な呻き声が響いている。


 憎悪と怨嗟の滲むその声が唸るようにして紡ぐのは、ただひたすらな殺意だった。


「……う、ぅぅぅっ……殺す……殺してやるッ……! 絶対に殺してやるんだからッ……!」


 ぼろぼろに傷んだ長い金髪、片方が千切れた狗耳、血涙を流す充血した浅葱色の瞳。

 雷獣の少女、狗噛閃は血塗れで地に伏していた。


 あれから数時間は経っただろうか。閃は生きていた。あの圧倒的な破壊力の拳を食らった瞬間から治癒再生だけに集中し、何とか一命を取り留めたのだ。


 妖は妖力が尽きない限り治癒再生が可能である。相手を殺すなら首を斬るなどして脳を停止させるか、回復が追いつかなくなるか妖力が尽きるかまで徹底的に痛め付ける他ない。

 あのかがりとかいう妖ならざる妖は少々詰めが甘かったのだ。


 とは言え、重傷なのに変わりはなかった。強い衝撃のためか視界は赤くぼやけており、顔やら何やらの骨も結構な本数折れている。内臓も傷付いているのか、口を開くと声と共にだばだばと鮮血が零れた。

 痛みと衝撃で意識を飛ばしていれば回復は間に合わなかっただろう。閃の凄まじいまでの生への執着、言うなればかがりに向ける底なしの殺意が成せる技だった。


 あの悍ましい赤い瞳を思い出すだけで屈辱感に腸が煮え繰り返るようだった。激痛に喉奥からせり上がってくる悲鳴もかがりへの罵詈雑言に変えて吐き出すことで耐える。


 このままでは閃は無様にも敗北を喫した弱者になってしまう。自分が今までさんざん見下してきた弱者に。

 そんなの許せるはずがなかった。

 この雪辱を果たすまで。かがりの息の根を止めるまでは、自分は死ぬ訳にはいかないのだ。


 そのためにも、今は回復が重要だ。

 精々仮初の勝利に浮かれていればいい。今にその喉笛を噛み切ってやる――


 そんなことを考えていた時だった。


「――随分と手酷くやられたな」

 背後からざ、と土を踏む音と、ちりん、と鈴が鳴る音。低い声が耳朶を打つ。


「! あな、た、は……」

 少しずつ明瞭になってきていた視界が、背の高い人影を捉えた。


 着物をゆったりと着崩し、鈴やら札やらが大量に付いた笠を被った男がそこに立っていた。


「よぉ。一月ぶりだな。具合はどうだ?――まあ、見るからに悪そうだが」


 見覚えがあった。いや、見覚えがあるどころではない。

 この男こそが閃に妖をモノノケ化する薬品を渡した張本人にして――あのひとの抱える組織の内の一人だと名乗る妖なのだから。


「しかし、よくあれを食らって生きていたな。てっきりこれはもう御陀仏かと思ったんだが」

 男は相変わらずどこか気怠げに、淡々とした口調で話す。

 その口振りから察するに、事の顛末は全て見られていたのだろう。閃がかがりの圧倒的な力に成す術なく負けたところも、全て。


 閃はやり場のない悔しさに地面に爪をぎりぎりと強く立て、欠けてしまいそうな程歯を食いしばった。

「……次はっ。次こそは絶対にあのひとのお役に立ってみせるから」


「――いや。十分だ」

「……え?」

 頭上から降ってきたのは、閃にとって思いもよらない一言だった。閃は思わず顔を上げる。


「お前のお陰で試作品――〈はち〉の効果も分かった上に、月鬼隊にもまあまあな損害を与えられた。十分役に立っているだろう」

 男の表情は例の如く大きな笠に隠され全く窺えなかったが、聞く限りではどうやら純粋に褒めているようだ。


 唐突な賛辞に閃は一瞬ぽかんとしていたが、ややあって停止していた思考が回り出した。

「え、それじゃ――」 


 ――ようやく、ようやくあのひとに認めてもらえるというのか。


 そう理解した瞬間、この上ない喜びに全身が打ち震えた。


「っ…………!!」

 余りの感激に言葉が出なかった。頰が上気し、両の眼が電気石のように煌めく。つい数瞬前まで胸の内で煮えたぎっていたどす黒い感情が嘘のように悦びに塗り替えられていった。


 ――長かった。あのひとと出会ってからの半年間、本当に本当に長かった。

 閃はついに宿願を果たしたのだ。


「……っふふ、」

 堰を切ったように弛んだ口元から笑い声が零れた。

「っふふふふふ……! これで……! これで私は、やっと――、」


 そこで閃は不意に口を噤んだ。

「……?」

 まるで今までに感じたことのない大きな力が自分の中を渦巻いているような――そんな奇妙な感覚に気が付いたのだ。

 

 ――モノノケに堕ちる程の苦悶を強靭な意志を以てして乗り越えた妖は、己が宿した妖怪の力が引き出され、周囲とは一線を画す力を手に入れることができる――……いつだったか耳にしたそんな噂話が脳裏に蘇る。


 閃の場合は生き延びてかがりを殺すという強い意志があったから踏み留まることができたのだろう。

 なるほど、これは確かに圧倒的なまでの力だ。今の自分ならよりいっそうあのひとのお役に立てるだろう。――あの神とも化け物ともつかない赤目の少女を下すことも。

 再び唇の端が吊り上がっていく。


「どうかしたか?」

「くふっ……何でもないわ。ふふふふっ」

 どうやってあの憎きかがりを殺してやろう。

 あの従者の猫又を殺してその首をかがりに見せつけ、絶望させた後に殺そうか。それとも――あの赤い瞳が苦痛と絶望に染まる様を想像するだけで、押し殺した笑いが溢れて止まらなかった。


「そうか。そいつは楽しそうで何よりだ」

 男は自分で訊いておきながらさして興味なさげにちりりと笠についた鈴を揺らし、「ところで」と切り出す。


「――ひとの身体は中々愉快なつくりをしていてな。興奮状態に陥ると痛覚が一時的に麻痺するようになっている。実に都合が良いだろう」


「……は?」

 急に何の話をしているのだろう。全く理解が追いつかない。ただ、何か猛烈に嫌な予感がした。


 視線が吸い寄せられるように自身に向く。


 ――左脚に、細い硝子容器が刺さっていた。


 自分が今まで数え切れない程の妖に突き刺してきた、あの液体の容器が。


「――、――――」

 男が何か喋っていたような気がしたが、そんなものは閃の耳に全く届いていなかった。


 閃は即座に力づくでそれを引き抜く。引き抜いた空の硝子容器が針についた血液を飛び散らせて地面に虚しく転がる。


 そういえば刺した瞬間に中身が自動で注入されるようになっていたな、なんてどうでもいいことが思い出される。


 つまり何が言いたいかと言えば、もう手遅れだった。


「あ、ああ、あ」

 これを刺された妖の末路は知っていた。

 今まで何度も何度も何度も何度も、目の前で見てきたのだから。


 込み上げる嘔気に口を抑えた指の隙間から、どばっとあの液体と同じ色をした夥しい量の『闇』が溢れる。

 やがてそれは閃を取り囲むようにして数匹の不気味な獣の形を成した。


 狼と同程度の大きさの体躯。前脚が二本で後ろ脚は四本。雷を思わせる荒い毛並みにぴんと立った三角の耳、二十糎にじっセンチ程の短い尾。


 落雷と共に現れ、雷雲に乗り去っていく『妖怪』――閃が宿す御霊、雷獣だった。


 闇で形作られた雷獣達からは唸り声はおろか、ほんの僅かな息遣いすらも感じられない。

 ただ静かに閃を見据えるその目に、閃はあの赤い目に感じたものとは系統の違う恐怖を覚えた。

 どこまでも空虚に、『死』だけを映しているような目――思わず背筋が震えた。

「嘘っ……いやっ、嫌嫌嫌嫌っ……!! そんなっ、私はっ……!!」 


 男はゆらりと踵を返し、歩き出しながら独りごちるように口を開く。


「――あのひとは組織に入りたいと言う輩は誰彼構わず喜んで入れるからな。悪戯に組織の人数を増やすと後々面倒なことになる。悪いがお前さんにはこうして組織に貢献してもらうことにした」


「ッッッッ!! お前ッ、よくも、よくもッ――!!」

 あまりの怒りにまともな文章を組み立てることなどできなかった。


 狂ったように稚拙な罵詈雑言を喚き散らし金切り声を上げ続ける閃に、雷獣達は音もなく襲いかかり――喰らいついた。


 凄絶な絶叫が夜の静寂しじまを劈く。


 実体のない雷獣達に噛み付かれようが食い千切られようが傷はできない。

 しかし、喰われる度に『狗噛閃』は異形の化け物へと変貌していく。――精神的にも、物理的にも。


 骨が歪んだ。五臓が潰れた。六腑がひしゃげた。脚が生えた。眼が開いた。



 胴が千切れる程のたうち回っても喉が張り裂けるまで叫んでも雷獣達は閃を喰らい尽くすまで止まらない。その叫び声すら化け物の咆哮と化していく。


「――俺とて悪気はないんだがな。こればっかりは仕方がない。恨んでくれていいぞ」

 最早閃ではなくなりつつある閃を振り返ることなく、男の後ろ姿は鬱蒼とした木々の間の暗がりに融けた。



 活気づく紅宵郷こうしょうきょうの街中を、一人の男が歩いていた。


 大量の呪符が貼られ、幾つもの鈴が付けられた大きな笠を被ったあの男である。

 中々に奇抜な装いに思えるが、個性豊かな妖達が行き来する紅宵郷こうしょうきょうの往来では地味な方だと言えるだろう。そう認識されるための笠だ。


 角を曲がって表通りから逸れ、男は入り組んだ路地を慣れた足取りで歩いていく。

 右に曲がり、階段を下り、左に曲がり、階段を上り、また右に曲がり……やがて男は一軒の小さな店の前で足を止めた。


 赤地に白で『薬』の一文字が書かれた、看板代わりの布を垂らした店。立て付けの悪い戸を開けると小さな青銅の鐘がからんからんと音を立てた。


 男は店内を歩きながら頭の笠に手をかけ、何の躊躇いもなくそれを外す。

 同時に何某かの術が解かれる気配がした。

 無数の鈴が震え、同時に空気が震え――その下に隠れていた素顔が露わになった。


 ざっと二十六、七程度に見える男だった。

 少し癖のある黒髪から突き出す角は笠に収まるはずがないと言い切れる程長く、鬼系の種族のそれとは違い複雑怪奇に枝分かれしている。

 薄く色の入った眼鏡の硝子の向こうから覗く紺碧の虹彩には、何重にもなった金色の円が浮かんでいる。


 こんな異様な角と眼を晒していれば、ただ道を歩くだけで尋常ではない程人目を引くだろう。

 それも仕方がないことだ。何しろ男は彼岸に一つしか存在しない妖怪の霊魂を宿した妖――神殺かみそぎの一種なのだから。


 この容貌を隠すため、男は基本的にこの認識阻害の術をかけた札や鈴付きの笠を被り、その姿形を隠している。

 ……まあ、こんな変装じみた真似をしているのは、単に衆目に晒されるのが面倒なためだけではなく、日常的に素性が割れたらまずいような行為を行っているからでもあるのだが。


 男は勘定台の奥の座敷に百味箪笥を背にして座すと、長年愛用している黒檀の煙管に刻み煙草を入れて火をつける。

 仄青い煙を燻らせていると、自然と先の神社での事が思い出された。あの雷獣の娘のことではなく――それを下した妖のことが。


 奇しくも以前この店に客として訪れた、妖力を持たない赤目の娘。


 あの時点でもしやとは思っていたが、今度の騒動で確信した――あの娘は山本五郎左衛門さんもとごろうざえもんの妖だと。


 漆黒の木槌に彼岸花の紋様。この世ならざる赤い双眸と心臓を直に握られるような威圧感。

 あれが山本さんもとの妖でないなら何だと言うのだろう。


 全ての妖を統べる百鬼夜行の統領。

 天狗の類でも妖獣の類でも鬼の類でもないが、同時にそのどれでもある最強の妖。

 森羅万象を知ると謳われる妖である男を以てしても不明な点が多い、謎に包まれた存在。


 まさか生きている内にお目にかかれるとは思ってもいなかった。

 何せ山本の妖が史上に現れたのは百年前、それもたったの一度きりだ――代わりにその一度でこの世界・彼岸に消えない爪痕を残し、全ての妖を恐怖に陥れはしたが。


 とは言え、本来の山本とあの娘はかけ離れていると言っていいだろう。

 霊魂に干渉してそれを無効化の性質を持つ妖力に変換するなんて妖術を山本の妖は持たないからだ。

 それどころかそもそもあの異能を妖術と呼べるかすら怪しいと言えるだろう。

 あの娘自体の妖力は依然として皆無のままだからだ。どうやら別の妖の妖力の欠片を宿しているようだが、男にはその所以など知る由もない。


 妖力がないことといい、あの異能といい、あの娘は色々と不可解だ。


 ただ今断言できるのは――あの娘が男にとって、ひいては男の属する組織にとっての大きな厄災であるということ。それだけだった。


 あんなモノが月鬼隊に属してしまうとは相当星の巡りが悪い。早々に手を打つ必要があるなと男は思った。


 ――再び山本の妖と相見えると知ったら、あのひとはどれだけ喜ぶだろうか。


 そんなことを考えていたその時、ふと、店の扉の向こうに人影が立つのが分かった。


 男は煙と同時に静かにため息をつき、とんとんと煙管を軽く叩いて灰を落とす。

 笠を被り直すと、また男の顔はちらりとも窺えなくなった。


 戸がうるさく軋み、鐘が客の来店を告げる。


 薬屋兼、咎人とかびと集団・〈うわばみ〉の一人である男は、いつものようにこう言うのだった。


「――いらっしゃい。どんな薬がご要り用で」









 ――とある山奥。

 つい先程まで狗噛閃という妖が居た場所には今、一体のモノノケが佇んでいた。


 狼とひとが融合したような悍ましい風貌をしたそのモノノケに、自我はない。記憶はない。ただどうしようもなく肥大した憎しみだけが、モノノケが抱く全てだった。


 やがてモノノケはその憎悪をぶつけるための何かを探しに、闇の中へと駆けていった。


 ――ぽたり。

 モノノケの目に残っていた透明な雫が一粒、花緑青に淡く煌めきながら地面に零れ落ちて、消えた。

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