第四十夜 人形として

 雨音あまねと出会った日。彼の言葉に、その日の記憶がフラッシュバックした。まだ記憶に新しい、何故か思い立って、不登校気味だった学校へ顔を出した日だ。


 梅雨晴れの朝だった。志織しおりに優しく見送られ、久しぶりに学校へ赴いた朝。驚いていた友人や教師にも温かく迎えられ、酷く安心したのを覚えている。記憶の空白を補ってくれた友人の板書も、急な行動にも関わらず、文句一つ言わず、それどころか嬉しそうに作り持たせてくれた志織の弁当の味も、全て鮮明に。


 楽しかった。本当に楽しかったのだ。けれど。


 ただ。その分だけ、母の居なくなった埋まらない寂しさとの、自身の身体の異変との落差に脆弱な精神が耐えきれなかった。


 帰宅して、志織にまた明るく迎えられて。幸せ者だと思った。だから余計に、何も返せない自分の未熟さに幻滅した。


 美味しかったとありがとうを、空の弁当箱と共に手渡して。そして。やりたいことがあると、自分はもう大丈夫だと言い残し、制服も着替えず家を出た。


 行く宛てなんてもちろんなかった。やりたいことも、安心させようとした下手な方便で。ただ一人になりたくて、どこか遠くへ行こうと電車を降りた先、いつの間に降り出した雨から逃れるように入った路地裏で出会った少年が雨音だ。



『――かくれんぼ?』


 じめっと張り付くような梅雨の湿度。日の当たらない肌寒さに鼻をすすって。錆びた室外機の影に隠れるように座っていた紗世さよに突然かけられた言葉がそれだ。


 声にならない悲鳴と、ガタンと派手な物音を響かせて。


 視界に捩じ込まれた、幼げな声色から想像のつかない長身と、暗い路地に紛れるような装いの男の姿。泥濘ぬかるみに、悪いはずの足場で物音一つ立てなかった、狩場の猫のような彼の接近。身体の震えの要因が寒さなのか恐怖なのか、錯乱した頭では整理できずに。


 ただ雨音と目が合っていた。先の物音に驚いたのか、その作り物じみた綺麗な目は大きく見開かれていて。


『……、ち、ちがう……』


 やっと声に出たのはその否定。ふぅん、と興味なさげな反応が返される。


『……あ、……家出?』


 次、こてんと首が傾げられて。無遠慮な問いに紗世はそっと俯いた。放っといて欲しいと、あなたには関係ないと、絞り出すような訴えに、今度は何も返らずに。


 また静寂に包まれて、思い出された寒さにそっと震えて身体を抱いた。もう夏だろうと特に何も考えず着て出た薄手の夏服。まだ立ち去らない彼の気配を感じながら、間違ったな、と冷たく詰まった鼻を啜る。


『…………』


 ふと、暗く陰った視界に肩が跳ねた。同時に、余韻のような人肌の温もりと、嗅ぎ慣れない砂糖菓子のような甘い香りが触れて。


『あげる』


 そう言われて初めて、それが彼の上着であることに気が付いた。思わず顔を上げ、しゃがんで揃った雨音と目線が交差。近付いて分かる、地球を封じたような双眸の美しさに思わず見蕩れて。しかしすぐに、現状へ我に返って頭を振った。


『………え、……ぃゃ、大丈夫、です……』


 見ず知らずの人間の私物を受け取れるほど肝は据わっていない。しかし返そうと身動ぎした紗世を捕らえるように彼は上着のジップを掴んだ。強制された物の譲渡。恐怖の末感じていたのは諦めだった。当たり前だろう。まだ精神が正常に働いているということに安心さえ覚えて。


 こちらの気も知らずに、雨音はペースを崩すことなくのんびりと笑って言った。


『知ってる?女の人ってぇ、身体冷やしちゃダメなんだって。玲於れおが言ってた』

『っ、誰ぇ……』


 声は情けなく震えた。彼の纏う独特の空気感に押されて。あるいは下手な刺激をしないよう、感じたままの恐怖に従って。逃げるように、濡羽ぬれば色のパーカーに包まり身を縮めると、その温かい包容力に思わず安堵が浮かんだ。正直な身体に複雑な脱力。


『お前、名前ある?』

『え……、?……ないわけ……』

『……?』

『…………紗世……』


 そう向けられた表情があまりに無垢で。その言葉が彼の純粋な疑問であると理解したから、紗世も自然と名前を口にしていた。満足したような復唱。


『さよ……覚えた。僕は雨音。――ねぇ紗世、お前さ、』



 



 サッと、見透かすような雨音の双眸に背筋が冷えた。頭に浮かんだ後悔の文字。突きつけられた圧迫感に目を逸らす。


 ――お前は人間じゃないだろう。あるいは、お前は人形なのか?どっち、というのは、つまりそういうことだ。


 思わず口淀んだ。それが答えになってしまうことを分かっていながら。彼が常人ではないことは、言動やその見て呉れから既に分かりきっていた。素性を安心して打ち明けられるような相手ではないと、人並みの警戒心はあって。それに。この問いができるということは、彼もまた、ドール。


 雨音の表情は変わらず。ただ次の言葉を待つように、じっと紗世の瞳の奥を見つめていた。


『なん……で、』

『なんとなく?内緒だったら別に言わなくてもいーよ』

『……っ、……、――ない』

「……?」


 ようやく絞り出した言葉は声にならず。妥当に首を傾げた雨音に妙に腹が立って、次に紗世は身勝手に彼を睨めあげた。


『――ッ、分かんないの!!そんなの、私が知りたいもん!!なんで……っ……なんでぇ……』


 どの類の涙なのかも分からず。ただ止めようとすればするほど、それは嫌がらせのように溢れて。自暴し強く擦った目元がひりひりと嘲笑うように痛む。


『……迷惑……かけたくないのに、……、一人になりたい、のに……けど、……もう、どうしたらいいのかわかんない』


 周りに人が居なかったわけじゃない。むしろ自分が置かれていた環境は酷く恵まれていて。だから。突然放り込まれた人に言えない孤独が恐ろしかった。


『一人は……怖いよ……』


 衝動のまま怒鳴った末、情けないに呟きに終わり訪れた静寂に己を恥じる。あまりに幼稚な癇癪。彼に怒ったところでどうにもならないのに。


 雨音はただ黙って聞いていた。本当に聞いていたのかも怪しいほど、なんの反応も示さず。



『――そっかぁ』


 長い沈黙の末。彼はそう、一言だけ呟いた。相槌。それ以上も以下もない、一欠片の干渉もしないその淡泊さが、その時はどうしてか酷くありがたくて。


 会話はなく。彼の幼気に絆され涙も引いた頃、さよ、とまだ数回目にして何故か落ち着く声で呼ばれた。


『……うちの子、なる?』

『え……?』


 硬直。突拍子もないその提案の意味をすぐには飲み込めず。分かりやすく戸惑った紗世の、その熨斗目のしめ色の双眸を真っ直ぐ捉えて。相変わらず感情の読めないトーンで、けれど真剣に雨音は言った。


『紗世が決めていーよ。……着いてくるってんなら、一人が怖くなくなるまで僕の居場所分けてあげる』



 *


 なぜあの時、雨音に着いて行ったのかは自分でも分からない。


 手放しで信用出来るような甘い言葉ではなかった。それは当時も理解していて。知らない人には着いて行くなという当たり前。厳しくも優しかった幼少の躾も、正しく紗世に根付いていたから。


 ただ、雨音が悪い人間だと、危ない人間だというその理性の警告を本能が否定していた。空いた孤独を埋めるには、その時の紗世が縋る先には十分すぎた人の温かさ。


 僕が一緒にいてあげる。


 きっとその言葉も彼の気まぐれだったのだろう。それでもその気まぐれが。間違いなく紗世の心を救っていて。気づいた時には、紗世は『ハイド』の住人となっていた。




 紗世の涙に雨音は動じることなく。不思議そうに、紗世の両目から溢れ出る涙を眺めていた。


「――ゴミ、入った?」

「……、ずるいよ」

「、なんで?」


 情けないであろう己の表情を隠すように。甘ったるい余韻がまだ微かに残る、彼からの最初の贈物へ顔を埋めて。当然合うはずもなかった、オーバーサイズの表現も不足するような男物のパーカー。


「……紗世、僕のこと良い人だって思ってたの?」


 雨音の少しズレた質問に思わず失笑。 顔を上げあえて大袈裟に、首を横へ振ってみせる。


「まったく」

「んははっしょーじき」

「……っふふ」


 くすぐったい。彼の優しい幼気が。目線の揃った空気感が、怖いくらいに心地よくて。


「でも、悪い人だと思ったこともないよ。雨音は、優しい人」

「……、ふぅん」


 変わらず返事は淡白。それすらたまらなく嬉しかった。




「ね、雨音」


 続いた沈黙の後、そっと彼の名を呼んだ。間延びした返事が返る。


 少し言い淀んだ後で、紗世は己の髪に手を触れた。〝漂白〟により色が抜け落ちた毛先。半端者の証明であるそれを見遣り、次に怪訝な顔のまま見上げる雨音に向き直って。


「私も我儘、言ってもいい?」

「……なに?」


 寛容な態度に安堵。委ねるように、紗世は雨音の手を握りそこへ引き寄せた。一回り大きな雨音の掌。スラリと細長い指が、紗世の髪に触れ怖気付いたようにピク、と反射。


「――これ、切ってほしいの」

「…………髪、?」


 頷く。意図は、どうやら伝わったようだった。彼のポーカーフェイスが、少し人らしい躊躇ちゅうちょに歪む。


「隠す気?」

「悪く言えばそうかも。でも、こんな事で気を使われるなんて、私が嫌」


 馬鹿だと自覚はあった。けれど戦えば己の副作用で自傷するなど知られれば、きっと二度と戦場には立たせて貰えなくなるだろう。今紗世がそれを許されているのも、兄の厚意で我儘を受け入れられているだけに過ぎない。死ぬ気はない。けれど戦う家族らにまた守られて、目の前の死を傍観しながら半端に生きるのはそれこそ死ぬ以上の苦痛だ。


「……悪い子だね」

「知らなかった?ね、だからお願い、雨音。これで最後にするから、私の我儘付き合って?」


 返事は、すぐには返らず。けれど沈黙の後続いた、雨音の動く気配に微笑。


「……――じっとしててよ」


 声に頷く。掬われるような、どこか遠慮がちに髪を掴まれる感覚に目を伏せて。最後だ。これ以上、雨音に心配はかけないと、これはけじめ。どうしようもなく優しい師からの自立。もう、一人でも立てるということの証明。



 鼻腔を、鉄っぽい雨音の副作用が掠めて。耳元で髪が切れる音に反射で肩が跳ねた。鋏のような軽い音でない、どこか物騒で危なっかしいその音に傭兵としての死を自覚。


「……」

「…………満足?」

「うん」


 風に吹かれ、疎らに散った髪を見送って。ふわ、と軽くなった頭とともに背筋がシャンと伸びる。まだ微妙な困惑を孕んだ雨音の様子が可笑しくて、紗世は悪戯っぽい上目遣いで笑った。


「――似合う?」

「…………わかんない」

「ふっ、……あっはは、!」


 彼らしい答えに思わず吹き出して。却って雨音は困惑の色を強める。短くなった毛先に触れて、その粗雑なカットラインが更に笑いを煽った。


 *


「――紗世ぉ!……どこだ、紗世!!」

「紗世ちゃん!」


 笑いの波が引いた頃。ふと、耳がいっそう大きくなっていた雑踏に紛れる家族の声を聞き取った。途端に思い出された今朝の戦場。声のする方へ意識が向く。声の主は、蒼樹そうじゅ海月かづき。海月も無事らしいと、また思い出した安堵。


「……呼ばれてんよ」

「……、うん」


 そう言うと、雨音はゆっくり立ち上がって。遠くズレる目線が別れの時を暗示。


「…………雨音、」

「……ん?」


 ありがとう。


 ずっと伝えると決めていた、彼の優しさに甘え、今までずっと言えないでいた。短いようで、何よりも色濃く己に根付いたふた月分の謝意。一拍置いて、どういたしまして、と雨音の返事。


 顔は見せられなかった。けじめだと、せっかく断ち切ったというのに、己は情けない顔をしていたであろうから。だから隠すように、紗世は雨音の胸元へ顔を埋めた。ぉ、と薄い驚きがあがる。


「……そういう日?」

「うん。でもこれも最後」


 ゆったりとした彼の心音。やはり動じない雨音に安心して。最後。最後だ。半端者でいるのは。


 しばらくして、より近付いた家族の声に顔を上げた。時間だと、そっと雨音から離れる。


「……へーき?」

「うん、ありがとう。……もう大丈夫」

「そっか」


 訪れた静寂に少しの気まずさが芽生えて。じゃあ、と向けた背に、さよ、と雨音ののんびりとした声がかけられた。


「またね」


 言葉と、彼の顔に湛えられた笑みにツンと鼻が痛んで。ただそれには気付かないふりをして、紗世も雨音と同じ笑みを浮かべた。


「……、うん」


 また、と手を振り別れ、己を呼ぶ家族の姿を探し路地裏から出て。泣いた目にヒリつく朝日。そこには葬儀屋が守った、死体の居ない平和な日常が流れていた。

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