意義
がふっ、と咳き込むような音がして、杏樹の口から悍ましい量の鮮血が溢れる。それで私はようやく我に返った。
「……は、え、杏樹? なんで――」
「へぇ、主人を庇ったの。と〜〜っても優しいのね、猫ちゃん?」
「……黙れ、下郎」
口元を歪めて凶悪に笑う閃を、杏樹は血を吐きながら睨みつける。
私はそこでやっと何が起こったのか気づいた。気づいてももう遅かった。
杏樹は私を庇って刺されたのだ。
お腹を刃が貫通しているなんて想像を絶する痛みだろうに、杏樹は悲鳴どころか声一つ上げず、懐から依代を取り出して口を開く。
「……【
「【
――杏樹が言い終えるより、閃の術が発動する方が先だった。
杏樹の体を貫く刀から青白く光る凄まじい電撃が放たれ、閃光に目が眩んだ。
「――!?」
私の体にまでビリビリとした衝撃が駆け抜けていく。
直接でなくてもこの威力なのだから、それを体内に流されて無事でいられる訳がなかった。
閃がずるりと稲妻を模った刀身を引き抜く。
力の抜けた杏樹の体がどさりと崩れ落ちた。石畳がじわじわと血に濡れていく。
「あ、杏樹、!!」
杏樹に近寄ろうとして、ぴちゃ、と手に付着した血液。その色を見て、まさに血の気が引く思いがした。
赤じゃない。
普通の暮らしをしていたら絶対に見ることのない、深い深い紅。
それがこんなに、こんなにたくさん、
ぱしゃん、と誰かが血溜まりを踏んで、ぐったりと地に伏す杏樹の前に立った。
杏樹の手から零れ落ちた猫人形を蹴飛ばし、その妖はゆらゆらと血に濡れた刀の切先を揺らす。
「――雷獣の種族妖術は彼岸一の雷系妖術。流石に落雷までの威力はないけど、死ぬ程痛いでしょ?ついでにこの刀にも妖力攪乱の術式を組み込んでるから傷の治りも……って聞こえてないかしら?きゃははっ、もしかして本当に死――」
私はその時、初めて誰かへの明確な殺意を持って刀を抜いた。
「!?」
勢い良く噴き出す血。一瞬にして上半身をざっくりと斜めに斬りつけられた閃は驚愕に目を見開いたが、それはすぐに私への敵意に変わった。
「このッ――!!」
体勢を立て直させる暇を与えず、私はよろめく閃を追うように一歩踏み込んでその真新しい傷口を蹴りつける。痛みに閃の呼吸が止まった。
いける――私はすかさず紅い刃を横薙ぎに振るう。本気でその白い首を断ち切るつもりだった。
しかし。
がきぃぃんと鋼同士がぶつかり合う音。
「このっ、程度でっ――」
ぎりぎりのところで閃が自分の刀で受け止めたのだ。
このまま力づくで押し斬ればいい。私がそう右手により力を込めようとしたその時。
「調子に乗るんじゃないわッッ!!」
閃の空の右手に、バチバチと弾ける電気の球が出現していた。
気づけば私は勢い良く後ろに吹っ飛ばされてごろごろと地面を転がっていた。
「っ
転がる勢いを活かして起き上がった私は、全身を駆け巡る痛みに思わず片膝をつく。
あの電気の球をぶつけられたのだろう。全身が針で刺されるように痛む。頭がズキズキしている。痺れるってこういう感じなんだ。
それでも私は地面を力強く踏みしめて立ち上がる。
茶々ちゃんや他の隊士の
それに、と私は顔を上げる。
「よくもやってくれたわね……ッ!」
視線の先、閃は妖力を集中させて斜めに深々と走る刀傷を治癒させている。
――この妖を倒すまで、私は一秒たりとも立ち止まってなんかいられない。いや、立ち止まっちゃ駄目なんだ。
月鬼隊としての使命感でも、月読としての責任感でもない。
ただ純粋に湧いてくる堪えようのない怒りだけが、私の身体を突き動かしていた。
私は足元に亀裂を刻み込んで駆け出す。
刀はさっきの衝撃でどこかへ飛んでいってしまったけど探す暇なんてないし、探す気もなかった。今までだって私はずっとこの身一つで戦ってきたんだ。武器に頼る必要なんてない。
「馬鹿の一つ覚えね。そんな直線的な突貫なんてさっきみたいな不意打ちでもなきゃ当たんないわよ!【
閃が前に翳した両手から無数の電気の球を乱れ打つ。
それでも雨霰と襲いくる電撃の嵐を掻い潜り、私は全速力で閃との距離を詰めていく。
「なっ――!?」
私は地面を蹴って跳び、焦りが色濃く浮かぶその顔面に
その口元がにいっと喜悦に歪むのを見た、気がした。
「――【天罰の
蒼い閃光に染まる視界。遅れて轟く雷鳴。
脳が何が起こったのか理解する前に、凄まじい衝撃が脳天から爪先へ抜けていく。
あまりの激痛に声すら出なかった。私は重力に従って落下し地面に叩きつけられる。
痛い。死ぬ程痛い。細胞の一つ一つが灼けてばらばらになっていくみたいに痛い。熱波に当てられたように身体がじんじんと熱を帯びている。痺れているのか指先すら動かせない。
耳鳴りがする。心臓が悲鳴を上げる。呼吸すらままならない。段々と視界が霞み、意識が朦朧としていく。
気を失いかけたその瞬間、ざくっと背中を刀で突き刺された。鮮烈な痛みに意識が明瞭になる。
かと思うと再び刀からの放電。もう何が何だか分からなかった。
再び遠のきかけた意識を刀をぐりぐりと動かされて引っ張り戻される。喉からこみあげてくるものを吐く。血だった。
「……抵抗しないの?」
閃の怪訝そうな声が上から降ってくる。
「さっきから身体強化しか使ってないじゃない。何の妖だか知らないけど、妖術の一つでも使えばいいでしょう。油断を誘うつもりなら無駄よ、諦めなさい」
「……」
私は答えない。と言うか答えられる状態じゃない。口を開いたら多分言葉より先に血が飛び散る。
「強情ね。怪我も治そうとすらしてないし。もう妖力を制限する必要は――」
そこで閃は何かに気がついたようにぴたりと口を噤む。
「――月読なら妖力を完全に隠蔽できる妖がいてもおかしくないと思ってたんだけれど。まさかあなた――――――本当に妖力がないの?」
私の沈黙を肯定と受け取ったらしい。
途端に閃は抱腹絶倒のお手本のように大爆笑し始めた。
「くふっ、あははっ、きゃははははははっ!!妖力がないなんて正真正銘の落ちこぼれじゃない! 出来損ないもいいところね! こんなに面白い妖に会ったのは初めてだわ! きゃははははははッ!」
甲高い哄笑ががんがんと頭に響く。うるさいからちょっと黙ってて欲しい。
っていうか普通こういうのってそろそろ『痛覚が麻痺しているのか、最早痛みすら感じない……』みたいになってくるのがお約束だよね?全然痛いんだけど。やっぱりそんなご都合主義は作り話の中だけなのかぁ。
ぼんやりとそんなことを考えて現実逃避していると、ぐいっと足で顔を上げさせられた。閃は好奇と軽蔑が滲む、面白い虫を見つけた子供のような表情で私を見下ろしていた。
「ねえねえ、あなた一体何の妖なの?見た目もまるで人間みたいだけれど」
「……わからな、っげほ、」
「分からない訳がないでしょ。親は何の妖?」
「家族、いない、から」
血でむせながらも正直に答えると、閃はくすっと笑って顎の下に入れていた足を引っ込めた。急に支えを失って顎を強かに地面に打つ。
閃は私に突き刺していた刀を引き抜き、くるくると弄ぶように回転させる。刀に付着していた鮮血がびちゃびちゃと辺りに飛び散った。
「ねえ、知ってるかしら?
なんか急に深いこと言い出した。私はあまりにも唐突な話題転換に戸惑う。
私の場合は、と閃は稲妻を宿したようなその目をうっとりと細めた。
「あの組織に認めてもらうこと。あの組織の一員になって、あの
頬を赤らめ、目をきらきらと輝かせ、閃はまるで恋する乙女のような恍惚とした表情で愛おしげにそう語る。
あの組織。あの
「あなたは?」
不意に閃が私に視線を向ける。
「あなたは何の為に生きてるの?」
そんなの考えたこともなかった。
私は今までの日々を思い返してみる。
月読になる前は、モノノケを倒して、
なった後も、モノノケを倒して、
そうか、分かった。
……助けられてないじゃん。
この神社で何人もの、何人もの
私は一人も救えなかった。
あれ。じゃあ、私――何の為に。
答えが思いつかず黙っていると、閃は「でしょうね」と薄く笑った。
「あなたの人生の意義、私が教えてあげるわ」
閃は言いながら私の髪の毛をぐしゃりと掴んで顔を持ち上げる。しゃがみ込んだ閃と目が合った。閃はにっこりと笑って――
「妖のくせに妖力がない、月読のくせに弱くて一人も救えない。――あなたみたいな落ちこぼれには、生きる意義も意味も価値もないのよ。とどめを刺す時間すら惜しいわ。どうせ回復できないんだからここに這いつくばったまま惨めに死んでいきなさい」
閃は浅葱色の瞳を陰らせて言う。心底軽蔑したような、さっきとは一変した冷たい表情。私の髪を掴む手を離し、閃は興醒めしたように刀を鞘に納めた。
「月読ってこんな出来損ないでもなれるのね。こんなのの首を持って帰ったところで大した成果にはならないわ。そうね、いっそ月読を全員殺そうかしら。この程度なら楽勝――」
「……に、」
私の呟きに、閃はぴくりと狗耳を動かす。
「なあに、落ちこぼれさん。私はもうあなたと話す気はないんだけれど」
私は口を開きかけて、また咳き込む。息が苦しい。身体中が痛い。
それでも、これだけは。これだけは言わないと。
「……確かに、私は落ちこぼれだよ」
そう切り出すと閃は少々驚いたかのように目を丸くしたけど、私は気にせずに声を絞り出すようにして訥々と続ける。
「――妖なのに妖力もないし、月読なのに弱くて一人も助けられなかった。私が死んでも誰も悲しまないし、何の為に生きてるのかだって分からない」
唐突な私の弱音に、閃は愉しげな嘲笑を上げた。
「きゃはっ!認めるの?最後の最後まで情けない奴ね。そうよ、あなたはどうしようもない落ちこぼ――」
「でも、」
私は強く閃の言葉を遮る。
「他の
顔を上げ、私は目一杯閃の瞳を睨む。
「私みたいな落ちこぼれじゃなかったし、私と違って月鬼隊として
茶々ちゃん。あの子の弟は、妹は、どれだけ悲しんでいるだろう。どれだけ明日に絶望しているだろう。
茶々ちゃんだけじゃない。他の隊士の
それを奪ったこの少女が、私はどうしようもなく、どうしようもなく赦せなかった。
「
閃の顔にありありと苛立ちが浮かんでいく。
「……あなた、ほんっっとにむかつくわね。いいわ、前言撤回よ。私ができるだけ苦しく殺してあげる」
閃はそう言って刀を抜き、私に向かって振り上げた。きらりと稲光のような刀身が光る。
私は来たる激痛に備えて身を固くしながらも、目だけは意地でも離さずに閃を睨み続けた。
――どすっ、という鈍い音がして、
閃ががくんと一歩よろめいた。
「は……?」
見ると、閃の右肩に鋭利なクナイが深々と突き刺さっている。
「――訂正しろ。かがり様は落ちこぼれなんかじゃない」
杏樹が血塗れの半身を起こして、クナイを投擲したのだった。
びきりと閃の顔に青筋が立つ。
「……生きてたのね、猫ちゃん」
「そうだよ、駄犬。あの程度の妖術で死ぬとでも思ったの?弱い犬ほどよく吠えるってこのことだね。そんなだからその組織とかいうのにいい様に使われてるんじゃない?」
「――私はいい様に使われてなんかないわ」
挑発的に笑う杏樹に、閃はその顔に怒りと不快感、微かな焦燥を浮かべて言い返す。
「だって、これを上手く使って成果を上げられれば、組織の一員として認めてくれるって――」
「本当に必要な人材ならこんなに足がつきやすいことを頼む訳がない。つまりお前は所詮組織にとって使い捨ての駒ってことだよ」
杏樹は閃の言葉を冷たく切り捨て、そう残酷に告げた。
「下等種族のくせにっ……!!」
閃は苛立ちを露わにして杏樹の方へ歩き出そうとする。が、何かに引っ張られたように軽くつんのめった。
「させない……絶対にさせないから……ッ!」
私は死力を振り絞ってその足首を掴んでいた。爪が皮膚に食い込んで血が流れ、みしみしと足の骨が軋む。
閃はぎりりと歯軋りをした。
「揃いも揃って――うざったいのよ!!」
【
閃は不機嫌に杏樹の方へ歩いていく。
「――――!」
「――、――――」
罵詈雑言をぶつけ合う二人。閃が地面に倒れ伏す杏樹を何度も何度も蹴りつける。それでも杏樹はまた口を開く。その発言に閃がまた逆上し、杏樹を執拗に痛めつける。何度も何度も何度も――
不意に、杏樹が私にちらりと一瞥をくれた。
それだけで私は分かってしまった。
杏樹は今のうちに逃げろと、そう言っているのだ。閃を煽って注意を自分に向けたのも、今あんなに痛めつけられているのも、全部全部私のため。
私のせいだ。私を庇ってあんな大怪我を負ってなければ、杏樹はきっと勝ててたのに。
閃が痺れを切らしたように言った。
「いいわ、そんなに死にたいなら殺してあげる。そうだ、残りの薬はあなたに使おうかしら。あなたはなかなか見込みがありそうだから一等とかになれるんじゃない? あの落ちこぼれの主人をあなたが殺すっていうのも一興よね――」
愕然とした。
それだけは駄目だと思った。
杏樹は、杏樹だけは。
――どこへ行っても居場所なんてなくて。何をしても怖がられて、忌み嫌われて。
そんな私と、杏樹は普通に話してくれた。並んで隣を歩いてくれた。心配してくれた。背負って歩いてくれた。髪留めをくれた。
嬉しかったんだ。
ほんとは相棒とか、そんな大袈裟なものじゃなくて。
――はじめて友達ができたみたいで、嬉しかったんだよ。
閃があの硝子容器を杏樹に振り上げている。注意を引きたくても声が出せない。
涙は零れなかった。ただ何もできない自分が情けなかった。こんな時でも見上げる夜空が綺麗なのが憎かった。
視線だけ動かす。崩れた本殿の中は空っぽで、何も入ってなんかいなかった。
――ああ、この世界には、神様なんていないんだ。
『――そう。この世界はどこまでも残酷で、神も仏もいないんだよ』
幼い誰かの囁き声と同時に、視界がふっと闇に包まれた。
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