始まり

 目を開くと、まず視界にちょっと見慣れてきた家の天井が飛び込んで来た。


 あれ、私、神社で戦ってて……そうだ、杏樹は――と視線をちょっと横にずらした枕辺に、いつも通り艶やかな黒髪を高い位置で二つ結びにした杏樹が座っていた。


 杏樹が目覚めた私に気づく。

「――あ、かがりさ」

 がばっと勢い良く起き上がった私の額と杏樹の額がゴン!と音を立ててぶつかった。


 額を抑えて静かに痛みに悶えている杏樹の手首を問答無用で引っ掴む。触れる指に微かだけど確かな振動と温かい体温が伝わってきた。


「い、生きてる……」

「いやどう見ても生きてるでしょ」

「良かった……死んじゃったかと思った……」

 安心感にじわりと視界が滲む。


「……お陰さまで」

 杏樹はふっと柔らかく微笑んだ。


 杏樹によると私は半日程の間死んだように寝ていたらしい。基本睡眠をとらなくても生きていける妖としてはちょっと異常なくらいの長さだ。


 私は使用人さんが切ってくれた林檎をしゃくしゃくと齧りながら首を傾げる。

「んー、なんか自分でも何が起こったのかよく分かんないんだよね。私今まで妖力とかなかったはずなのにさ」


「僕も分からないっていうより、まだちょっと信じられないかな。霊魂に干渉できる上にそれを妖力に変換できて、その妖力が妖術を無効化するとか妖にできる所業じゃないよね」

 杏樹は林檎を一欠片摘みながらその口元に微妙な笑みを浮かべる。


「え、杏樹気絶してたんじゃないの?」

「ああ、そこまでは見てたよ。かがり様の鉄拳で地面が抉れた衝撃で吹き飛ばされて頭を打ったんだよね。そこから記憶がない」

「私のせいじゃん!?」

「いや、僕が未熟なだけだよ。主人に守られる側近とか情けな……、」

 その時、杏樹の腰の巻物からりんと鈴のような音が鳴った。何やら本部から伝達が来たらしい。


 内容に目を通した杏樹が顔を上げる。


「――酔様が体調が回復し次第、城へ来るようにって。昨日の件、かがり様のこととかも色々報告しておいたから、その話じゃないかな」



「おお、急に呼び出してしまってすまんな!具合はどうじゃ?まあ座れ座れ」

 盈月城の最上階、酔様は相変わらずの満面の笑みで私達を迎えた。


 外廊下に面した障子は全開で、蒼い月光が明かりのついていない暗い部屋を染めていた。

 酔様の片手には透明なお酒で満たされた盃。

 季節外れの月見酒って言うとすごくお洒落なんだけど、五歳にしか見えない酔様がお酒を呑んでるのは傍から見るとかなりやばい絵面である。


「お主らも分かっておるとは思うが、今日儂がお主らを呼んだのは先日の任務についてと――かがり。お主について話がしたかったからじゃ」

 薄青い瞳が私を映す。


「お主の力と、正体についてな」

 どくんと心臓が大きく跳ねた。


「え、正体って」

「わはは!そう急かずとも話してやる。先ずは任務の件じゃな。――杏樹。報告に妖をモノノケにする薬品、とあったが、それは確かか」

「実際に使用しているところは見ませんでしたが、確かかと」


 杏樹が答えると、酔様の顔から一切の表情が抜け落ちた。凪いだ水面のような澄んだ水縹色の瞳が冷たく陰る。


「……吐き気がする程悪趣味じゃな。そしてそれを持っていた輩は『組織』に利用されていただけだった、と。――この組織とやらは十中八九〈うわばみ〉じゃろうな。こんな外道で常軌を逸したことができるのはあの組織くらいじゃ」


 うわばみ。その四文字は、何故か心がざわりと波立つような不穏な響きを伴っていた。


「あんな奴らを跳梁跋扈させてしまっているとは我ながら情けない。民に申し訳が立たんわ。――まぁ、あの組織については丁度次の集会が近いからな。二週間後だったか」

「左様です」

 郡さんが静かに応える。


「ならその時に対策を練ることになるじゃろう――では、」

 集会って何だろうなぁと思っていると、不意に酔様の瞳が私を捉えた。

 酔様はその顔に堂々とした笑みを浮かべて口を開く。


「お主らが待ち侘びていた本題に入ろうか」

「!」

 思わずぴんと背筋が伸びた。


 今まで知ろうとしても何も分からなくて、一生分からないままなんだと思っていた、私自身について。

 今それが分かるんだと思うと、なんだかちょっと緊張するって言うか何て言うか。


「報告によれば、死者の霊魂へ干渉しそれを妖力に変換できる……とのことじゃったが。今その妖力を出すことはできるか?」

「うーん、多分?」

「やってみろ」


 昨日はなんか無我夢中だったっていうか何となく使い方が分かってたんだけど、今もう一回できるかな。まあやってみればいっか。


 私は手を前に出し、なんとなーく気?力?みたいなものを送ってみる。すると昨日と同じように彼岸花の紋様が入った真っ黒な木槌が現れた。よし、いけそうだ。

 それを軽く横に振るうと、青とも紫ともつかない淡く煌めく透明な妖力がぶわあああっと部屋いっぱいに広がった。


「――!!」

 酔様が目を見開いて唇の端を吊り上げた。

「――面白い。質量も性質も尋常ではないな。百人分の霊魂でできているというのは本当のようじゃ。それに、」

 酔様は自身の小さな手に目をやる。

「この妖力の中にいると妖力の流れが途絶える……なるほど、これが『無効化』か。くくっ、益々面白い。よし、もう止めて良いぞ」


 私は出した時と同じようにして木槌から溢れる妖力を消した。


「お主が妖力に目覚めた訳でなく、周辺の霊魂を小槌に集めて妖力に変換、溜めておいて好きな時に放出できる……といったところじゃな」

 酔様は「これで確信が持てた」とくつくつと喉を鳴らした。


「さて。――こんな妖怪を知っておるか?」

 酔様は片手に持った盃を揺らして語り出す。


「その妖怪はまるで人間のような出で立ちをしており、天狗の類でも妖獣の類でも鬼の類でもないが、同時に天狗でも妖獣でも鬼でもある」


 人間のような出で立ち――私は思わず自分の身体を見下ろす。相変わらず翼や獣の耳や尻尾、角といった妖らしい特徴は何も見当たらない。


「認めた人間には危機に瀕した際に打ち鳴らせば自分が現れて力を貸すという木槌を与えて去っていく」


 木槌――私は思わず右手に握る黒い木槌に視線を移す。咲き乱れる真紅の彼岸花があしらわれ、同じ色の紐に飾られた漆黒の木槌。


「百鬼夜行を率いる妖怪の総統」


 その名も、と薄紅の唇が動く。


 呼吸も、瞬きも、心臓の拍動すらもが、この空気の中では憚られるようだった。

 この世の全てが口をつぐみ、次に続く言葉を静かに待っているような厳かな静寂の中で、私は不意に奇妙な感覚に囚われていた。


 まるでこの後発せられるその妖怪の名を、私は最初から知っていたような――



「――山本五郎左衛門さんもとごろうざえもん



 玲瓏とした声がその名を告げた瞬間、さあああっと辺りを一陣の風が吹き抜けていったような気がした。


 酔様は不敵に笑って言った。

「お主が宿す妖怪の名じゃ」


 私は思わずごくりと息を呑む。

「さ、山本五郎左衛門……!」


 ……って何それ。


 聞いたことがあるような気はしないでもないけど、どんな妖怪なのか全然分からない。っていうか名前に全く妖怪感がない。どっちかと言えば昔の偉いひととかの名前って感じだ。


「杏樹知ってる?」「いや、知らない」

 杏樹とこそこそと密談を交わしていると、酔様は「わはははは!」と呵々大笑した。


「まあそれもやむを得んな。彼岸全域で見ても知る者は少ないじゃろう――何せ神殺かみそぎの一種である上に、その一族も謎に包まれておるからな。歴史上で山本の妖が人前に現れたのは百年前の一度だけ。儂も実際に見るのは初めてじゃ」


 神殺かみそぎって確か、彼岸に一つしか存在しない高位の妖怪の魂……って杏樹が言ってたやつだよね。他の魂とは違って転生を繰り返す、みたいな。


「……あれ?よく考えてみたら妖怪の総統?で神殺かみそぎとか、なんか滅茶苦茶すごい妖怪じゃない?」

 肩書きがもう強そうなんだけど。


「その通り。お主は百鬼夜行を統べる滅茶苦茶すごい妖なのじゃ。最強の妖と言われることも多いんだぞ」

 酔様は満足気に頷く。


 ……う〜ん、急に『実は超強い妖でした!』って分かってもなぁ……。正直理解が追いついてないし、ちっとも実感なんて湧いてこない。


「んんんん、じゃあつまり私のこの妖術って、そのなんとか左衛門の種族妖術ってこと?」

「いや、お主のそれは山本五郎左衛門の種族妖術ではないな。種族妖術はその種の妖だけが持つ妖力を生かした妖術じゃ。しかしお主自身の妖力は依然として皆無。種族妖術を発動できる訳がなかろう。それは言うなればお主自身が編み出した固有妖術のようなものじゃな」

 確かにそうだ。


「え、じゃあ私ってどうやってこの木槌出したりしてるの?」

 この木槌を振ることで亡くなったひと達の魂が集まってきて、それが妖術を無効化する妖力に変換されるっていうのは分かった。けど、私に妖力がないならまずまず何もないところかこの木槌を出すとかできなくない?


 酔様は「それがお主の奇妙なところでな」と言うと、私の手の中の木槌を指差した。


「その木槌からだけは、微かにだが全く別種の妖力を感じるのじゃ。無効化の妖力でもお主自身の妖力でもない、黒い妖力をな。奇妙な話じゃ。まるでお主という器の中に、お主とは全く別の『もう一人』が存在するような――」


 私の中に居る『もう一人』……思い当たる節はあった。


「――その様子だと心当たりがあるようじゃな。くくく、つくづく謎の多い奴じゃ。他に聞きたいことはあるか?分かっていることの方が圧倒的に少ないが儂が知っていることであれば答えるぞ」

「何なら聞きたいことしかないけど……あ。そういえば」

 ずっと気になってたことがあったんだった。


「前に一等のモノノケと戦った時、モノノケの記憶?みたいなのが見えたんだけど、それもこの妖の特性みたいなやつなのかな?」

 あの時見えた、ぼやけていて断片的な記憶。あれも私が山本五郎左衛門の妖だからだったんじゃないかと思ったのだ。


「ふむ。記憶、か。今儂の記憶を読むことはできるか?」

「うーん、読むっていうか、流れ込んできたっていうか……自分からやった訳じゃないんだよね」


 酔様は「む〜」と幼い指を顎に添えて考え込むような素振りを見せた。

「さっきも言った通り、山本五郎左衛門は天狗でも妖獣でも鬼でもないが、同時にそのどれでもある。山本の魂は彼岸に存在する全ての妖の資質を併せ持つと言われておるのじゃ。故にお主の魂がそのモノノケの魂と共鳴を起こしたのかもしれないな」


 『全ての妖の資質を併せ持つ』とかいうまたもやぶっ飛んでる情報がさらっと出てきた気がするけど、その説明には納得がいった。


 多分あの時、私が朽ちていくモノノケを可哀想に思っていた、つまりモノノケに共感していたからその記憶が伝わってきたんだろう。確かに『共鳴』って言葉がぴったりかもしれない。


「他には何かあるか?」

「うーん、まあ大丈夫、かな」

 まだ混乱はしてるけどちょっと呑み込めてきた。


「――さて。ここで一つ、お主に訊いておかなければならんことがある」

 酔様はいつになく真剣なまなざしで私を見据え、予想だにしていなかった問いを投げかけてきた。


「かがり。お主にはこれからも月鬼隊を続けていく気はあるか?」


「……え?」

 何でそんなことを訊くんだろう。

 意味がよく分からずきょとんとしている私に、酔様はぱちり、と扇子を静かに閉じて口を開いた。


「死に際で力に目覚める――覚醒とモノノケ化は紙一重じゃ。どうしようもない程の苦痛や絶望を味わい、それらに完全に呑まれたものはモノノケとなり――逆に何某かの意志を持って再び立ち上がった者は、力に目覚める」


 障子の外から差す月影が、酔様の白い輪郭を仄青く浮かび上がらせている。


「お主は気丈に振る舞っておるが、それだけ強大な力に目覚めたということは、それだけの絶望を味わったということ。隊士になってまだ一月も経たないお主に辛い思いをさせてしまった。すまない」


 ――そんなことない、なんて言う気にはなれなかった。


 今回の任務で、私は妖力なんかじゃ治せない、どうしようもない程に深い傷を負った。それは確かなことだったから。


 雀色の髪の毛先と白菫の髪飾りとを揺らして笑う茶々ちゃんの姿が、脳裏に蘇る。


 ――あの子はもう、この世界のどこにも存在しない。


 その覆ることのない残酷な事実が、深く、深く胸を抉って、今もなお見えない傷口から血は流れ続けている。


「お主は強い。まあ元より強かったが――自身の妖力ではないとはいえ、それ程の妖力を扱えるようになったお主のことを忌み嫌うような輩は最早いないじゃろう。わざわざ月鬼隊に属さずとも……身を削って戦わずとも生きていくことは容易じゃ」

 盃が月光に透け、淡い影を床に落としていた。

 酔様の冴えた水の流れのようなその声は、私の形のない傷に静かに染み入っていく。


「無論、隊士を辞めても今の家にはそのまま住み続けていていいし、出ていってもいい。暮らしが安定するまでの支援が必要ならできる限りのことはしてやるつもりじゃ。――月読で在り続けることは、肉体にも精神にも傷を負って、血反吐を吐きながらなお他が為に戦い続けること」

 かがり、と酔様が私の名前を呼ぶ。


「――それでもお主は月読を続けるか?」


「……続けるよ。当たり前じゃん」


 私は答えた。


「確かに痛かったし、苦しかったよ。でもここで傷ついたからっていって逃げて、今まで私のこと嫌ってたひと達に急に掌返しされてちやほやされて、それで普通に暮らしたって何にも意味なんかないし、何にも嬉しくなんかない」


 それに、と私は木槌に目を落とす。百人分の命が手中で渦巻いているのを感じた。

「このひと達の魂を使わせてもらってる分、私はちゃんと戦わなきゃ。――ほら、だって私って最強なんでしょ?力があっても使わなきゃ意味ないし、私はやっぱりひとを助けるために自分の力を使いたいし。……あと、」


 最後の理由はかなり個人的、っていうかほとんど我儘みたいなものだから言おうかちょっと迷ったけど、結局私は口を開いた。


「私、月読にしてもらってからすっごく幸せだし、楽しいから。辞めたくない」

 月読としての生活は『初めて』でいっぱいで、その一つ一つがきらきらしていて。きっと月読になっていなかったらどれも得ることなんてできなかった。そもそも杏樹にすら出会えていなかっただろう。今の生活を捨てる気なんて更々なかった。


 私がそう決意の旨を伝えると、驚いたように固まっていた酔様は、やがてその顔に小さく笑みを浮かべた。


 国主としての威風堂々とした不敵な笑みでも、見た目相応の好奇心に溢れた満面の笑みでもない。


 酔様がたたえているのは、笑っているような、泣いているような――触れれば壊れてしまいそうな程に儚い微笑だった。


「――よし、そうと決まればあとはひたすら修行じゃな!」

 でもそれは一瞬のことで、酔様は次の瞬間にはいつもの満面の笑みを浮かべていた。

 あまりの切り替えの速さにさっきの表情は幻だったのかなんて思ったけど、酔様の口から飛び出た『修行』という言葉でそんなのは全部どこかに吹き飛んでいってしまった。


「しゅ、修行?修行って、滝浴びたりとか?」

「滝行か?まあしたいならしてもいいが……儂が言っているのはその妖力を上手く扱うための修行じゃ。まずは妖力を制限できるようになることじゃな。今のようにその木槌に貯めた妖力を全開にして纏っていると一瞬で妖力の貯蓄が尽きるぞ。消費が常人の妖力の倍は激しいからな。まあ量も百倍だが」

「ええっ、ほんとに!?」

「それにお主の妖力は特殊過ぎて妖術を使えそうにないな。妖術を無効化する妖力で妖術を発動するなんて矛盾しまくりだからの」

「確かに!?」

 私もこれでかっこよく妖術使えるんだ!って思ってたのに。私は何系の妖術が得意なんだ〜とか実は何系が苦手で〜とか言ってみたかったのに。


 力に目覚めたとはいえ、どうやら前途は色々と多難みたいだ。

 目を回している私を見て酔様は愉快そうに笑った。


「まあ妖術なぞ使えずとも無効化と身体能力、そしてその意志が在れば十分じゃ。頼れる側近も居る訳じゃし、お主自身のやりたいことでも探しながら励むことじゃな」


 私は『頼れる側近』もとい相棒に視線を送る。杏樹がばつが悪そうな笑みを浮かべているのが可笑しかった。



「失礼しましたー!」

「――かがり」

 去り際にふと酔様に呼び止められ、私は足を止めて振り返る。


「お主はいずれ彼岸を変えるよ」


 暗い室内、一の間に佇む酔様の顔は闇に溶けてよく見えなかった。ただ、その月光に照らされた口元は笑っていた。

 よく意味が分からなかったけど褒められてるみたいだったから、私は「はい!」と元気に返事をしておいた。




「かがり様、支度はできましたか」

「ん〜。あ、ちょっと待って!」


 あれから三日。私と杏樹はあの神社の時以来ご無沙汰だった任務に出かけるところだった。


 既に食事を済ませ、身支度を整え、隊服に着替え終わった。刀は折れちゃったけど、私はもう正直なくてもいいかなと思ってる。


 今日、茶々ちゃんの兄妹から私と杏樹宛てに手紙が届いた。

 私達が酔様に事情を話し、二人にお金を送りたいと言ったら送金どころか衣食住の保証を酔様が快く引き受けてくれたのだ。

 私達は実質何もしてないようなものだけど、手紙に書かれた精一杯のお礼の言葉に思わず口元が弛んだ。


 部屋の外から呼びかけてくる杏樹の声に応えつつ、不意にあることを思い出した私は部屋の鏡台の前に立った。


 隊服を身に纏った自分と目が合う。でも、私は別に『今日も私は可愛いね♡』なんて言いたい訳じゃなかった。そもそも、話したいのは自分とじゃない。


「ねぇ、聞こえるかな」

 私は私の赤い瞳を覗き込み、私の中に居る私じゃないに向けて話しかける。


「木槌を出す時の妖力、あれ、多分だけどあなたのでしょ?」

『まるでお主という器の中に、お主とは全く別の『もう一人』が存在するような――』

 そう酔様に言われてすぐ思い当たった。


 私が閃にボコボコにされた時、彼岸花が咲き乱れる暗闇の中で語りかけてきた声。

『最低限の物だけは与えてやるから、あとは自分で掴めばいい』

 まだ高くあどけない、それでいてぶっきらぼうな声が鼓膜に蘇る。

 姿形は見えなかったし、どこの誰なのかっていうかそもそも何なのか分からないけど、きっとあの子が力を貸してくれたんだろう。


「杏樹を助けられたのはあなたのお陰だから、何て言うか、ありがとね!」

 勿論、あの子からの返事はない。

 それでも私は満足して部屋を出た。



「♪〜」

「……なんか、今日は一段と機嫌が良さそうだね」

 杏樹が弾むような足取りで家の外に広がる山林の中を歩く私に言う。


「んふふ〜、何でか知りたい〜?」

「いや別に」

「ひどっ!?いいよ、訊かれなくても言うもんねー!」

「だったら最初から訊く意味なくない……?」


 杏樹が何か言っていたけど、私は聞こえなかったことにして話し出す。

「ほら、酔様に言われたでしょ?自分のやりたいことでも探して、って」

「そうだね」


「見つけたんだ!私のやりたいこと」


 私は「ちょっと寄り道して行こうよ」といつもの街へ向かう道から逸れて歩き出す。

「いいけど、どこ行くの?」

「えへへ、着いてからのお楽しみ〜!」


 ざっ、ざっと土を踏む音。

「酔様の話聞いてて分かったんだ。私、まだ自分のこと何にも知らない」

 山本五郎左衛門なんて妖怪の妖だったことも、それがどんな妖怪なのかも全然知らなかった。


 思えば、私には分からないことだらけだ。生まれも、育ちも、何で記憶がないのかも――


 急に視界が開けた。

 ぎりぎりのところまで駆けていき、私はくるっと杏樹を振り返る。


「見て見て杏樹!じゃっじゃ〜ん!」

 そこには切り立った崖と――断崖絶壁から見下ろす、赤く煌めく紅宵郷の街並みが広がっていた。幾千、幾万もの灯火が揺らめく都市景観は、この世の眺めとは思えないくらい幻想的だった。


 杏樹は小さく息を呑み、猫を彷彿させる硝子玉みたいな金色の目を丸くしていた。

「……こんな場所があったんだ」

「でしょ〜?任務がない日に散歩してみてたら見つけたんだ〜」


 下から吹き上げてきた風が、私の髪と杏樹がくれた髪飾りとを揺らす。

「続きね。それで私、思ったんだ」

 私は眼下に広がる街並みを眺めながら続ける。


「私って何なんだろう、って」


 私は振り向いて、笑った。

「だから私は、月読やりながらそれを探しに行くよ!自分探し、って感じ?」

 空白の十二年間。私はその過去を取り戻しに行く。

 失ってるような記憶なんて碌なものじゃないかもしれないけど、それでも構わない。

 酔様に訊けばできるだけの情報を教えてもらえるだろうけど、私は自分の手で『自分』を見つけに行きたいのだ。


「――杏樹もついてきてくれる?」

 そう訊くと杏樹は琥珀の瞳に少し驚きの色を浮かべた。端正な顔に微笑が浮かぶ。


「……かがり様は、主人に守られるような側近でいいの?」

「私は杏樹がいいんだよ」

 私が言うと、杏樹の唇がふっと綻んだ。


「――それなら、どこまででもお供させてもらうよ、かがり様」

「地獄まででも?」

「地獄まででも」

 私達はどちらからともなく笑い合う。


 見上げるとこしえの夜空が、何故か前とは違って見えた。


〈『壱.目醒め』了〉

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