第三十九夜 旱天慈雨

 絶叫。


 人の腕ほどある長槍は死屍守の頭部に丸い風穴を残していて。そこから侵食されるように巨体が崩壊を開始。吹き出す死体の体液も、蒸発するように霧散。甘く嫌に酸っぱい腐敗臭だけが、一時の墓標のように残留する葬儀場。


「…………」


 死体には目もくれないで。難なく死屍守を屠った少年は、散歩のような軽すぎる足取りで、小刻みに震える紗世さよの元へ歩み寄った。その接近に紗世は気付かず。彼女を見下ろしていた長身の彼は、次に目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「紗世」


 その呼びかけにもしかし紗世は反応せず。代わりにヒクヒクと引き攣ったような呼吸が返事をして。


 ふん、とため息。恐らくただの過呼吸。焦る素振りも見せず、少年はゆっくりと地面に座り直した後で紗世の身体を引き寄せた。


「……わかる?紗世、僕の真似して?」


 長身の彼の身体にすっぽりと収まる小柄な体躯。縋る先を見つけた手がその肩へ爪を立てて。気にもとめず、不規則な震えの止まらない背をとんとんと撫でながら少年は深呼吸を繰り返した。




 しばらくして紗世に正常の呼吸が戻ると、彼は泣き腫らされた紗世の目を覗き込んだ。不安に揺れる少女の熨斗目のしめ色を、地球を閉じ込めたような虹彩が絡めとる。


「僕のこと、わかる?」

「……、ううん」

「自分の名前は?」

「―――、っ」


 また泣き出しそうな表情で首が横に振られて。ただ、そっか、と少年は薄く微笑んだ。


「お前は紗世。『』の、八重桜やえざくら紗世」

「さよ、……紗世……」

「そう上手。――紗世、お前の正義は何?それも忘れちゃった?」



「――あ……っ」



 ふと、頭にかかっていた靄が晴れるように、紗世の記憶は輪郭を取り戻して。次第に遠くなっていた五感が帰ると、目の前の人物の名が自然と口から抜け出す。


「あま、ね……」

「ん、せぇかい」

「なんで、こんなところに……」

「……たまたまね。紗世、弱くなった?それか僕の教え方のせいかなぁ」


 冗談ぽく、程よく感情が抜かれた雨音あまねの口調に懐かしさを覚えて。ふと、戦場の様子を視認し頭を下げるも、なんでもないような彼らしい反応が返るだけだった。話題は止む。


 彼に言いたいことは山ほどあった。けれど唐突に訪れたその機会に次の言葉を迷って。


 そのまま俯いていると、向かいで雨音が口を開いた。


「痛い?」

「え、?」


 顔を上げると彼の目線は紗世の脚を向いていて。深く抉られた患部。まだ出血も止まりそうにない、白っぽい内部が見えるなかなかの重傷。痛くないわけがなかった。


 少しの情けなさに小さく頷くと、ふぅんとまた微妙な反応とともに綿菓子とバニラのような独特の甘ったるい気配が寄る。


「……、?」


 ぐらりと視界が揺れて。次にぬるい体温に包まれる浮遊感と伝わる振動。隅に映った地面が異様に遠くて、やっと己の身体が抱き上げられていると理解。


「へ……ぁ、?」


 予想外の雨音の行動にそんな腑抜けた声が漏れて。紗世の反応に幼いタレ目が不思議そうに向いた。


「なに?」

「……こんなことできたの、雨音」

「……?成長期だかんね」

「……。そっかぁ」


 意味はきっと正しく伝わっていない。しかし誤解を解くのもナンセンスだと大人しく身を委ねて。どこに向かっているのかも分からないされるがままの状態に思い出しひっそり慄く。


 大した会話もなく、連れられた先は外れた路地裏。いつの間にか昇っていた太陽もまだ届かないような薄暗さと静けさ。顔を青くした紗世にしかし構わず、ひっくり返ったビールケースの上にそっと紗世を降ろすと雨音はその向かいでそのまま地面に腰を下ろした。


「見して、脚」

「…………えっ!?」


 動揺が今度ははっきりと声に出て。はやく、とでも言うように怪訝そうな童顔が見上げる。


「応急手当ね。家帰ったらあの……赤いお医者さんにちゃんと治してもらってよ」


 言いながら、上着の内ポケットから取り出された包帯。らしいその持ち物に彼の本職を再認して。断る理由も見つからなかった。だから彼の決して良いとは言えない手際で、しかししっかりとキツく巻かれるそれをぼうっと眺めながら紗世は小さく呟いた。


「……なんで、ここまで……?」


 不格好な包帯の結び目に目線を落として。


 紗世は、自分の怪我すら放置して家族に叱られる彼の姿しか知らない。だからこれは、ただの気まぐれでは表しきれない言ってしまえば異常行動。そもそも、紗世は裏切り者だ。自分から傭兵に留まろうとしておきながら、結局その正義に染まれず逃げた罪人。そんな半端者に情けをかけるような人ではなかったはずであるのに。


 無言が返った。遠くの雑踏がやけに大きく聞こえて。


「……贖罪、?」

「へ……」


 ようやく返った返答は、降りた沈黙の重さに対し酷く軽かった。気を抜けば聞き逃してしまいそうな、独り言のような口調のそれを、しっかりと耳にした上で飲み込めず聞き返す。


 贖罪。犯した罪を償う行い。罪。


 紗世には、雨音のこれが何に対する償いなのか分からなかった。だって、それをするべきなのは紗世のはずだったから。雨音は何の罪も犯してなどいない。


 固まった紗世に、雨音は変わらぬトーンで続けた。


「僕が、紗世を戦場に縛った。紗世に戦場を教えた。紗世は別に、知らなくてよかったのに」

「――っ、待って、」


 咄嗟の制止。雨音の言葉は素直に止まって。しかしその余韻は紗世の頭で響くように重く渦巻いた。


「雨音は……私を助けてくれたでしょ?強くしてって……戦い方だって、私が、雨音に頼んだんだよ……?雨音が謝ることなんて何も――」

「でも紗世はもううちの子じゃないじゃん」


 ぴしゃりと。突き放されるような言葉の冷たさに喉が締まる。


 正論だった。傭兵に救われたと言っておきながら、今自分が身を置いているのは『墓守』で。雨音がその名を使うのも、既に紗世が傭兵ではないという証明だ。体内で血が冷える気配。同時に目の奥でじわりと熱が集中。溢れそうなそれを押し込めるように、紗世は咄嗟に口を噤んだ。


 泣くな。己にその資格はない。正しいのは雨音だ。彼の言葉に寂しさを感じるのはそれこそ、加害者の傲慢な我儘。


 情けなく、黙り込んだ紗世にしかし構わず、変わらないふやけた口調が困ったように小さく唸った。


「……ちがうなぁ、間違えた。……話すの難しい、」


 問い返す声は音にならず。腕を組んで、見たことの無い真剣な表情で彼はあのね、と再びゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……僕じゃ、紗世を正しく救えなかった。支配人の言う通りだった。紗世はうちに置くべきじゃないって。葬儀屋に置くなら、初めから『墓守』に預けるべきだって。……ほんとは言われてたんだけど。僕が我儘言ったの。うちの子にしたいって」


 理解は出来なかった。雨音の言葉にただ困惑。雨音は続けた。


「紗世のこと助けたの、全部僕の好奇心の延長ってゆーか。助けようって、最初っから思ってたわけじゃない」

「じゃあなんで……?」


 ようやく口に出せた疑問。彼の双眸が下を向いた。


「――父さんみたいになれるかなって思ったの。紗世のこと見てたら、昔のこと思い出してさ。だから父さんが僕を助けてくれたみたいに、僕も紗世を助けられるかなって。柄じゃないって自分でも思う。けど、僕が間違ってるとも思えなかった」


 彼の父親。話で聞いたことはあった。ある時また彼の気まぐれで、ちらと話してくれた彼の過去。孤児だった彼を拾い育て、名を与えた兵士。


「なんだっけ名前……海月かづき、?と話してみて気付いた。間違ったなって」

「ッ、そんなこと……」

「自分のことだから、紗世は分かんないかもしれないけど。……なんて言ったらいいのかな。今の方が、紗世っぽい?似合ってるって気がする。だから……ごめん」


 言葉を失った。受け取る権利などない謝罪に上手く息が吸えず。遅いと分かっていながら、遮るように首を振る。


「なんで、雨音が謝るの……何も……間違ってなんかないよ。……私が救われたの。……あなたのその我儘に私は救われた」


 だってあなたが拾ってくれなかったら。あなたの言う我儘がなかったら。


 きっと自分の正義と向き合うことも、家族を守ることもできなかったろう。


「……そっかぁ」


 やはり興味はないように。変わらないポーカーフェイス。でも少し、ほんの少しだけ、笑っている気がした。


 きゅ、と膝の上で手を握った。気を抜けば溢れそうな涙を堪えるように、鼓動に合わせて響く鈍痛とかつて触れていた体温の余韻に意識を向けて。


「……謝るのは私。せっかくくれた居場所を、怖いなんて曖昧な理由で無駄にしてごめんなさい。あなたの正義を裏切って……ごめんなさい」

「……ん、いーよ。……許したげる」


 重い空気を晴らすような。なんでもないと言うように、いたずらっぽく言ってみせた彼の姿に人知れず寂しさが押し寄せた。もう己は、この人の下に居られないのだと、頭では理解していたことが、はっきりとした現実として可視化されたような気がして。最低なのはわかっている。この言葉を聞き入れてくれるだけで、だってどれほどありがたいことか。彼なら、己のような裏切り者など片手間で殺せるのだから。


 ただ、彼の傍にいるのが純粋に好きだった。どうしても、この情を消したいと思えなかったのだ。


 ふと、名を呼ばれて。落ち着く声だ。こうして呼ばれることも、もうなくなるのだろう。


「……『墓守』、楽しい?」

「……、……うん」


 思っていなかった問いに一瞬詰まって。しかしすぐにそう頷く。


 まだ『墓守』で過ごした日は短い。けれど、それでも絶えず賑やかな『墓守』は、間違いなくとても楽しく幸せで。返答に、そっかぁと雨音は眉を下げて微笑んだ。


「よかったね」


 家族しか知らないような表情だった。年相応、あるいはそれより幼い。安心したと。心から思われているのが真っ直ぐに伝わる深い慈愛のような。まだこの顔を向けてくれる彼の優しさに鼻の奥がツンと痛む。


 じゃあ、と雨音は続けた。


「──もう一人も、怖くないね」


 一拍置いて、目を見張った。その問いの意味を理解して、ついに堪えきれなくなった涙が一筋頬を伝った。

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