第三十二夜 異変、音もなく
塗られたような闇の奥、蠢く死屍累々の影。
「……群れ」
「想定外だね、あの量は」
不快感を隠すことなく、前髪から除くオリーブ色の片目は死体を敵視し鋭利に細められていて。
「……あんまりモタモタしてらんない。ここはおれが何とかします。海月、
迅速な意図の理解。了解の声が揃い、合図に、未遥の拳銃が空を撃った。
死人の、目、目、目。向いた虚ろな憎悪に
「おれと二人、もし不服だったら許してね」
「まさか。頼りにしてるぜ、
楽しげに細められた片目。それに共鳴するように、真実の送り火が暴力的にうねった。
業火の間を縫い、逃げ惑う人の形を象った腐肉を掻き分けて。明々と燃える炎を背に、奥の闇に吸われるように疾走。海月の隣、心配そうに紗世が尋ねた。
「――ねぇ、大丈夫なの。未遥と離れちゃって。バディなんじゃ……」
「大丈夫。僕と未遥、
廊下の突き当たり。階段を駆け上がり、未踏のフロアに飛び入って。速度は緩め、未だ姿を見せない人の気配へ神経を研ぐ。ふと、紗世の隠した本音が脳裏に過ぎり、海月は揶揄うように笑う。
「……あ。……もしかして僕と一緒がやだ?」
「っ、違うもん……仕事でしょ。そんな理由で放棄する訳ない」
「んはは、いい子ちゃんだね」
気の抜けた返事に、紗世は人知れず眉を顰める。その反応が可笑しくて、海月はまたヘラりと笑ってみせて。嫌われている自覚も、その原因も把握済だ。もとより好かれようが嫌われようが年下に興味などない。恐らく嫌われる原因となった一言も、彼女の頭から死を遠ざけるための冗談だ。……と口に出せば終わらぬ叱責を受けることは目に見えているから口を噤んで。
フロアは静まり返っていた。二人分の靴音だけが固く響く廊下。死屍守も、人の気配もない。
「……死屍守、一階に集まってたのかな。ちゃっちゃと回って次――」
見渡しながらそう言って、突如、紗世が顔を上げた。何かに反応したように、何も無い一点をただじっと見つめていて。特に異変は感じなかった。首を傾げ、声をかけようとした海月を置いて、次に紗世は弾かれたように駆け出した。
「……えっ、紗世ちゃん!?ちょっ、――待って!」
足を止める様子はなく。あっという間に突き放された距離に、海月は慌てて後を追った。
*
「――チッ、どっから湧いてんだコイツら……!」
一階。未だ数の減らない死屍守に真実は舌打つ。
二手に別れてから既に三十分が経とうとしていて。しかし燃やせど、嘲笑うように死者は紅炎の中を生身で踊る。
回数も忘れた弾の装填。ふと、後退した未遥の足が硬い何かに乗った。
「………、………え」
声が漏れる。不思議に踏んだ何かの正体を捉えて硬直。石のようでありながらゴツゴツと所々が鋭利に尖った、小さくも存在感のある物体。見慣れたくはなかった。ただ仕事柄、見慣れてしまった白色の塊。
骨。ここにあるはずのない、人間の、骨。
ヒッ、と喉が鳴った。これ一つでは無い。視界の不明瞭な煙の中で目を凝らして、そこには無数の人骨が放られた玩具のようにばらばらと落ちていた。
思考の停止。あまりのイレギュラーに、あろうことか未遥は戦場の中心で呆然と立ち尽くした。
「……?――っ、未遥!!」
「……ぁ」
気付いた頃、目前に死屍守の爪が迫っていて。避けねばと、頭は警鐘を鳴らす。ただ身体は動かなかった。
先の動揺にまだ弾の装填は済んでいない。明瞭な死の予感。回避はもう間に合わないと固く目を閉じる。
衝撃に、脳が揺れた。死の気配が遠のき、代わりに高めの人の体温が触れていて。遅れた音と鈍痛に、ようやく真実が己を庇って突き飛ばしたと理解した。持ち合わせた瞬発力と、海月ほどまではいかずとも、しっかり鍛え上げられた肉体の重量。それらが最大出力でぶつけられた遠慮のない突進に、気の抜けた未遥の身体は容易く吹っ飛んで。
「──なにやってるのばか!」
「ッ、ごめっ」
焦燥を含んだ怒鳴り声に我に返り、身体が冷えるのを感じながら慌てて謝罪。戦場のしかもど真ん中で立ち尽くすなどあってはならない自殺行為。副作用があるとはいえ、こんなくだらないたかが【戦士】の群れを相手に消費するのはナンセンス。
「平気。怪我は」
「な、ない」
「良かった。……未遥、一旦逃げるよ。なんか変だ」
飽きず迫り来る死屍守を炎で遠ざけて。煤臭い黒煙の中、紛れるように二人は走り出す。
「──っ、なぁ、真実。あれ、ほんとに死屍守か?」
足は止めず。焦りに呼吸が狂い、気道が冷えるのがくっきりとわかって。隣で、嫌そうに真実が顔を顰めた。
「そうって信じたいけど……あれじゃなんとも言えない。初めてだ、こんなの」
真実の反応に嫌でもアレの正体を理解。執拗い追っ手を撒き、崩れた瓦礫の傍でようやく息をつく。頭を整理しようと生まれた沈黙を、未遥はおずおずと破った。
「……やっぱり……人……?」
「違うよ。あれは人じゃない。……少なくとも、仮に人だったとしてあれはもう元には戻せない。おれらの葬儀は正しい」
食い入るような否定に返す言葉はなかった。ただ現実から目を背けるように俯いて。
「……海月と紗世ちゃんが心配だ。どっかから回って合流しよう」
無言の了解。念の為と海月への連絡をスマホに残し、二人は迂回路の探索へ向かった。
*
想定の倍速い疾走に追いつくことすら一苦労で。ようやく手の届く範囲まで縮まった距離。無遠慮に、海月は紗世の腕を掴み上げた。
「――っ、待てってば!」
衝撃に漏れた小さい悲鳴を無視した荒っぽい制止。間違えば折ってしまいそうなほどの腕の細さに動揺し少し力を弛めて。目が覚めたようにすんと落ち着いた紗世に狼狽。
「どしたの。危ないでしょ一人で行ったら」
「……だって、声が」
「こえ?」
声なんて聞こえていない。断言できた。だって、どこかで鼠が歩く音すら騒音と錯覚するほどの静寂だった。声なんて聞こえて、それに気付けないわけがない。
海月の反応に、聞こえなかったのか、と紗世は焦燥を見せる。
「……ちなみになんて聞こえた?」
「たすけて、って。女の人」
頬が引きつった。あまりにも典型的すぎるホラー展開に笑いさえ生まれる。
「紗世ちゃんおばけ信じるタイプ?」
「馬鹿なこと言ってないでよ本気なの!なんで聞こえてないの!?」
訴える必死さに脳は切り替わって。大して彼女のことを知っているわけではないが、この状況で冗談を言うような人間だとは思っていない。それに、今はこれすら手がかりにせざるを得ないほど情報が不足している。
「ごめん、ごめんなさい。……けど一人で走ってくのはやめて欲しいかも。危ないから。手、繋いどく?」
「……ごめんなさい。……あと手は嫌」
「よね」
正直な反省の態度に吹き出すのを必死に堪えて。
「とにかく、こっちに人居るかもってことだね。僕は分かんないから案内してくれる?そろそろ未遥っちにも連絡して――」
そう言ってスマホを取り出そうとして。刹那、不穏な雑音とともにぐらりと紗世の体幹が大きく揺らぐ。
「……ぇ、」
先を確認しようと一歩歩みを進めた紗世の足元。暗がりの、その視界の悪さに隠れた廃墟の老朽した足場が、図ったように音を立てて崩落した。
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