第二十八夜 金蘭の契り

「はは、泣き虫」


 ぐい、と強めに顔を拭ってやって、赤く泣き腫らしたその茜色を見つめる。高めの体温が腕に触れて。呼吸を整えるように、未遥みはるはゆっくり口を開いた。


「なんでそんな……平気な顔すんの」

「え?」


 そんな顔をしているつもりはなかった。海月かづきは首を傾げる。


「……別に……じゃあ、悲しむのが正解?泣けばいいの?僕にそんな権利ないのに」


 子どものように。無垢な狂気をもって脳に浮かんだ言葉を吐き捨てる。だって分からなかった。自分の何が間違っているのか、未遥の疑問が本気で分からなくて。未遥が黙ってるのをいい事に、海月は捲したてるように続けた。


「……泣けばナツは許してくれんのかよ。謝った程度で許されんなら、僕はミユちゃんまで殺さなかった」


 未遥にぶつけるべきではないことは自覚していた。彼にこんな強い言葉を使いたいわけもなかった。けれどなにより怖かった。自分の感情が分からなくて。恐怖心を隠すように、海月は顔を歪めて笑う。


「――やっぱり、僕が生きてるのは間違ってたんだ。大人しく死んどくべきだった。死に時なんていくらでもあったはずだったのにね」


 僕がいたから。お前がいたから人が死ぬ。


 お前さえいなければ。


 未遥に口を開く隙すら与えず、海月は対象不明の呪いを吐いた。


「僕がしたことは重罪だ。まだ子供だったなんて言い訳にすらなんねぇよ。人殺しだよ僕は。僕は泣く資格もないただの加害者だ。ナツを探すとかそれこそ――」



「──違う!!」



 遮った、溜め込んだような未遥の怒鳴り声に思わず口を閉じる。海月を睨みつけながら、抑えるように、諭すように未遥は言った。


「死んでないよ。お前が諦めたらだめだろ」

「……生きてようが死んでようが、ナツが僕に会いたいって思うかよ。母さんも死んで、それでも命懸けで助けた奴にその責任押し付けられたんだぞ。諦めるも何も、僕が追い詰めたんだ。それが今更……。そもそも生きてたところで、僕に会う資格なんてないはずだ」


 キン、と耳鳴りがした。己が醜くて仕方なかった。こんなことが言いたかったわけじゃない。耐えられず顔を逸らそうとして、その時海月の胸ぐらを未遥が強引に掴んだ。


「資格資格うるせぇ!後悔してんだろうが!!悪ぃって思ってんなら!会って!謝んだよ!!」


 聞いた事のない音圧の怒号に怯む。包み隠すように、張り合うように声を荒らげて返した。


「──ッだからだよ、僕に会えばナツはまた苦しむ!」

「黙れッ!!決めつけんなっつってんだ!!姉ちゃんが戦場に言った理由だってお前の憶測だろ!!少しでも可能性があんなら諦めんなよ!!また一人にする気か!?一人が寂しいって、お前が一番わかってんじゃねぇのか!!」

「……っ、ぁ……」


 顔を歪めた。顔の奥で熱が押すような圧を持って。それでも真っ直ぐに見つめてくる茜色から逃げれなかった。その怒号の次に、酷く優しい声が降った。


「……大切な人が死んで大丈夫な人間なんているかよ。お前ばっか悪者にならなくてもいいじゃん。お前も被害者なんだから」

「やめて、まってみはる──」


 制止も叶わず、頬を両手で包まれて。目を逸らすことも叶わない。駄目だ。罪人に、それを流す権利は。


「確かにお前が言ったことに姉ちゃんは傷ついたかもしれねぇよ。でも姉ちゃんはお前が大事だったから助けた。お前も、姉ちゃんが大事だったからここに来た。それに嘘はないんだろ?資格なんてそれで十分じゃん。……手伝う、とまでは無責任に言えないけど。横にいるくらいならしてやるし。俺がお前を許してやる。だからお前も自分のこと許してやれよ」


 ぷつんと、なにかが切れた気がした。き止められていた波が押し寄せるように、痛みすら感じる何かに次第に視界がぼやけて。





 不破ふわ海月。それは十八年前、不破家のもとに生まれた甘えん坊で泣き虫な少年の名である。













「――落ち着いた?」

「………………うん」


 深く息を吸って。途端に襲ってきた気恥しさに、海月は未遥から逃げるように離れた。顔が熱を持っている。何年ぶりだろうか。声を上げて泣いたのは。さすられた背中、くすぐったい温もりの余韻。


「……あの」


 接し方が分からなくなって、かしこまった態度で未遥を呼ぶと、また優しい返事が返った。


「…………すみません、でした」

「――なに急に」


 怪訝な未遥の表情を直視出来ず。内側をさらけ出したあとではいつもの調子が出せなかった。と言うより、朧げだった己の過去が鮮明になって混乱していた。つまり。恥ずかしくて死にそうだ。堪らず顔を埋めて、その様子に未遥は引き気味に問う。


「お前そんな感じなの?」

「違うけど!なんかダメだ僕」


 隠れるように身体を丸めて悶えていると、頭上から楽しげな声が降りかかった。


「何が言いたいの、言ってくれないと分かんないから。ちゃんと目ぇ見て言ってごらん」


 余裕そうに、年上ぶって笑う未遥が頭に来て。火照った顔で彼を睨めあげて、不貞腐れたように言う。


「……ちゃんと……友達、なって欲しい……です」


 返答はない。ぽかんと、こちらを見下ろし彼はただ固まっている。冷たい汗が背中を伝う。


「……え、そこまで戻っちゃうの」


 漸く返った答えに今度は海月が固まって。気まずそうに、未遥は鼻の頭をいた。


「友達はクリアしてると思ってたよ、俺は」

「……あ」


 完敗だった。返す言葉はない。友達の作り方なんて知らないのだからと、頭の中で言い訳が駆け回る。黙り込んだ海月に、未遥は破顔。


「なあ俺、漫画で見たことあるぜ。友達同士が喧嘩してさ、でも仲直りしてもっと仲良くなる展開」


 子供の相手をするような柔らかい表情で、彼は首を傾げ続けた。


「――親友は、まだ早い?」


 きょとんと、目の前の茜色を見つめて。親友。その言葉の意味を反芻。緩くなった涙腺を引き締めるように、ふやけた背筋を伸ばすように。泣き腫らしてヒリつく目で海月は凶暴に笑った。



「ばーか、遅すぎる」




 *




「――お前さ、『飼い主』さんのこと、相当好きだったろ」

「……んだよ、急に。知ってどーすんの」


 気の抜けた空気が部屋に流れていて。なんとも言えない居心地の良さ。住み良い『墓守』の〝家〟。


「んー、別にどうもしないけど、何となく?そんな気ぃしただけ。どーなの」

「…………好きだったよ。当たり前だろ」


 自分でも確かめるようにそう答えて。雨音あまねとの戦闘時、あの時感じた人間に対する飢えの既視感。脳に浮かんだ『飼い主』の姿。愛はないと言っておきながら、いつまでも忘れられない元『飼い主』の存在。 呆れて思わず笑みがこぼれた。隣に座る『飼い主』は黙って目を伏せている。なんでも受け止めてくれるような寛大さが滲んでいて、海月は自然と口を開いた。


「――僕はさっきも言ったけどまともな教育受けてない。そもそも学ぶってことすら頭になかった。ミユちゃんに拾われるまで、時計の読み方も知らなかったよ。……全部ミユちゃんが教えてくれたんだ。セックスだってミユちゃんに教わるまで知りもしなかった」

「……へぇ……悪ぃ、ただの遊び人だと思ってたわ。案外純情?お前」

「いいよ、そういう事にしといて」


 愛、は確かに存在しなかった。あくまで飼い主と、その飼い犬で。けれど少なくとも、人として、女性として、主として、海月は彼女を好いていた。


 隣で目を覚ました『飼い主』は、いつも傷だらけだった。


 まるで喰われた後のような、その白い肌の奥で熟れた、赤い血の滲む痕。彼女はそれを、愛されている証拠だと受け取って。


 酷く幸せそうだった。だから別に、矯正するという思考すらなかった己の。あれは今となれば、もしかしたら自覚症状の現れだったのかもしれない。


 もう少し早く気が付けたなら、なにか変わっていたのだろうか。今更何を悔いようが、何も帰ってなど来ないけれど。


「……そーいやさ、僕もりんさんにお前のことちょっと聞いたんだった」

「はっ、?」


 自分ばかり掘り起こされるのはしゃくだと。ニヤ、と海月は未遥の顔を覗き込んだ。


「荒れてたんだって?ねぇ優等生?」

「てめっ……」


 やられた、と言わんばかりの焦りように、海月は余裕を滲ませ聞く姿勢を保つ。



 やがて、諦めたように息をつき、未遥は口を開いた。


「……仕方なかったっつーか。俺、頭悪いからさ、なんでみんなが正しいことしねぇんだろって、なんでわざわざ道を外れた行動するんだろって。そういう奴らが理解できなくて、全員を正そうとしちゃったの」

「それで暴力したんだ」

「…………そぉ。中学ん時色々あって。俺はドールだろ?そこら辺の不良なんかより動ける。人を正すためって暴力使ったせいで、今度は俺が不良だ。バカみたいだよな。うち、母子家庭に俺と妹だからただでさえ大変だってのに、……母ちゃんにはすげぇ苦労かけた」


 未遥はそう力なく笑って。裏表のない真っ直ぐな人間だと、臨の言っていたことがより深く理解出来た気がした。


「俺、高校行く気はなかった。けど母ちゃんが絶対行けって押してくれてさ。でも地元の関係は切りたかったから、こっち来て一人暮らししてた。勉強だ部活だバイトだって、めっちゃキツかったけどそれなりに上手くやれてたよ」


 含みのある過去形に、海月は視線を送る。未遥はそっと目を伏せた。


「高二に上がった時だな。新一年がいじめられてんの見ちゃったんだ。最悪だろ?新しい生活始まるってのにさ。……もう分かるだろうけど、俺はいじめてた奴らボコった」

「……いいじゃん、それって正当なやつだろ?いじめた奴らが悪いんだから」

「そん時は俺もそう思ってたよ。けど、俺のは行き過ぎた暴行って見なされた。普通に考えれば当たり前だけどな。そりゃ、ドールってことは隠してたけどそもそもドールとゲンガーの身体能力って結構な差がある。階級違いの格闘技みたいなもんだ。過剰だったの。俺のは正当でもなんでもないただの暴力。被害者と加害者の中身が変わっただけ。ちゃんと謹慎食らったし、なんなら中学のこともバレて、謹慎明けの周りの態度なんて最悪だったよ」

「…………」


 絶句した海月に、未遥は明るく笑った。無理にそうしたわけじゃない。過去を笑い飛ばすような、極めて純粋な、根明な態度だと分かった。


「けどな、先生……臨さんが助けてくれたんだ。俺が二年になるのと同じ時期に異動で来た先生があの人」

「……そう、だったんだ」

「あの人、凄いんだ。引くくらい大人で、なんで葬儀屋してんのか分かんないくらい、教師になるために生まれてきたっつーか?」

「……ふはっ、分かるかもしれない」

「だろ?」


 また、部屋に沈黙が降りた。居心地のいい、気を許せた仲に流れるような安定感の。


「……なんも知らなかったな、俺ら」

「……ね」


 会話は続かない。続ける気も起きないほど、この空間が心地よくて。





「……カヅ、」







「……………へっ?」


 だからその未遥の呟きが脳に届くまで時間がかかって。上ずった反応に未遥は吹き出す。


「カヅって、呼んじゃ嫌?」


 あざとく首を傾げた未遥に目が泳ぐ。また顔が熱をもつ。こんなに己はピュアだったろうか。動揺に、向けられた視線から逃げる。


「……や、別に、……なんでまた急に」

「なんでって……なんか親友っぽいじゃん?ダメ?」


 次第に悪戯そうな声色に変わって。不意をつかれたそれに勝ち目はない。


「……いいよ、それで」

「んへへ、やりぃ」


 嬉しそうな反応。拒む理由も、嫌悪感も浮かばなくて。ぱち、と彼と目が合った。何かを期待するように細められた茜色。ぐ、と喉が鳴る。


「…………ハル、?」


 ぱぁっと、花が咲くようにその双眸そうぼうが輝いた。


「おう」



 *



「あ、……なぁカヅ、忘れてた」


「……?……なんかあった、っ」



 言い終えるより早く、ふわりと優しい香りが身体を包む。飾り気のない、何よりも落ち着く未遥の匂い。



「おかえり」



 あったかい。数秒の思考の停止の後で、ツンと鼻の奥が詰まる。誤魔化すように彼の薄い胸に頭を預けて笑いが溢れた。



「――ただいま」

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