神の領域

 閃ははっと我に返り、慌てて太刀を握り直す。


 今まで妖力がなかった奴が今になって妖力を手に入れたからといって何になる。あんな量の妖力を放っていればすぐに妖力切れを起こすだろう。


 閃は強張っていた口元に笑みを浮かべた。

「……酷い言い様ね。さっきから言ってるけど、私は誰も殺したりなんかしてないわ。だって――殺したのはあなたじゃない」


 閃は【電光石火】を発動。雷鳴と同時に次の瞬間にはかがりの目と鼻の先にまで迫っていた。


 あまりの速度に反応が追いつかないのかかがりは微動だにしない。閃はほくそ笑んで刀を両手で振り下ろす――が。


 切先がかがりの妖力に触れた瞬間、【青天せいてん霹靂へきれき】で纏わせていた蒼い電撃がふっと幻のように消え失せた。


「……は、ぇ?」

 何が起こっているのか理解する間もなく顔面に下駄の底が炸裂。視界に火花が弾けた。

 閃は後方に勢い良く吹っ飛ばされ、灯籠を薙ぎ倒して地面を転がる。


「ッ――!!」

 歯が数本折れた。口腔内に鉄の味が広がる。ぼたぼたと鼻血が垂れる。何ヶ所か骨が折れたのかもしれない、打ちつけた全身が酷く痛んだ。咄嗟に防御の妖術を展開してこの威力とは。


 土埃が収まり視界が晴れると、蹴る際に刀を掴まれ奪い取られたのだろう、かがりが真っ赤に染まった左手に閃の刀を持っていた。


 どうするつもりかと見ていると、かがりは唐突に躊躇なく手に力を込め、ばきりとその鋼でできた刀身を二つにへし折った。


「!?」

 右手がざっくりと切れて夥しい量の血が溢れるが、その傷も見る見る内に回復していく。ひと一人の膂力などでは到底不可能な芸当を目の当たりにし、閃の頬をたらりと一筋の汗が流れた。


 まさか今のも身体強化なしの素の力によるものだろうか。いや、それよりも不可解なのは【青天せいてん霹靂へきれき】が強制的に解除されたことだ。


 さっきも咄嗟の事で精度は低かったが防御の妖術が展開できたし、今も問題なく妖力での傷の回復ができる。

 しかしあの妖力に触れただけで、確かに発動していた【青天せいてん霹靂へきれき】は強制的に解除された。


 ということは。


 ――妖術の無効化。

 あいつは己が妖力に触れた妖術を無効化できるとすれば、全て説明がつく。


 ……有り得ない。閃は脳が導き出した答えを瞬時に打ち消す。


 ついさっきまで妖力零だった落ちこぼれがそんな力を持ち得るはずがない。他者の妖術をどうこうするなんて固有妖術を以てしても極めて困難だろう。

 そもそも妖力は妖術に変換される謂わば素材。それ自体が異能を有するなんて見たことも聞いたこともない。


 あんなのはただの偶然だ。そうに決まっている。


 そう自分に言い聞かせ、閃は両手を前に構える。

 あの身体能力は厄介だ。ここは遠距離から潰すのが最適解。


「――【天罰てんばついかずち】!」 

 かがりの頭上の低空にいくつもの黒雲が発生し、稲妻が雨のように降り注いで地面に突き刺さる。


 突如として対象の頭上に作り出された人工の雷雲から落ちる閃光。今までにこれを回避できた者は一人も存在しない不可避の妖術だ。


 しかし――かがりから溢れる妖力にぶつかると、それらはすぐさま跡形もなく霧散してしまった。


「そんなっ――!?」

 信じられないような奇跡も、こう何度も重なれば現実と認めざるを得ない。あいつの妖力は本当に妖術を無効化するのだ。


 無効化なんて、そんなのどう対処すればいいのだろう。そもそもあの妖力は一体何なのだろう。全く分からない――


 その時、閃の頭に雷に打たれたかのような衝撃が走った。


 まさか。


「まさか、霊魂に干渉したっていうの――?」

 その恐ろしい可能性を口にした瞬間、途方もない怖気に背筋が震え、ぞわりと全身が総毛立つのが分かった。


 肉体が朽ちた後に残った妖の魂は、しばらくその場所に留まり、時の流れになす術なくただ風化していきやがて消えると言われている。


 あの火の玉のような物体が、この神社で化け物として朽ちていった数多の妖達の魂だとしたら。


 戯言だと思っていた九十八という数も、魂の数が分かったからだとしたら。


 夥しい数の魂が集まって混ざり合ったことで、互いを打ち消し合うような無効化の性質を持つ妖力になったのだとしたら――


「……ありえない、」

 閃は思わずそう零していた。


「そんなのありえないじゃないっ! だって、それは、それは――!」


 霊魂への干渉。

 ――――それは最早、神の領域だ。


 相変わらず音もなく佇む人間のような風貌の少女。篝火の如き赤い瞳を光らせたその姿は、何故だかぞっとする程美しく見えた。


 ――あれは、妖なんかじゃない。

 神と呼ぶには悍ましく、化け物と呼ぶには美しい――そんな、妖を優に超越しただ。


「……嘘、でしょ……?」

 畏怖と懇願の滲む震えた声は、誰にも届かず夜風に攫われていった。


       ◇◆◇


 これで、やっと戦える。

 私は口には出さずにそう呟く。


 大量出血して文字通り血の気が引いたのかもしれない。頭が不思議なくらい冴えていた。


 だからといって怒りが冷めてしまった訳ではない。むしろ怒りは胸の内でよりいっそう赫く激しく燃えている。


 だって、今も伝わってくるのだ。

 瞼を閉じると、百人分の夜空に散りばめられた星の数よりも膨大な記憶が、百人が生きた軌跡が、自分事のように全部頭の中に流れ込んでくる。


 非業の死を遂げた妖々ひとびとが、私に訴えかけてきている。どうか仇を打ってくれ、と。


 目を開ける。その顔に怯えと狼狽とを色濃く浮かべた閃と目が合った。


 ――死んでも閃を倒す。それが私にできる、助けられなかったひと達へのせめてもの弔いだ。


 百人の悲しみを、苦しみを、憎しみを背負って、私は静かにの仇敵を見据える。


         ◇◆◇


 かがりが、一歩足を前に踏み出した。


「〜〜〜〜〜ッ!!」

 それだけで全身に冷水を浴びたかのような悪寒に襲われ、閃は思わずじりりと後ずさる。


 かがりは獲物を追い詰めた肉食獣のような足取りでゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「いや、いやッ……!! 来ないでッ!!」

 一歩、また一歩と着実に死が形を持って近づいてくる恐怖に耐えられず、閃はがむしゃらに【雷霆弾らいていだん】を乱れ打つ。例の如くそれらはかがりに擦り傷一つつけることすら叶わず雲散霧消していく。


 歩みを止めないかがりの背後に、閃は無数の妖の影を見た。百にも及ぶ死せる妖達が、夥しい数の呪詛の言葉を閃に囁きかけてくる。


 ――――ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ――――


「あ、ひっ……!うるさい、うるさいうるさい、消えろ消えろ消えろっ……!」

 閃は思わず伏せた耳を抑えつけて後退する。


 幻だ。こんなものは全て悪い夢だ。

 そう頭では分かっているのに、亡霊共は口を噤まない。耳を塞いでも脳髄に直接流れ込んでくる、幾千、幾万もの呪詛の囁き。頭がおかしくなりそうだった。


 ――――ユルサナイ、ユルサナイ、ユルサナイ――――!


「消えろぉぉ――――――ッ!!」


 閃は絶叫し、【紫電一閃】を放つ。辺り一体に紫の稲光が迸り、一筋の雷のような電撃がまっすぐにかがりに向かっていく。


 それすら片手で容易く掻き消され、閃の表情は絶望一色に染まった。


 本当に、これで終わりなのか。こんな、こんなところで。

 ――まだあのひとに名前すら知ってもらえていないのに。


 そうだ。自分はまだ死ねない。自分は生まれついての強者なのだ。こんな生きていく意義もないような奴に敗ける訳にはいかない。力の抜けていた身体に活力が戻ってくる。


 閃は力を振り絞って浮遊の妖術を発動し、上空へと浮かび上がった。


 今まで何度やってみても上手くいかなった固有妖術。きっと今ならできる、そんな気がしていた。


 天へと高く手を掲げ渾身の妖力を送ると、夜空に黒い暗雲が渦を巻いて垂れ込め始めた。

 冷たい突風が木々を揺らし、髪が逆立って乱れ、肌にちりちりと不快な感覚が走り出す。どうやら上手く行ったようだ。


 妖術の無効化。一見無敵なように思える力だが、天災までは防げないだろう。


 妖術で作り出したちゃちな作り物ではなく、自然の稲妻を誘発する。それが閃の固有妖術。これなら――


「【建御雷タケミカヅ――」


 閃は大きく息を吸い込み、その神業の名を告げようとして。


 ――眼前の赤い瞳と、目が合った。


 胸ぐらを掴まれた途端、閃の身体から迸っていた妖力は強制的に途絶えた。夜空が一瞬にして晴れ渡り、全能感が絶望に塗り潰されていく。


 かがりが五指を折って拳を堅く握る。

 閃にはその一連の動作がやけに緩慢なものに見えた。


 閃の脳裏に一瞬にして様々な記憶が蘇っては消えていく。


 黄昏郷こうこんきょうの雷獣の名家に生まれた閃は、一族の中でも飛び抜けた才能を生まれ持った圧倒的な強者だった。


 家の弱者共に媚びへつらわれ機嫌を伺われるのは中々に気分が良かったが、やがて刺激のない日々に嫌気が刺し一人で家を出た。


 しかし外の世界にも閃に勝てるような妖は一人も居らず、弱者を痛ぶるのは中々に愉快だったがそれにもやがて飽きてきた。


 そんな時だった。

 あのひとに出会ったのは。


 恐らくあのひとの眼中に自分はなかったし、見かけたと言う方が正しいような一瞬のことだったが、それでもその邂逅は閃の人生を一変させた。


 閃はようやく思い知ったのだ。

 自分なんか足元にも及ばない、真の強者というものを。


 あのひとに認めてもらえれば、自分は更なる強者になれる。


 閃は彼岸を夢中で探し回り、ようやくのことであのひとが頭を務めるという組織の一人の元に辿り着いた。


 その妖に提示された、組織に加入するための条件。それは渡された試作品を上手く活用し、紅宵郷戦闘部隊・月鬼隊になるべく甚大な損害を与えることだった。


 ――それが一ヶ月前のこと。


 天地を揺るがす凄まじい衝撃。

 そうして閃の野望は呆気なく潰えた。


         ◇◆◇


 終わった。


 木槌を横に振るうと、私を包んでいた淡く透き通った妖力がふっと消え失せる。


 境内には思わず目を背けたくなるような惨状が広がっていた。

 地面は半径が十米じゅうメートルぐらいの円状に大幅に抉れ、本殿も鳥居も灯籠も何もかもが全壊している。


 杏樹。杏樹は、どこに。

 鼓動を逸らせて辺りを見回すと、少し離れたところで杏樹が倒れているのに気づいた。私は慌てて駆け寄り、傍らに膝をつく。


「杏樹……っ!」

 手首に触れてみるけど自分の心音と呼吸がうるさくて脈なんてよく分からない。お腹の傷は少し治癒させたみたいだけど、それでもかなり酷い状態で思わず泣きそうになる。


 死なせたくない。

 私はまた木槌を振るい、杏樹を妖力で包み込んだ。


 傷口が塞がっていっていることに安堵した私は、妖力で覆ったままの杏樹を背負って歩き出す。


 一刻でも早く杏樹を家に送り届けなければという思いで歩き続けてようやく家に辿り着き、玄関で出迎えてくれた使用人さんの驚いた顔を見たところで私の意識は途切れた。

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