第三十夜 逮夜 ②

「――っぐ、ぉ」


 腹が冷える。吐き気を催すほどの衝撃に堪らず膝をつく。漸く、燈莉とうりの膝蹴りを食らったと脳が理解した。


 声が出なかった。流れる冷や汗にはくはくと浅い呼吸をするのがやっとで。


「立て」


 燈莉の低音が呼ぶ。動けるはずもなく、ただ海月かづきは燈莉を睨め上げた。


「――っに、……すん、」

「聞こえなかった?立てよ」


 海月を見下ろす燈莉の目は酷く据わっていて。重いため息の後で、彼は目線を合わせるようにしゃがみ込む。


「――お前、まさか僕が死刑を免れたいから怒ってるとでも、本気で思ってんの」

「……そ、ゆ……わけ、じゃ、」


 逸らして、ふと、雑に顎を掴まれ視界を奪われた。人形のような、奇麗すぎるその目が突くように己を映している。


「僕は暴力が嫌いなんだ。……けどお前は、こうでもしないと分からないんだろ」


 掴む手に力が入って。衝撃に備え目を固く閉じると、次に燈莉の気配が離れた。


「……お前のその考えの根元にあるのは自己犠牲だ。葬儀屋に於いてそれは正義なんかじゃないただの自己満足なんだよ。いいか、次、俺の前で自分の命を軽視してみろ。――俺の愛は重いぞ」


「……、はい」


 掠れて。他に言葉は出なかった。ただ目の前の大人に対する恐怖が渦巻く。


 腹部の痛みは引いていた。思い出したように深く息を吸い込むと同時に、燈莉は気が抜けたように息を吐き出して。フゼアノートが遠のいて、振り向いたその顔にはいつもの笑顔が浮かべられていた。あまりに不気味で顔が引き攣る。


「……すまない。けど本心なんだ。分かってくれるね?」


 向けられた視線は澄んでいた。裾を引く幼子のような、純粋な不安を湛えたそれに狼狽えて。妙な緊張にやがて失笑。


「……痛かった」

「ごめん」


 分かりやすく萎れる燈莉に怒りも湧かず。ただ呆れに、気にしてない、と伝えるように鼻を鳴らした。


「――燈莉さん、続いたことある?」


 わざと含ませた疑問。虚をつかれたような表情。だがすぐに、質問の本意を理解したようで。見慣れた不敵な笑みが向けられた。


「……特定の相手は作らないんだ」

「うわ。クズ」

「君に言われるのか。悪いけど、僕は博愛主義者だから」

「自分で言う?良く言ってるだけじゃん」


 高笑いが響く。心地よい虚ろさのそれになぜか酷く安心して。


眠気を思い出したようだった。ふあ、と気の抜けた欠伸の後で、去り際、ぽん、と肩に圧がかかった。


「――まあ、つまりさ。僕の知らないところであまり傷つかないでくれ。頼むよ」


 言い切って、返事も待たず彼はふらりと〝家〟に消えて行く。彼の背を見送った、一人涼風に吹かれ訪れた静穏。肩に残った温度の余韻に触れて。


 玲於れお、と呼んでいた。人を、それも身内以外の人間を呼び捨てるのは、彼にしては珍しい。あれほどまでに、人への憎悪を表現するのも。感情を表に出さないわけではない。けれど彼の振りまく感情はその全てが作り物じみていて。


 まるで、〝人形〟。


 ふと、数ヶ月前の記憶が海月の頭を過ぎった。未遥みはると初めて出た共同任務。


【女王】との、杜也となりとの死闘。生き延びた海月を、燈莉は震える手で縋り付くように抱き締めて。


 ――『よかった、生きてる』


 やけに耳に残っている。誰にも聞かせる意思がないあれは恐らく独り言だ。海月の無事に安心しながら、海月の無事を自分に言い聞かせるような声だった。


 知らぬところで、とは。ならば。


 あるいはあの言葉は、後悔のような、人の命への執着か。


 己の知らぬ彼の過去、その深淵を思い一人震えた。目にした彼の片鱗を、ならば虚構であろう普段の彼は、あの人工的でいて、内から滲み出るような幼さの奥に何を隠しているのだろうと。


 知る由はなかった。聞いて、彼が素直に教えるとも思えず。ただ、今は知りたいとも。


 ふ、と重く溜まった思考を吐き出して。外に出た理由を思い返し、海月は再びフードを被った。


 *


 葬儀屋、『廻命亭かいめいてい』。厳かな風格を保つ黒基調の静かなその一室を重い緊張が覆っている。


「何用だ、当主殿」


 押し固められるような沈黙に、美弥乃みやのの声が浮く。


「──はい。御二方に御足労願いましたのは、相次いでいる怪死事件についての――」


 崩れない逸世はやせの口調に、美弥乃の正面で笑いが起きた。


「相変わらず、硬っ苦しいね。随分と余裕があるみたいで」


 傭兵の隠れ家、その遊技場『ハイド』の支配人、出雲いずも柚琉ゆずるはそう口を挟んだ。嫌味っぽい彼の声に、しかし逸世はただ一言失礼、と受け流して。仕切り直すような咳払いの後で、逸世は続けた。


「――今回の件、これはあの禁忌の模倣犯の可能性が極めて高い。正直、一般の警察がどうこうできる規模じゃないでしょう」


 美弥乃の眉がぴく、と上がる。


「教団が再興したとでも言いたいのか?」

「確信があるわけでも、証拠があるわけでもない。ただ中身は全て人間だ。可能性なんて腐るほどあるさ。……人間の信仰の力はあまり舐めない方がいい、過去に学んだことでしょう」


 過去。数多の犠牲を出した史上最悪の墓荒らし。人間の狂気じみた信仰心も、戦争を長期化させたその理由で。


「……で、ぼくら葬儀屋で犯人を突き止めると?」

「最終的な理想はそれです。――教団の信仰対象は死屍守。だからまずは迅速に、今確認できるを一掃したいと考えています」


 がなくとも死屍守は絶えず生まれる。だが彼ら死人の帰る場所など、現世には必要ない。


 ふむ、と美弥乃は頷いた。


「――じゃあ、一般人の管理を徹底する必要があるな。今ある全てとなるとそれなりの数があるだろう?危険も高まる。誤って巻き込まれた、とか、くだらない理由に時間を使うのは惜しい」

「待って待って。そんなバカのために使う時間の方が惜しいとは思わない?お嬢さん」


 言いかけた逸世の同意をかき消すように、柚琉は煽るように吐き捨てる。何、と美弥乃は彼の薄い目を鋭く睨んだ。


「一般人を管理する必要なんてないって言ってるのさ。元々、そういう奴らはには近寄るなって言ってるのに面白半分で首を突っ込むただのバカだ。死屍守を都市伝説と信じて疑わない、頭の花畑で妖精飼ってるような連中。……救う価値があるって、ほんとにそう思いますか?」

「――口は慎めよ、小僧。ぼくらの目指すものはなんだ?たとえどんな阿呆であろうと、それで見捨てるのは変わらない人の命だ」

「アンタも硬っ苦しいな。考えてもみてくださいよ。そもそもそういうバカがいなければ、〝共生〟なんてすぐに叶います。僕らに協力的なら、たとえ都市伝説と思っていても面白半分で近寄ったりなんてしない。バカと〝過激派〟はイコールですよ。間引くチャンスだとは思いますけど」


「お静かに」


 熱のあがった両者の睨み合いを、逸世は静かに制した。


「柚琉の言い分も、まぁ理解できる。けれど、それで成されるのは共生じゃなく良くて併存だ。何度も言うが、ドールもゲンガーも全て人間。見捨てた、と捉えられて芽生えた不信感はまた同じ過去を繰り返す。……忘れがちですが、まだドールに対する偏見は残っている。その逆もまた然りです。私たちが恐れているのは死屍守より、ゲンガーとの衝突ですよ」


 はは、と乾いた笑いが落ちた。立ち上がり、ギュ、と革の擦れる音が固く鳴る。


「あぁ、怖いな。君は大人が過ぎるよ、当主様」


 くるりと二人へ背を向けて、柚琉は柔らかく微笑み手を振った。


「偉そうにするのはここら辺にしておくよ。僕らは、だからね」


 重厚な扉が開かれて、外まで送ろう、と逸世の横から志織しおりが駆け寄った。




 寒いくらいの葬儀屋の廊下、二つの靴音がバラけて響く。



「……穂村ほむらさん、君はゲンガーが好き?」


 少し黙って、志織は確かめるように言葉を紡いだ。


「好きとか、嫌いとか、そういうのじゃないな。逸世の言葉を借りると、ドールもゲンガーも全て人間だ。個性の一つって、それで片付くことだと思ってるよ」

「……そう。――じゃあ、命に変えてでも守りたい?」

「…………意地悪な質問だな。答えは人による、だ。俺は戦場に出たことはないのでね」

「そうか」


 昇降口の。扉を潜った先、温い風が冷えた身体に張り付く。吹かれるように去ろうとする柚琉の背に、志織はふと問いを投げた。


「……過激派は間引けばいいって、あれは本気なのか?仮にも同じゲンガーだろ」

「随分撤回が早いな。ドールもゲンガーも個性じゃなかったのか?……まぁ、答えはイエスだよ。あんなバカどもが同族だなんて、恥ずかしくて仕方ない。いっそ全員死んでしまえばいいのさ」


 薄手の上着が翻る。柚琉は夕陽色をした志織の目を見据えて言った。


「――例えば警官の謳うような正義で、守れる命なんてほんのひと握りだよ。この世界には、誰かにとっての悪でなければ救えない命が溢れてる」


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