覚醒

 気づけば私はどこまでも続く暗闇の中に立っていた。足元には一面に真っ赤な彼岸花が咲き誇っている。


 あれだけ傷だらけだった身体には今や傷一つなく、血や土で酷い有様だった隊服も綺麗になっている。まるでこの神社に来る前の状態に戻ったみたいだ。


 え、これもしかして私死んだ?ここ死後の世界的なあれ?私がそんな風に一人慌てふためいていると、


『大丈夫、まだ死んでないから。――残念なことに』

 目の前に誰かが立っていた。暗くてよく見えないけど、声からして十歳くらいだろうか。


「誰?」

『……思い出せないんだ。まあいいや』

 声の主はちょっと失望したみたいだったけど、すぐに『それより』と話題を変えた。


『どうする気?このままじゃ自分もあの猫又も死ぬけど』

「っ、そんな――!?」

『あの雷獣が赦せない?』

 声の主は確かめるように問う。


「……赦せないよ。赦せる訳ないじゃん」

 茶々ちゃんから、沢山の隊士達から、全部、全部奪った。こんなことを赦していいはずがない。また怒りが湧いてきて、私はぎりぎりと拳を強く握りしめる。


『でも、お前には力がない』

 暗闇から返ってきたのは、そんな冷酷な言葉だった。


『今のままじゃ逆立ちしたってあの雷獣には勝てやしない。何もしなくたって直に死ぬ。せっかく猫又が気を引いてるんだから、風体なんて捨ててみっともなく這って逃げればいい。何でそうしないの』

「……」

 返す言葉もなかった。


 確かに、私には力がない。

 妖力がないから妖術の一つも使えない。いつもみたいな殴る蹴るで敵うような相手じゃない。やっぱり私は正真正銘の落ちこぼれなのだ。


 それに声の言う通り、私だってとっくに分かっている。今逃げれば、私だけなら助かるかもしれないなんてこと。


 身体だけは頑丈だから、まだ這うくらいの動きはできる。妖力探知で見つけられない私なら、木々に身を潜めて山を下ることだって可能なはずだ。


 そうして運良く死なずに山を下りられたら、誰かが助けてくれるかもしれない。私を助けてくれるひとなんて居るのか分からないけど、もしかしたら、誰か、優しいひとが――


「――それでも、戦わなくちゃいけないんだ」


 ここで杏樹をおいて逃げたら、私は閃より誰より自分を赦せない。


 ――思えば私は、いつだって“普通”に憧れていたのかもしれない。


 阿修羅だとか化け物だとか言われる度に、同じひととして見てもらえていないという事実がちくりと棘のように胸に刺さっていた。


 化け物とも神とも言われることのない、普通の妖として生まれてきた妖達ひとたちが、私を嘲笑う妖達ひとたちのことが、私はずっと羨ましかった。


 でも、もう普通なんていらない。


 何を失ってもいい。

 たとえひとの道から外れても。



「――あいつを倒せるなら、私は神にでも化け物にでもなってやる」



『――じゃあ自分で掴み取れ』

 声の主はそう言って、遠くの一点を指差した。


 暗闇の中に浮かぶ、一輪の黒い彼岸花。

 私は直感的に何をすればいいのか理解し、花弁を蹴散らして駆け出した。


『私にはお前を助けてやるつもりなんて毛頭ない。最低限の物だけは与えてやるから、あとは自分で掴めばいい』


 駆けて、駆けて、駆けて――


『神になるも化け物になるもお前次第だ。勝手にすればいい。――ただ、』


 手が、彼岸花を掴んだ。

 一瞬炎に包まれた彼岸花が、漆黒の木槌に変貌する。


『こんなところで死んだら、私がお前を許さないから』


 意識が、急速に覚醒していく。


         ◇◆◇

 ――呆気ないな。

 狗噛閃はそう口には出さずにぼやく。


 鬼共の棲まう常夜の国、紅宵郷最強の妖・月読。さぞかし強いのだろうと思っていたのだが、まさかこの程度とは。


 確かに妖力なしであの体術や身のこなしは神がかっていると言えるだろう。妖力での身体強化でもなかなかあそこまではいかない。


 でも、それだけだ。

 いくら身体能力が凄まじくても、圧倒的な妖術を前にしては何もできない。やはりこの世界、彼岸は持って生まれたものが全て。生まれた時から強者は強者。弱者は弱者。弱者は強者に喰らわれる運命さだめなのだ。


 そして、あの落ちこぼれもこの猫又も、また弱者だったというだけのこと。


 閃はそんなことを考えながら硝子容器の太い針を猫又に突き立てようとした。

 その時。


「……?」

 不意に周囲の空気が一変した気がして、閃ははたと動きを止めた。


 先程までとは明らかに違う、粟立つような空気が境内を満たしている。五月にしてはひんやりと冷たい夜風が纏わりつくようにして不快に頬を撫でていく。


 何やら薄気味悪いものを感じ、閃は何の気なしに振り返って――


「――え」

 唖然とした。


 ……かがり、といっただろうか。


 閃が完膚なきまでに打ちのめしたあの少女が、幽鬼のようにふらりと立ち上っていた。


 しばし呆けていた閃は慌てて驚きの表情を引っ込めた。

「……あなたまだ生きてたの?すごい生命力ね。まるで虫みたい」

 あれだけの妖術を食らったら普通の妖だってとても立ち上がれないだろう。妖力での回復ができないなら尚更だ。


 かがりは俯いたまま答えない。

 月明かりに緋色に透き通る鳶色の髪だけが、静かに風に揺れている。


 そこで閃は気づいた。かがりが何かを右手に持っている。

 目を凝らすと、それは赤い彼岸花があしらわれた漆黒の木槌だった。さっきまであんな物を持っていた様子はなかったはずだ。隠し持っていたのだろうか。それにしても何のために。


「――九十八」

「……は?」

 かがりが俄かに零した不可解な数字に、閃は思わず眉根を寄せる。


「――この神社で死んだ妖達ひとたちの、」


 かがりが木槌を身体の前に持ってくる。

 何をする気なのだろう――閃は、次の瞬間、息を呑んだ。


 境内のあちこちから、青とも紫ともつかない暗い紺瑠璃の幾つもの幾つもの火の玉のような何かが、かがりへと集まってきている。


「な、何よ、これ……」

 そこで更に信じられないことが起こった。


 かがりが軽く木槌を横に振るうと、集まって融合した火の玉が一瞬にして莫大な質量の透き通った妖力へと変換されたのだ。


「っ――!?」

 声が出なかった。あまりの妖力にあてられて足が竦む。夜空へと天高く伸びていく絶大な妖力。

 今までこんなにも悍ましい妖力は見たことがない。まるで百人の妖の妖力を集めたような。


 見ると、膨大な妖力に包まれたかがりの傷が、凄まじい速度で治癒していっている。明らかに閃を上回る、見たこともないような治癒再生の速度だ。


 全く以って理解できなかった。こいつには妖力が全くなかったはずだ。なのに、何故。

 そうして閃は気づく。


 ――まさか、今、この瞬間に目醒めたというのか。この生か死かの瀬戸際で、こんな圧倒的な力に。


 そこでかがりが顔を上げた。


 夜闇に爛々と光る、この世ならざる赤い瞳。静かな赫怒に燃える双眸が閃を貫く。


「――お前が殺した妖の数だ」


 彼岸花を模した小さな髪留めを煌めかせ、妖力と殺意とを滾らせた少女は、八寒地獄から響いてくるようなどこまでも冷徹な怒りの滲む声音でそう告げた。

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