第三十八夜 孤独の戦場
ばくんと心臓が跳ねた。不意をつかれた背後。耳にくすり微笑が届く。即座に感じ取った悪意。振り返るより早く、
「まあ、乱暴ですね……。これだから葬儀屋は」
そう腕一本で受け止められた海月の攻撃。ダメージはまるでなく、トーンの変わらない涼しげな声のため息。
「――ッ、な」
慌て不格好に飛び退いて。ようやくしっかり捉えた人物に言葉を失う。
姿を隠すような真白のロングコートと黒いシルクハット。またその下、異質な存在感を放つ鳥の嘴を象った仮面。片側のみ晒された目元は細く笑みを湛えて。己が見上げる程の背丈。見てわかる、常人ではなかった。
教団。証明はできず不確定。しかし確実な説得力を持つ彼の見て呉れに後ずさりそっと顎を引く。仮面のその奥にふ、と嗤う気配。呆れた、とでも言うように腕を広げ彼は言った。
「あぁ、可哀想に。それが初対面の者にする態度ですか」
「――アンタ、教団の人だろ。なんのつもり?」
内の怯えを隠すよう低音で凄む。あの暗い影は恐らく彼の副作用だ。その上で死屍守を使役しこちらを狙うのならば。問いに返された返事はしかし楽しげに弾んだ。
「おや、ご存知とは。もしやご興味が?歓迎しますよ」
「……馬鹿にしてんの?……さっきの黒いのお前だろ、なんのつもりだっつってんだ」
「そんな、馬鹿になんて。同情してるんです、葬儀屋に魂を売った愚かな人形にね」
「……はあ?」
こちらの鋭角な語気は揺蕩うようにふらりと躱され。隠れた表情で彼ははっきりと邪悪な笑みを浮かべた。
「人形狩りに参りました。あなた方のような不良品は邪魔らしい」
言い切って。固まる海月を差し置き彼は指揮者のように手を振った。彼の足元の影。それがどろりと広がり暗い水の再現。不規則に波打ったそこから複数の死体が這い出す。言語能力の失われた死体の叫びが脳に轟いて。
「――ッ、」
顕現した死屍守の進攻に少しの動揺。だが脱力した殺意のデジャヴへ、戦闘へ意識の向いた身体は至って冷静に死体の間を縫って独行。立ちはだかる腐肉を食い破り、海月を掴もうと伸びる、見た目に反し脆い腕を捩じ切るように捻りあげる。
「何が人形狩りだ。不良品だとか、訳わかんねぇこと言ってんなよ」
「……本当に、可哀想だ。わからないのですね、葬儀屋の邪悪さが」
「……チッ」
話にならないと、己に向けられた追跡を回避し詰める彼との間合い。恐怖は薄れ、怒りももはや無に帰すような。目の前の人間に向ける感情全てが無駄であると。軽い驚きを見せた彼の崩れた態度につけ込み跳躍。次に体重を乗せ振り切った脚は高い位置の
「……困りましたね。戦闘は苦手です」
「ハッ、……だからって死屍守操って戦わせてんの?笑えねー。邪悪とか、どの口が言ってんだこのサイコ野郎」
煽り返すように、ただ警戒は解かず嘲た視線で見下ろして。追い討ちに足を踏み込んで直後、彼は変わらぬ表情で不敵に首を傾げた。
「俺が?いつ彼らを?」
「……は、っ?」
ふと。
海月の足元で影が黒ずみ微かにうねる。生物の如く蠢いたそれは次に意思を持ち襲いかかるように膨張。
動揺による一瞬の気の緩みを無理やり引き締め緊急回避。飛び退いた低い姿勢のままそれと視線が絡む。死屍守、ではなかった。線の細い真白のシルエット。目線は己より低い。――人間。
その姿を確と捉えるより早く、その奇襲の次の衝撃にぐわんと視界が点滅した。首元に響く鈍痛。次第に傾く体幹。
何が。何をされた?
奇襲は止まず。間髪入れず身体に叩き込まれる武力。人影の正体すらはっきりと視認できないまま振るわれるそれを防ぐのがやっとな。
やがて撃たれるような腹部への重い衝撃。腹が内部から冷えていくのを自覚して初めて、膝を食らったと遅れた理解。呼吸を押し止められるような浮つく苦しさに嘔吐く。傾く視界に映り込んだ長身の彼の、その口元を隠す嘴の裏に
「彼らを操るなんて、そんな大層なことまで出来るわけないでしょう?俺はただの召使いですよ。――ねぇ、【
崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ後で、そう視線の向けられた背後を海月は振り返った。「【牧師】」と呼ばれた人物。目が合っているのか分からない、ただ静かに己を見下ろした鳥の仮面。仲間らしい、彼と似て非なるドレスのような白装束。先の猛攻の主とは思えぬ装いの女。おちゃらけたように話を振った彼へ、少し掠れ気味の大人びた女声が静かに言った。
「…………その自覚があるのなら戦闘に首を突っ込むなと、私は何度も言ったはずです、【
ぴしゃりと戸を閉めるような声色。その暗い硝子の目は既に男の方へ向けられていて。
「はは。そう怒らないで。俺は姫君のサポートをしたまでです」
「……そうですか。帰りますよ。姫君を連れ出したこと、私はまだ許していない」
こちらに興味など示さないような仲間内だけでの会話。用は済んだ、とでも言うかの如く言葉を吐き捨てて。高めのヒールの靴音とともに白装束が翻る。
「――ッ、まて……、」
咄嗟に声に出した制止に沈黙が降りた。二人分の威圧感。逃がす訳にはいかないと、目前の敵へ向ける視線を研いで。けれど海月一人に務まる相手でもないと、すぐに明瞭な自覚が理性的に海月を落ち着ける。
彼らを倒すのは今じゃない。先の口ぶりからこちらを、少なくとも
【牧師】が彼の傍に寄った頃。這い蹲るこちらを小馬鹿にするような失笑が降った。
「あぁ、そうでした。失礼。一つ忘れ物が」
彼女からもろに受けた衝撃にまだ脳は揺れていて。身体は言うことを聞かず地面に縫い付けられたように動かない。冷たく震える手足に無理に力を入れて彼を睨め上げると、彼はその頭部に得意げに乗るシルクハットを取り、無駄な上品さで大袈裟な礼をした。
「――俺は『
まるで公演後の演者の。長い手足を綺麗に揃えた所作の整ったそれ。演出のように【童子】の白装束がぶわ、と膨らむと、ともに地面に広がった影に溶け込むように二人の姿が消えた。
*
「……かづ、ッ……、」
地中に消えた彼の名を叫びかけて。その動揺と生じた油断につけ込むように紗世の身体は死体に捕らわれた。人体を玩具のように掴む規格外の掌。背骨をへし折られるのも時間の問題だと、しかし至って冷静に紗世は死屍守の腐肉を睨んだ。
辛うじて動いた手で死体に触れる。ぐ、と力を込めると副作用が赤黒く濁った屍肉の色を漂白した。
懲りず、無生物的に暴れる死屍守の追跡から逃げ続けて。明らかに普通では無い【戦士】。海月の安否も不明な今、一人残された地上は酷く心細い。
ただ。キッと目の前の死体を睨む。ここで見逃せば、後に賑わう駅前は一瞬のうちに地獄と化すだろう。逃げる訳にはいかなかった。そのつもりも、紗世にはなく。
だって。兄に誓った、あの言葉に嘘は無い。
乱暴を繰り返す死体。己の身長と同寸の細身の長槍。よく手に馴染むそれを軽く握り直す。同年の師に教わった
戦場は、怖くないと言ったら嘘になる。次の瞬間命があるかも分からない、ここは万人の葬儀場。
すぅ、と朝の空気を吸い込んで。咆哮のような遺言に応える。こちらの覚悟も既に決まっていた。
「――ごめんね。素人だけど、許してね」
再び。葬儀の開戦宣言の後、脱力した死体の四肢へ、教え込まれた武術の一つ一つを確かめるように叩きつける。
死体の巨体に対し己の体躯は有利であった。粗雑な攻撃の予備動作。間を見極める接近。
*
死体の人外的な動きに隙を見出し武器を振るって。突き上げるように、やがて赤い槍先が死屍守の胴を破った。確かな手応えに一瞬緊張の緩和。
地面に降り立ち一歩後退る。死体から意識は離さず、ただゆっくり距離をとって。目を凝らした。
崩壊が始まらない。
感じ取った異変にいち早く跳躍。直後、地に伏した死体の首が操り人形のように
増した無質量の殺気。頭上に振り上げられた攻撃を弾いて。その影に隠されていたもう一つの殺気に気付くのが遅れる。
回避は間に合いそうになかった。咄嗟の護身に副作用を行使。
しかし。
「……ぇ、……ッ」
突然、ビリ、と指先が痺れた。次に脳へ割れるような鈍痛。異変に思考が止まる。立ち尽くし、状況にすぐ我に返るも遅く。避け切れない死屍守の爪が刃物のように、紗世の露出した脚へ到達。
悲鳴は声にならず。投げ出された血液が地面に黒っぽい染みを作った。
力を入れられず腰から崩れ落ちて。ただその痛みすら今はどうでも良かった。徐々に自覚される違和感の正体へ、そっと血の気が引いていく気配。ぼやけていく思考の輪郭。嫌な冷や汗が背筋を伝った。これ以上の戦闘は避けろと、本能からの警告。原因に一つの心当たり。
紗世は元ゲンガーだ。故に紗世の持つ副作用は本来無効の抗体が突然変異により無理やり後付けされて自覚症状を得た人外の機能。まだドールとしての日が浅い紗世の身体では、縛りとして副作用の使用に伴う代償が自身に跳ね返る自傷となる。つまり。これ以上戦闘を続けるには、紗世は消耗しすぎていた。
自傷。紗世の場合、漂白による記憶の忘却。
唇を噛んだ。半端者の自分を呪って。ただ死屍守の猛攻は止まず。鼓動に合わせて止まらない流血にもどうにか冷静を保とうと、混乱を押し込みながら回避に尽力。転げ落ちるように逃げ回ってその時、風に靡いた自身の髪が視界に入った。
「――、ぅ、あ」
二つに結ったその毛先。ちり、と色素が空中に溶け出すようにそこが白く色を失っていた。
「……ぃ、……や」
誤魔化せない自覚に目の前が真っ白になって。脳へ一気に詰め込まれた怪我の痛みと死への恐怖。しかし焦るほど、大切な記憶は砂の城を崩すように無慈悲に輪郭を手放していく。手足は他人のもののように震えた。呼吸はしゃくり上げるように狂って。先の冷静を取り戻すのは不可能らしかった。今はもはや立ち方すらも忘れて。
錯乱。涙で歪んだ視界で死体の接近を知る。戦場の中心。座り込んでしまった身体は当たり前のように動かなかった。
「――、っ……」
今際に浮かぶ家族の、ただその名が声になることもなかった。名前が、顔が、声が。家族を誰一人として思い出せなくて。目前まで死が迫っているようだと、それすらも他人事のように。ただ明瞭な孤独に底なしの恐怖と寂しさ。
だれか。
だれか。
だれか。
──刹那。
重たい風切り音。その巨体の恐らく頭部の中心を、投擲された太い血色の長槍が穿いた。
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