第三十七夜 誘い

 視界が震えるほど白い壁。寒色の入り交じるステンドグラスが人工光を妖しげに反射して。明るいとも、暗いとも形容し難い異質な広間に響く硬いヒールの地団駄。


「また。また殺された!ボクの可愛いきょうだいが殺されたッ!」


 幼く高い少女の声が籠る低い天井。の死を嘆くというより、を無くし癇癪を起こす幼子のような声。


「……はしたないですよ【弟姫】。彼らは裏切り者です。もう忘れなさい」


 宥めるように、大人びた声がそう穏やかに諭す。小柄な身体を抱擁する手練た指先に【弟姫】と呼ばれた少女は委ねて。


「でも【牧師】、これで何人目だい?――ボクはあの葬儀屋が憎くて仕方ないよ!この感情ってのを、一体どう鎮めろと言うのさ!」


 そう縋るように、己を優しく抱いた【牧師】を見上げ。全身を覆う揃いの白装束。嘆く少女に向けられる表情も、鳥の頭を模した仮面がひた隠す。


 口を開きかけた【牧師】に変わるように。その後方、同じシルエットがふんと笑った。


「簡単です。あれは皆殺しにすればいい。……葬儀屋の穢れた自我を持った操り人形共だ。お母様も褒めてくださるだろう」

「――っ!お母様が!?」


 中性的な声で告げられた提案へ高揚した少女に【牧師】は軽く額を押さえて。ため息の後、仮面の奥で鋭く睨む。


「あまりこの子に物騒なことを教えるんじゃありません、【童子】。悪影響です」

「いいじゃないですか。近い未来の話ですよ」


 固く咎める【牧師】を嘲笑うように、【童子】は続けた。


「お母様の計画は完璧です。邪魔な芽は取り除かなければ。そうでしょう?」



 ***



 九月 日


 帰ってすぐ、疲れて寝ちゃた。生き残った二人は、そうじゅ ちゃんが治療してくれたおかげで無事みたい。


 よかった。






 早朝。異様な圧迫感と寝苦しさに目が覚めて。片腕の不安定で身体を起こし枕元を探る。起動したスマートフォンの微量の光に照らされる窓のない自室。腕の固定具をきつく締め直した時、その薄暗さの中圧迫感の正体が動く。


「……風邪ひくよ、ハル」


 彼に向けた独り言に返答は無く。とっちらかったベッドは無人。遠慮を知らない活発な寝相で健やかな寝息を立てる未遥みはるの無防備さにやれやれと呆れて。雑にタオルケットを投げかけ、海月かづきはそっと布団を抜け出した。床に放られたシャツに腕を通し、冷たいドアノブに触れる。時刻は朝の五時を回った頃だった。


 普段ではまだ暗い『墓守』の朝。しかしその廊下は既に人の痕跡が灯る。


「……あれめっちゃ早起き。おはよ紗世さよちゃん」


 共有スペースの扉の奥、控えめに照らされた広いダイニングテーブルの定位置に一人紗世の姿があった。寝癖一つない整えられた身なり。おはよう、と隠しきれない上品さの挨拶が返る。海月もまた、その足で彼女の向かいの定位置に着いて。同時に、紗世は机上に広げていたそれをぱたとさりげなく閉じる。


「早いね、海月。目、覚めちゃったの?」

「……ハルのせいでね、あいつ寝相悪いの」


 そのくせ頑なにベッドを譲りたがらない謎の執着に思い出し失笑をこぼして。楽しげに微笑みを向ける紗世の手元へ海月は視線を落とした。


「……で、紗世ちゃんはこんな時間から何してたの、それ」

「日記。最近忙しくて書けてなかったから」


 感嘆。さすがの真面目さに腑抜けた声が漏れて。


「……あ、ごめん見ちゃダメなやつだった?」

「うーん……中はまだダメ。私が死んだらいいよ」

「んはは、何十年後?それ」


 悪戯っぽく笑った紗世に、海月もそう同じ温度の微笑みを返す。


「……あれ、てことは蒼樹そうじゅさん戻ってきてる?」

「うん、今部屋で寝てる。……目、覚めたから私は起きてきちゃった。蒼樹ちゃん、やっと眠れたのに邪魔したら悪いでしょ? 」

「優しー」


 心地よい静けさ。間を繋ぐ秒針の音に欠伸。


「……ね、海月」

「ん?」


 そっと呼ばれた名に反応。軽く伏せられた表情は凛と大人びていて。ふと、向けられたそこに小悪魔的な微笑が混ざった。


「――私のこと、助けてよかった?」


「…………は、」


 急な問いかけにただそう声が漏れる。そんなの。即答できる問いだ。しかし前触れなく投げられた重量に動揺。喉が詰まる異物感。


「なん、どしたの急に」

「なんとなく。気になっただけ」


 再び落とされた視線。まだどこか答えを期待するような彼女の表情に口を開きかけて。


 その時。部屋の隅に置かれた固定電話が鳴った。突然の着信に一瞬の静止。我に返り、席を立つ音がバラけて揃う。先に電話を取ったのは紗世だった。


 電話越しの丁寧な仕草に彼女の育ちの良さを再認。ここは任せるのが正解だろう。〝兄様〟と言うのが聞こえた。相手は逸世はやせらしい。


 しかし、徐々に彼女の表情に影が落ちる。不穏な気配を感じ取り、失礼します、と電話を切った紗世へ海月は歩み寄った。


「どうしたの、死屍守?」


 俯きがちに電話を見つめながら頷いて。珍しい、と海月は壁に掛けられた時計を睨んだ。死屍守の活動時間にはもう遅い。その違和感は紗世も感じ取っているらしかった。不安そうにこちらを見上げる表情は硬い。


 彼女を落ち着けるように、意識して口調を緩める。


「逸世さん、なんて?」

「すぐ向かってくださいって。被害者が出る前に」


 真剣な少女の低音。心配は杞憂。


 ここから先人間の活動時間、その中心で暴れられてはパニックになりかねない。たとえそれが【戦士】一匹であろうと、人間に対する彼らは皆平等に死神である。


「……行こうか。場所は?」

「駅の方。急いで」


 *


 ──現着。平穏を続行する戦場。対象の姿は未だ見えず。ただ人のいない黎明の冷涼な静けさが二人の精神を研ぎ澄まして。紗世の名を呼ぶと切れ長で大きなつり目が向いた。


「僕から離れないでね。……怖いから、僕が」

「……頼もしいねって言おうとしたのに」

「だって僕に守られるような子じゃないじゃん」

「私だって女の子だもん」


 演技っぽい拗ね声。緊迫した戦場に浮つく軽口。適度に解れた笑顔で、しっかりしてよね、と紗世は周囲に意識を向ける。


 つられて意識を移して。奴らは死体だ。太陽の元を好む個体は稀有。ならば考えられるは地下。真面目に、海月は声のトーンを下げる。


「……地下行ってみよ。多分――」


 その時。硝子の割れる音と共に死人の声が静寂を切り裂いた。


 大胆に地面を鳴らし現れた多脚の死体。対峙した気色悪い生命体にうげ、と顔を顰める。


 対象は【戦士】。動揺も間もなく瞬時に切り替わった戦闘態勢。腰を落とした海月の横で、紗世の胸元から赤色が抜け落ち槍を象った。


「……援護お願い。私がやる」

「任して」


 ――開戦。己に向けられた先手を躱し、ワラワラと伸びる蜘蛛のような多脚を破壊しながら速攻。欠損の度生え変わるそれは紗世が再生と共に断ち切って。頼もしさに思わず笑いが漏れた。


 対象の核は恐らく標準の胸部。高い位置にある巨体のそれに小柄な紗世が到達するにはやや分が悪い。


 死屍守の意識がこちらを向く。好機。紗世の接近を隠すようにその目前に躍り出て。苛立ち暴れ回る多脚をへし折るように足払う。


 崩れる巨体の体勢。激昂の抵抗。構わず、紗世は涼しげに飛び上がった。軽やかな舞いの如く追撃を躱し、彼女と死屍守の間合いがぐいと詰まる。


 対象の上空。滞空した紗世の握る槍は真っ直ぐにその核を向いて。落下。がら空きとなったそこへ鮮やかな赤色が突き刺さった。


 。胸部から噴き出す至極色の体液。迅速な葬儀の終了。やがて塵となり崩壊する死体へ手を合わせ、再び訪れた静穏にほう、と揃って息をつく。


「……他に報告は?」

「これだけ。一応周り、ちょっと見てから帰ろ?」


 脅威のなくなった平穏に気が抜けて。なんて事ない、はぐれた【戦士】の小さな葬儀。訪れた朝の清々しさと空腹に笑い合う。



 ――刹那。


 微かに撫でるような、冷気を伴う怖気。肌が感じ取った不穏な気配。紗世と目が合ったのは先か後か。本能が緩んだ筋肉に命じた咄嗟の跳躍。直後、びたびたと水が滲み広がるように元いた足元の地面が暗く陰った。


「――ッ、!?」


 どろりと展開した暗い水溜まり。僅かに波打つそこから這い出でるように異形の生命体が顕現。グロテスクな死人の声が脳に轟く。


 死屍守。ただ、なにか様子がおかしい。


 見た目は普通の【戦士】だ。しかし腐った皮膚を破るように内容物が突き出した腕。それが糸に吊られたようにだらりと脱力した殺意を振るう。


「……ッんだ、こいつ」


 焦燥に口内で舌が弾けて。揺れる視界の中紗世の安否を見渡す。


「――海月!」


 声の方を捉える。【戦士】の奥。プログラムじみた攻撃を受け流しながら、その巨体を挟むように紗世もまたこちらを心配そうに伺っていて。傍に戻ろうとする意思は死屍守に拒まれ、防御に振り切った姿勢でやむなく後退。孤立は避けたかった。しかし二人を分断するように、無慈悲に振り下ろされた歪な拳は容赦なく地面を叩き割る。


 粉砕された瓦礫は飛沫のように黒く溶けだして。かつて死屍守が這い出したが亀裂から再び滲み出る。その間約数秒。


 回避は間に合わなかった。崩れた体勢のまま、海月の身体は地面へ呑まれるように落下した。





「……まっずい」


 重力に引かれ、降り立った先は変哲のない地下空間。営業時間外、下りるシャッターの物寂しさ。


 恐れていた孤立に背が冷えた。まだ紗世は地上にいる。彼女なら、と手放しにできる信頼も揺らぐほど、あの【戦士】が纏っていた威圧感は異常。その行動も、あまりに理性的で知能があった。極めつけに、操られているような攻撃の無生物感。明らかに意図的な分断。死屍守が這い出たあの暗い影の正体も未解明。


 数日前の会話を思い出す。燈莉ら三人が担当した葬儀の依頼。未だ犯人不明、女性ばかりが狙われる連続殺人事件。身体の一部分が欠けた遺体。教団の人体実験。


 教団の、復興。


「──紗世ちゃん!」


 脳裏を過った最悪の想像に無意味に怒鳴って。返事が返るわけもなく、ただ嘲笑うようにこだまする無人の証明。


 焦燥は消えず。しかし却っていくらか落ち着いた頭が出口へ向かうよう足へ鞭打つ。早く合流しなければ。被害の拡大はもっと最悪だ。


 ふと。


「……〝さよ〟。やはり、良い名ですね」


 背後。若い中性的な声が不釣り合いな丁寧さでそう言った。

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